2010年・夏
入梅
第6話「ゴミみたいな日々」
光蟲が入院したのは、五月の終わりのことだった。
彼は大学一年の時から池袋のジュンク堂書店でアルバイトをしており、そこの知り合い数人で飲んでいた際、
これが例えば、周囲の人間が無理やり深酒を煽ったなどであったとすれば許しがたいことだが、光蟲の話では勝手に悪酔いして自発的にそうしたらしく、まだ良かったかもしれないと思う。詮索したわけではないが、彼が嘘を言っている気はしなかった。
二階から落ちて、よく右足の骨折とその他打撲だけで済んだものだと思う。
電話で聞いた話によると、落下の際に急速に我に返り、頭から落ちないよう体をねじっていたらしく――その動きが物理的に可能なのかどうかはさておき――、賢いのか馬鹿なのかよくわからない。
光蟲は必要以上に多くの科目を履修しているので、二週間の入院生活は結構な痛手ではないかと問うてみたが、「勉強もバイトも放棄してモラトリアムの極みみたいな暮らしだから快適だわ」と、呑気なメールが返ってきた。まったく
六月の中旬、四回分のフランス語の講義ノートやプリント類を持って、光蟲の見舞いに訪れた。
病院という場所は自分のためでも他人のためでも、なるべく訪れたくない場所だ。入院経験こそないものの、幼い頃からしばしば体調を崩しており、中学卒業のころまでは数ヶ月に一度は病院通いをするのが恒例だった。
病院そのものが嫌いというよりは、病院を構成する各種要素が嫌いだった。
目には見えないが雑菌だらけの色褪せたスリッパも、待合室に掛けられた安っぽい風景画も、診察室に漂う、アルコールと芳香剤を混ぜ合わせたような鼻につく匂いも、どれも不快なものだった。とりわけ辟易していたのは、受付の女性が無愛想で機械的な口調だったことだ。これはどこの病院や診療所でも百発百中で、もとより病院の受付スタッフに愛想など期待していないといえども、してやられたような複雑な感情が生じる。
光蟲が入院しているのは比較的規模の大きい総合病院だったが、やはり受付スタッフの態度は似たようなもので、ふと不本意な懐かしさを覚えた。愛想のないスタッフから面会用の名札を受け取り、エレベーターで彼のいる六階に上がる。
六階右端の四人部屋の、入ってすぐの場所に光蟲はいた。もう概ね回復したらしく、負傷した右足を持ち上げておどけてみせる。
「いんやー、参りましたね」
「窓から落ちるほど飲んだのかい」
半笑いを浮かべながら、ノートのコピーを手渡す。
「ありがとうございます、ホント」
コピーを受け取りながら、
「最近は? さすがに飽きてきたんじゃないの?」
モラトリアムな入院生活も、半月経てば解放されたく感じるかもしれないなと少しだけ思う。
「まあねー。なんもしなくていいから楽だけど、外出できないし酒も飲めないからね。ひたすら読書してるわ」
光蟲はちょうど、『実存からの冒険』というタイトルの小難しそうな哲学書――ニーチェやハイデガーの解説書らしい――を読んでいるところだった。
「面白い?」
「いや、ゴミみたいな内容だね。だけどまあ、ちょうどゴミみたいな日々を送っているところだから合ってるっしょ」
彼らしい、切れ味に富んだレスポンス。光蟲との会話において、私が無意識的に期待しているのはこういう返答なのかもしれない。それはただ愉快さを求めているだけでなく、どこか羨望を含んだカタルシスの獲得に似ていた。
「ラーメン、また行こう」
「ぜひぜひ。お礼にごちそうするよ」
受付で面会用の名札を返却すると、先ほどの女性スタッフが眠そうな表情で受け取った。
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