第35話「最低限とオリジナリティ」

「お待たせしました、ブレンドコーヒーです」

 三十前後ぐらいの女性店員が、微笑を湛えてコーヒーを運んでくる。


 格別に美人というわけではないが、端正な顔立ちでスタイルが良く、黒のストッキングを履いた長い脚はなかなかになまめかしい。

 スタイルの良さは浅井も引けを取らないが、私の好みからするとやや細すぎるきらいがあった。女性店員の程よく豊かな肉付きの両脚やたくましいヒップラインには、大失敗により心身ともに疲弊していながらも自然と目を奪われてしまう。


 二日目のソフィア祭茶会を終え、四ツ谷のルノアールで心身を休める。やはり、考え事をする時はこの空間に身を投じるのが一番だ。

 その前に、彼女の豊麗なそれらで弄ばれるような愚にもつかない妄想にしばし耽るため、コーヒーをひと口啜ってトイレに立った。店内は比較的空いていたが、直近で便意を催している客がいないことを祈って個室にこもる。


 五分ほどで妄想を終えて席に戻り、平山先生が言っていた“あなたらしく”、すなわち“私らしく”とは何なのか、今一度考えてみる。

 不器用で内向的な自分。それでいて目立ちたいなどと思っている、たちの悪い自分。他の部員と比べて練習量が多いわけでも、知識が豊富なわけでも、あるいは話術に長けているわけでもむろんない。

 いったい、それで如何様いかようにして自分らしさなど表現できるのだろうか。そんな余裕、いったいどこにあるだろうか。いや、皆と同じ正攻法で上手くいかないからこそ、違った観点から勝負すべきなのだろうか。

 くだらない妄想やとりとめのない自己分析をしている間に、ブレンドはだいぶ冷めてしまった。私は、でも喉に目の覚めるような苦みをもたらす冷めきったコーヒーが案外好きだ。


「私は囲碁はわからないけれど、たぶん、同じではないかしら」

 平山先生の言葉を想起し、脳内で咀嚼する。

 

 これまでの稽古の記憶を辿ってみる。畳の歩き方、薄茶点前、水屋仕事、そして半東。続けて、東や他の女子部員たちの所作を思い浮かべ、そこに自分自身を重ねてみる。

 東のような堂々たる振る舞いが、私にできるだろうか。もしくは、彼女たちのような溌剌はつらつとした笑顔を作れるだろうか。それがすんなりと実現できる自信はないが、何かを遂行するためには、最低限達していなければならない水準のようなものが必ずあるはずだ。

 

 囲碁において、ごく基礎的な手筋や棋理さえも理解し実践できなければそもそも一局を打ち切ることが困難なように、今回のケースでも、彼や彼女らの持つ手厚さや柔軟さのようなものは、茶席を居心地のよい空間とするために最低限必要な要素なのではないか。トイレで発散し、冷めたコーヒーを飲みきって冴えた脳に現実的な発想が降ってきた。

 

 すんなりとでなくて良いので、恥を捨ててできる限りの努力を打ち出し、その上で自身のオリジナリティを発揮することを考えるべきなのだろう。

 ここ最近における私の碁の傾向で言えば、多少のリスクを背負っても攻めの姿勢を貫くことで利を上げるスタイルだろうか。そうした冒険心を携えながら、今一度基本に立ち返ってみようと思った。


 コーヒーカップやティースプーンを用いてお点前のシミュレイションを行い、その後、半東の台詞を確認しながら笑顔を作る練習に乗り出す。先ほどの美脚店員が、決まり悪そうな微笑を浮かべながらサービスのお茶を持ってくると、私はちょうど練習中だったぎこちない笑顔を返した。


「あなたらしく、ね。やってやろうじゃん」


 冷めないうちにお茶を飲み干した後、メモ帳にふと思いついた秘策を書き留めた。

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