穀雨
第3話「瑣末な憂鬱」
四月の半ば、囲碁部に新入生が一人入部した。
新入部員の
私とさほど変わらないぐらいの背丈ながら、肩幅が広めで体格がよく、髪はワックスを使用して立たせており、一見すると体育会系の部にいそうな風貌だった。
井俣は、三段程度の棋力である私よりも数段上――推定五、六段程度――の実力者で、部室を訪ねてきた初日に早速対局した。
ハンディをもらうべきではないかと思ったが、初の手合わせということで力を確かめる意味で互先(ハンディなしの手合い)にて対局を行ったところ、案の定私が負けた。序盤から本意でない展開に嫌気がさして早い段階で投了したが、彼曰く、投了はいささか時期尚早だったらしい。
ふと、この先が不安だと感じた。
後輩が自分よりも格上であることへの劣等感がなかったと言えば嘘になるが、そうした実力の差から生じる感情よりも、これから先輩・後輩という間柄で日々を送らねばならないという事実に、また、先輩として私が部を率いていかねばならないであろう現状に、漠然とした不安を覚えた。元々、人付き合いは
部員の多い茶道部と異なり、二年生が私一人しかおらず、なおかつ三年生や四年生もさほどあてにできない囲碁部では、何かと主導で動かなければならないのは言うまでもない。前年度の部長である
部長と言えども規模の大きい茶道部や、あるいは体育会系の部活で担うのとはわけが違う。勧誘活動の一つもせず、新入部員は現状たった一人、活動日すら定まっていない潰れかけのような囲碁部で部長になったからといってどうということはないはずだ。
それにも関わらず気が滅入ってしまうのは例えば、部室に行くと週に一度か二度ほどゲーム目的の三年生がいたために退室し、昼食の場所を変えざるを得なかったとか、もしくは新入部員の井俣が多弁で、また男性としては少し声が高めであったことが気に障ったとか、甚だどうでもよい出来事の蓄積によるのだろう。
光蟲と会って以来、週二回のフランス語の授業は大学生活における数少ない楽しみの一つとなった。
グラマーのほうは無難な座学であるが、コミュニケイションの授業は名前どおり会話中心で、拙いフランス語で自己紹介をさせられたり、受講生同士であれこれ会話するよう促されたりするので、やや決まり悪かった。
光蟲とペアになって会話をする際、私たちは双方決まって半笑いになったものの、真剣に取り組んだ。所属学科の授業はたいてい寝ているかサボっているかなので――光蟲はどうか知らないが――、五限という時間帯でも比較的体力が余っていた。
「悦弥くん、囲碁の段持ってるの? すごいね、セミプロ級でしょ?」
金曜日。この前と同じラーメン屋で、私たちは同じ味噌ラーメンを食べている。
「そんな大したものじゃないよ。新しく入った後輩のほうがだいぶ強いしね」
「でも段持ってる人なんてそうそういないでしょ。一芸あるって羨ましいわぁ」
光蟲が、追加で三杯目の生ビールと餃子と半チャーハンを頼む。この前もそうだったが、彼はよく食べ、よく飲む男だ。その食事ぶりは見た目に似合わず清々しく、私はこの男の飲み食いする姿を見るのが楽しいのかもしれないと感じる。
「何してる時が一番楽しい?」
会話の流れとして適当かは分からないが、単純に興味をそそられた。
「楽しいというか、暇があれば映画観に行ってるね。年間百五十回ぐらいは映画館行ってる」
「百五十回!?」
思わず、井俣のように声が高くなった。
「フィルムセンターのキャンパスメンバーズカード持ってるからさ、だいたい無料で観られるんだよね」
「へぇー、そりゃすごいわ」
フィルムセンターというのは、
「昨日はロシア革命を題材にした映画を観に行ったよ」
「へぇー。面白かった?」
「いや、開始三十分位で寝てたから分かんないわ」
「寝てたのかいっ」
二日に一回近い頻度で映画を観に行っても、途中で寝入ってしまうことが多いらしい。
「まあ基本的に退屈な映画しかやってないよ。安いからね」
「そういうもんかね」
「客席にも、死にぞこないの老人たちしかいないし」
「これこれ」
ずいぶんなことを言うものだと、思わず笑みがこぼれる。
「すいませーん、生おかわり」
ジョッキを持ち上げ、光蟲が四杯目のアルコールに着手した。
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