第2話 歪んだ景色

 12月に入り、世間が慌ただしくなった年の瀬に、父親が息子の首を絞めて殺害するという悲惨な事件が起きた。


「どうして?」

 という思いしか頭には浮かばない。自分の家系にも妻の家系にも、息子のようになっているものは一人もいない。

 44にもなった無垢子が自室に引きこもっているという現実が、今年70歳になる大野太一郎を苦しめる。逃げても逃げても現実は追いかけてくる。

「あなた、私はこれから

出かけるのでよろしくお願いしますね」

 妻の弓子の能天気な言動が最近とみに腹立たしい。もちろん、能天気に振舞っているだけなのかもしれないのだが。

「どこへ行くんだ?」

「昨日言ったじゃないの。〇大学の河野先生のところよ」

 妻の弟に精神科医の医者を紹介してもらったという話を昨晩聞いたことを思い出す。

「そうだったな」

 太一郎は妻の弟の紹介というのが気に入らない。本当はそんなところに引っかかっている場合でもないとわかっているのだが、気に入らないものは気に入らない。それに、精神科の医者に会ったところで解決策など出てくるはずもないと思っている。現に、これまでどれだけ多くの専門家と言われる人たちのアドバイスを受けてきたことか。そして、そのどれ一つとして根本的な解決に繋がっていない。だから、今現在の状況があるのだから。

 それなにに、妻は今でも情報を探し続けているし、何か新しい情報があれば飛びつこうとする。その行動力には感心もするが、反面鬱陶しくも感じている。

「昼飯はどうするんだ?」

「あの子の分は、いつものように台所に用意してあるからレンジで温めて出しておいて。あなたは悪いけど、出前をとってください」

「ああ」

 できるだけ不機嫌さを悟られないよう、平板に言った。息子のことを思って出かける妻に当たることは自分でも理不尽とわかっているから。

 妻が出かけてしまうと、急に空気が頼りなくなる。息子と二人だけで同じ空間に残されれると、このところずっと頭の中を占めてる危うい感情にまた支配されてしまう。

「どうして?」

 またしても同じ言葉を独り言ちていた。


 長男の一臣が産まれた時は涙が出るほど嬉しかった。一臣は女の子のような顔立ちをしていたし、実際女の子のように優しい子だった。3年後に産まれた妹のアカリの面倒もよくみた。今思うと、あの頃がわが家にとっては平凡だけど一番幸せな時期だったように思える。

 一臣が軌道からズレ始めたのは、中学になった時いじめを受けたことからだった。その頃から不登校がちになっていたが、それが決定的になったのは高校二年生になってからだ。高校に入ってからは幸いいじめを受けることもなく喜んでいたのに、原因不明の体調に襲われてしまったのである。一時期は身体がほとんど動かなくなって、車椅子生活を送っていた。その時も妻が病院巡りをしながら様々な治療を受けることで徐々にではあったが回復に向かったのである。しかし、当然ながら学校へ行くことは叶わず、結局中退という結果になった。 この頃からわが家にはいつもどんより重い空気に包まれていた。


 二階の一臣の部屋のドアが開く音が聞こえた。太一郎の神経が過敏になる。やがて階段を下りる音が聞こえる。自然に身構える太一郎。そして、太一郎のいる利便部のドアが開かれる。

「いないのか?」

「母さんは出かけた」

 お前のことを相談するために出かけたということは伏せる。

「ふん」

 返事とも溜息ともつかぬ言葉を発した後、思いのほか強くドアを閉めた。その音に太一郎はイラつく。

 

 高校を中退した一臣を何とか奮い立たせて大検を受けさせるようにしたのも妻だった。元来明るい性格の妻は、どんな時にも前を向こうとする。結局、大検に合格して大学に入学した時の妻の喜びようは今でも忘れない。しかし、それも長続きしなかった。再び中退してからは自宅に引きこもりがちになり、今に至る。

 その頃、太一郎は日々仕事に追われていて(実際に仕事が忙しかったことは確かだが、それを理由に息子のことを妻に押し付けていたとも言える)、自分から息子のために動いたことはなかったのだから、自分に妻を責める資格などないとわかっている。そんなことを考えていると、口の中に嫌な苦い味が広がる。

 幸い、娘のほうはごく普通の人生を歩んでくれて、今では結婚して孫までいる。そのことだけが救いである。


 再び階段を下りる音が聞こえる。そして、今度は玄関のドアの開閉音が聞こえた。またパチンコに出かけたのだ。漠然として未来への不安が色濃くなっていく。

 息子が出て行ったことにホッすると同時に激しい怒りも込み上げてくる。カーテンをばさりと揺らして風がひとつ入ってきた。いつの間に冬枯れた青空は雲に覆われていた。

 

 大学を中退した一臣は、たまにアルバイトをしても長続きしたことはなく、すぐに辞めてしまう。そうしたことを何度か繰り返した後、自宅に引きこもるようになってしまったのだ。そんな息子にも、妻は食事や洗濯といった身の回りの世話をやいていたし、自分がパートで働いた給料の中から小遣いもやっていたらしい。そうした事実は、太一郎が定年退職して、ほとんどの時間を家で過ごすようになってわかったことだ。

 その他、それまでわからなかった息子の行動もわかるようになった。一臣はほとんど部屋に引きこもっているが、ごくたまに部屋を出る。その場所がパチンコ店だということがわかったのは、近所に住む老人が太一郎に近寄り耳打ちしたためである。老人からすれば親切心で言ったのかもしれないが、言われた太一郎にすればわが家の恥を指摘されたとしか思えず、頭の中がカッとしたのを覚えている。


 もう限界だった。心の深いところが震える。これまで何回も何回も考えたことを実行するしかないと決意する。幸い、妻は夜まで帰らないと言っていた。息子はいつものようにあと、2時間以内には帰ってくる。それまでに準備を終えておかなければならない。


 すべてが終わった時、太一郎はスイッチが切られた瞬間のように、その場に崩れ落ちた。心はまるで冷えた蝋のように固まっていた。これでやっと負の堂々巡りから解放されたという不思議な調和が、そこにはあった。このまま眠りさえすれば、まっさらな新しい次の日がやってくるような気さえする。


「なぜ息子の首に手をかけたんだ?」

 自分より少なくとも10歳以上年下と思われる刑事の言葉に太一郎は少し考えたあと言った。

「自分が年取っていく中で、息子の将来を悲観してやりました」

 そう答えながら、果たして本当にそうだったのだろうかと太一郎は思った。目の前に存在する自分によく似た不気味な生き物に対して、先に手を下さなければ自分がやられてしまう。そんな思いがあったようにも思う。

「そうか。でも、その瞬間に躊躇いはなかったのか?」

「ありませんでした。その瞬間は、ただただ憎しみです。わが家に不幸をもたらしたすべての元凶のコイツの息の根を止めてやる。それだけでした」

「そんなことをしたら、結局奥さんや娘さんを辛い目にあわせることになるとは思わなかったのか」

「刑事さん、私は追い詰められていたんです。というか、自分で自分を追い詰めてしまったのかもしれません。だから、妻や娘のことを考えることなどできませんでした。いや、違いますね。むしろ、妻や娘のためにもアイツに手をかける必要があると思っていたんです」

 あの日あの場所に、もし妻がいたら、自分は妻も手をかけていたと思う。それが妻のためだと信じて。

「刑事さん、考えても見てください。もし、私と妻が死んだあとに、アイツが他人様に危害を加えたら、そのほうが娘を苦しめることになりませんか。その可能性は大いにあったと、私は思っています」

「言っている意味はわかる。だからといって、息子さんの殺人を認めるわけにはいかんけどな」

「それはわかっています。私は息子の殺人の罪から逃げるつもりはありません」

「わかった」

 太一郎は、所詮、人の心の傷の深さなど自分以外には伺い知れないと思っている。妻の心の傷の深さや娘の心の傷の深さが自分にわからないように、妻も娘も自分の心の傷の深さはわからないであろう。もちろん、一臣にもあったであろう心の傷の深さが、父親である自分にも最後までわからなかった。もちろん、目の前の刑事にわかるはずもない。





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