第3話 粟立つ砂
中谷蒼汰が、大学を卒業してせっかく就職できた大手メーカーを、わずか半年で辞めてしまったことに特別深い理由があったわけではない。強いて言えば、古い体質の残ったその会社の、どんよりとした社風が蒼汰には合わなかったからだ。
まだ若かった蒼汰は、新たなステージを見つけることは簡単だと甘く考えていた。一週間だけ、だらだらと過ごした後、求人情報誌を買って再就職先を探した。しかし、いざ中途採用の口を探してみると、思うような会社はなかった。そんな中で、唯一蒼汰の心が動いたのは、中規模出版社の浅川書房という会社だった。
その会社は、大手出版社にはない独自の切り口の書籍を出すことで知られた会社で、読書好きだった蒼汰もよく知っていた。会社のホームページを見ると、世界にひとつだけの本を作る会社とあった。そんなところも蒼汰は気に入った。ということで、さっそく応募することにした。
採用試験の当日、会社内にある試験会場に行くと、30人ほど入る部屋はほぼ埋まっていた。一般常識のペーパーテストと面接試験で合否を決めるという。ペーパーテストは大学を出て間もない蒼汰にとっては簡単なものだった。恐らくペーパーテストは形式的なもので面接が重視されると思われた。
面接は、総務部長と社長の二人で行われた。痩せているせいか、背広姿が貧相にさえ見える総務部長の横に座る社長は、派手なジャケットにしゃれた眼鏡をかけた体格のいい40代後半とみられる男だった。いかにも、出版社のそれもやり手という感じが伺える人物だった。終始柔和な顔を見せていて、蒼汰は好印象を持ったのである。
実際に面接で訊かれたのは、前職はなぜ辞めたのかとか、当社を選んだのはどんな理由かとか、当社に入ったらどんな仕事をしたいか等々の、ごくありきたりのものばかりであった。そつなく答えられた蒼汰には合格の感触があった。また、その場で社長は、自社の経営理念について熱く語り、また近い将来の上場を目指すと述べた。そのことにも、蒼汰は感激し、なんとかこの会社に入りたいと思ったのである。
その日から一週間後、合格通知がきた。思いのほか簡単に再就職先が決まり驚いてもいた。さらに、その一週間後に出社した。
今回採用されたのは5人ということだった。他社での編集経験のある2名が編集部に、その他の3人が営業部への配属となった。会社の組織は、その編集部と営業部の他、書店管理部、総務部、さらには全くの別事業の健康食品の通販事業部があった。なぜ、この会社に健康食品の通販事業部があるのかと蒼汰は疑問に思ったが、その理由は後々知ることとなる。
しかし、蒼汰が入社した浅川書房は、いわゆるブラック企業だった。それに気づいたのは、一か月後あたりからだったが、その時にはすでに会社の見えない圧力の中に閉じ込められていて、辞めるにやめられない状況に陥っていたのだった。
入社した当日の朝礼で、社長を始め各部長から精神論を叩きこまれた。やる気、根性こそが仕事の成果を決める。わが社を支えているのは社長であり、その絶対的存在の社長に奉仕するのが社員の努めであると。社長が面接の時に見せていた穏やかで柔和な顔は人を欺くためのものだったと知る。
蒼汰には当初信じれない考え方であったが、批判などできようがはずもなかったし、毎日毎日聞かされているうちに、そうかもと思ってしまってもいた。それに初日から始まった長時間労働が蒼汰の思考力を奪っていた。もちろん、残業代など支払われない。この長時間労働の先導役が健康食品の通販事業の部長を務める永山真美枝だった。
たとえ、蒼汰自身の仕事が早く終わったとしても、通販事業部の仕事の手伝いをさせられる。社長がいなくとも、永山が一声発すると、みんなが従うのだ。なんで、永山がこれほどまでに影響力があるのかと思っていたら、社長の愛人であると先輩社員から聞かされ納得した。だから、誰も永山の言葉には逆らえないのだ。
毎日、寝るためだけに家に帰る。気がつくと、朝を迎え、遅刻せずに出社することだけを意識していた。遅刻すると、怒鳴られることはもちろん、罰金を言い渡される。しかも、罰金額は部長や社長のその時の機嫌で跳ね上がったりするのだ。
そして、あっという間に一か月が過ぎ、各人の成績結果が出た。残念ながら、新人営業部員の中で蒼汰の成績は最下位だった。もともと生真面目な蒼汰のような人間は、きちんとした社員教育を受ければ、それに沿った努力をして相応の成績は残せたはずだ。しかし、会社は中途採用者には一切の教育を行わず、現場にいきなり放り出したのだ。しかも、どうやっても達成不可能な高いノルマが課されていた。そんな中でも、蒼汰は蒼汰なりに精一杯の努力をした。しかし、社員の中でもっとも要領の悪い蒼汰はみんなの予想のごとく最下位になった。
すべての『結果』は、やる気や根性で決まるという価値観の部長や社長からすれば、蒼汰はやる気も根性も最下位と判断された。翌月初めの朝礼の際に、みんなの前で社長は蒼汰のことを名指しで非難した。『お前にはやる気のかけらも見受けられない。あほか、ボケ。うちにはそんな人間はいらないんだ。もう一度根性を叩き直して死ぬ気でやれ』
2か月目に入ると、蒼汰に対する異常ともいえる部長や社長によるパワハラ、いじめが始まった。最初は成績があがらないことに対してのものだった。
営業から戻り部長に報告をするが、その日も成果がないことがわかると、
「お前は会社を食い物にする給料泥棒だ」
「存在が目障りだ。いるだけでみんなが迷惑している」
「車のガソリン代がもったいない」
その場にいるみんなに聞こえるように大きな声で言う。恥ずかしさと悔しさで顔が熱くなる。しかし、元来生真面目な蒼汰は、自分の成績があがらないせいだと自分を責めじっと我慢する。
「すみません。頑張ります」
「頑張ります? 毎日同じこと言ってるんじゃねーよ。ええー、どうするつもりなんだ」
「ですから、すみません。明日からまた頑張ります」
それを聞いた部長は呆れかえったという顔をして、手だけであっちへ行けという意思を示した。
ようやく自分の席に着いても、同僚たちはみんな知らないふりをしている。蒼汰に関わることを避けているのだ。
それでも、たまに早く帰ることができれば、酒を飲んで憂さ晴らしをするとか、友達と会って愚痴を言うことで気分転換をはかれたかもしれないが、相変わらず、通販事業部などの手伝いで長時間労働は続いていて、心も体もズタズタだった。
そんな中、部長や社長のパワハラは次第に、蒼汰の人間性そのものを否定するものへと発展していた。
「今までよく生きてこられたな」
「お前、対人恐怖症じゃねーか」
など。
ある日のこと。部長に手招きされ、席まで行くと。
「なんだ、その目つきは?」
と言われた。その日は風邪をひいていて体調が悪かっただけなのでそう言ったら、
「風邪のせいだと? お前は今日に限らずいつも目つきが悪いんだよ。前から思ってたんだけど、お前って頭悪いんじゃねーのか」
すると、これを聞いていた、隣の通販事業部の部長の永山がにやけた顔で追い討ちをかけた。
「確か、中井君って〇大を優秀な成績で卒業したんじゃなくて」
「ああ、そうなんですか。恐れ入りましたね。はっはっはっ」
明らかにおちょくっていた。なまじ蒼汰が有名私大の卒業生だったことが気に食わないのであろう。学歴だけで言えば、蒼汰はどの部長よりも名の知れた大学を卒業していたのだ。
この頃になると、同僚たちの蒼汰に対する態度はさらにひどくなった。全社員が、社長、部長の支配下、主従関係にあるため、『上』の者には従順にならざるを得ないのでしょうがないともいえたが、蒼汰は完全に四面楚歌になっていた。誰も口をきいてくれなくなり、仕事の申し送りも無視された。何も聞いていない蒼汰が部長にその内容を確認すると、それがまた部長の怒りを買うという悪循環になる。
こうして精神崩壊の危機を迎えていた蒼汰に、社長からとどめを刺す言葉が投げられたことで、蒼汰はようやく自分を取り戻した。
サービス残業でくたくたになった身体に鞭打って、ロッカーから自分の荷物を持ち出し、事務所を出ようとした蒼汰を社長が呼び止め、社長室に入るよう命じた。ようやく帰ることができると思ったところに呼び止めらたので、少し反抗的で、疲れ切った顔をしていたのだと思う。そんな蒼汰を椅子に座ったままの社長が下から見上げて言った。
「なあお前、お願いだからこのビルから飛びおりてくれないか」
その瞬間、胸の奥が鈍くうずき、頭の毛が逆立つ感覚を覚える。これまで生きてきて初めて他人に対して強い殺意を覚えた。
「なんだその顔は。文句があるなら言ってみろ。どうせそんな勇気もないんだろうけどな」
人を蔑むだけ蔑む、この男を許してはならない。蒼汰は握った拳に力がどんどん入っていくのを感じた。
「ふざけるな」
自分でも低くドスの利いた声だと思った。社長は一瞬『おっ』という顔をした。
「ふざけるな」
今度は目いっぱい大きな声を張り上げた。社長室の横の事務所のみんながこちらを見ていた。
「お前たちみたいな人間のクズこそ生きてる価値はない。教えてやろうか。今日の今までお前たちが俺に浴びせてきたパワハラの一切を録音してある。そのパワハラと、労基法違反の長時間労働の実態も含めて労働基準監督署と警察に伝えてある。もちろん、社長の今の言葉も、この胸ポケットにあるボイスレコーダーに記録されている」
この会社がブラックだとわかった時から、蒼汰はボールペン型のICボイスレコーを買ってその都度録音していた。ただのバカだと思っていたかもしれないが、人を見くびるとこうなると思い知るがいい。
社長は何も言わない。いや言えなくなった。そんな社長を見ていると怒りがこみ上げてきた。蒼汰は、自分の荷物の入ったバッグを持ち上げ、思い切り床に叩きつけた。その拍子にバッグの中から物があふれ出た。その中に果物ナイフがあった。切れの悪くなったナイフを替えるために、偶然昼休みに買ったもの。それを拾いあげ、手に持つ。
社長の顔色が変わる。蒼汰は刃先を社長に向ける。
「心配しなくてもいいですよ。これはこのサービス残業を終えて家に帰った後、果物を食べるために今日買ったものです。こんな」
と社長を刃先で指す。
「クズたちのために自分の人生を台無しにするほど、私はバカじゃありませんから。ただし、あなたが何かしなければの話ですけどね」
床に散らばった私物に未練はなかった。蒼汰はバッグだけ持ち、ナイフを手に持ったまま社長室を出て事務所に戻る。みんなの顔が凍りついていた。蒼汰は、みんなの顔をじっくり、そしてゆっくり眺め回して言った。
「あなたたちが私にしたすべての言動は一生忘れませんよ。ありがとうございました」
軽く頭を下げ、ゆっくりゆっくり後ろ向きにドアまで行き、事務所を出た。
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