殺したいほど憎いヤツ

シュート

第1話 暗い決意

 皆さんは、これまで生きてきた中で他人や身内の人間に耐え難いほど嫌な思いをさせられ、「殺したい」と思った経験はありませんか。生きてきた年数にもよるとは思いますが、1人や2人はいるのではないでしょうか。私は長く生きてきているので、これまで5人位そういう人に出会っています。

 でも、“殺したい”とは思っても、実際に実行に移すということとは、もちろん別です。人間の感情というのは、それほど長続きしないので、その瞬間はそう思っても、時がたつことによりその感情が薄れ、やがては、その思いを意識の底に押し込むことで解決することがあります。あるいは、強い理性によって抑えるということもあるでしょう。

 ということで、「思うこと」と「実行すること」の間には大きな境があるように思えます。でも一方で、その境は、案外脆いものだということも理解しなければなりません。たま、たま、その場に凶器となりえる物(たとえば、大きな花瓶等々)があった場合には、衝動のまま実行してしまうこともあります。

 そんな危うい、人間の心の動きを5つの物語にしてみました。



 ノベルティグッズなどの販売を手掛けている小さな会社を経営している田中誠は、いつも明るく、元気だ。というより、本来根暗な性格の自分を奮い立たせる意味で、明るく、元気に振る舞っているというのが正解だ。社長が明るく、元気でないと、社員はついてこないと思っている。社員といっても、専務で経理担当の妻と、営業の村田という男と、後はパ-トが2人しかいないけれど。

 今日は、大学時代の友人で、経営コンサルタントをしている遠野洋一が、顧問先企業を紹介してくれるというので、先方に向かっている。遠野によれば、先方は着物を中心として、現在は洋服や宝飾なども販売しているチェ-ン店だという。メインである着物の衰退とともに売り上げは落ちているものの、年商は300億を超えるという。展示会などを頻繁に行っていて、その際にノベルティをつけているので、商談が可能だろうということで声がかかった。田中のような小さな会社にとっては、魅力的な話しだったので、サンプルも用意して、気合も入っている。

 遠野と最寄駅で待ち合わせし、本社まで徒歩で向かう。途中、遠野から話があったのは、会長兼社長の山田という人物は、超ワンマンで、外部の人間にも平気で口さがない言葉を言うけれども気にするなということだった。誠のこれまでの経験でも、中小・中堅企業ではよくあることで慣れているので大丈夫と答えておいた。ただ、ワンマンということは、その社長がOKを出せば即決だから、話は早いとも言われた。それは、誠にとっても有り難いことである。

 本社はメイン道路から少し入ったところにあった。5階建ての自社ビルは、結構古いビルではあったが、落ち着いた感じであった。先方の指定した時間の5分前に着き、1階の受付で遠野が名前を告げると、2階の奥の応接室に通された。

 しかし、社長は一向に現れなかった。しかも、遅れている理由を知らせにくる社員はいない。誠は、内心どういう会社かと怒りを覚えていた。遠野も苛立っている様子で、何回も総務のところへ行っているが、ただ社長がまだ来ていないというだけで何もわからなかった。

 結局、社長が現れたのは、指定の時間から50分を過ぎていた。現れた社長は、遅れたことを謝るでもなく、遅れた理由を説明することもなかった。遠野から誠の会社の事業案内を見せるよう促され、誠は慌てて資料を社長の手元へ差し出す。社長はそれをじっと見ていたが、開口一番こう言った。

「ここに、売上高が書いてないけど、君のとこの年商はいくらなの」

 確かに、年商は書いていない。それは「会社案内」のほうに書いてあるからだ。そのことを説明するのも面倒なので、口頭で答える。

「年商ですか、大体、2,000万円です」

「あっ、そう。2,000万ね-、うちに比べるとゴミみたいなもんだね」

 その瞬間、誠は全身の血が頭に上るのを感じた。確かに、年商300億円超の会社から見れば、2,000万はごく小さい金額かもしれないが、「ゴミ」呼ばわりされる覚えはない。

 他人から見れば、その程度のことでと思われかもしれない。誠自身これまでにもいろいろなことを言われた経験を持つが耐えられた。しかし、今回の「ゴミ」発言は、誠にとっては、深く傷ついたのである。小さいながらも、自分の会社に誇りを持っていた。誠実に仕事をしてきた。それを全否定されたと感じた。さらに言えば、自分のことだけでなく、妻も、従業員も否定された。だから許せなかったのだ。横に座っていた遠野の手が、誠の膝に軽く触れた。我慢しろという合図であることはわかった。誠は、歯を食いしばりぐっと我慢した。何も答えないことで堪えた。当の社長は、こちらの気持ちなど意に介していないようで、さらに話を続けた。

「それで、お宅のノベルティって、どんなものがあるの?」

 事前に遠野から社長に資料が渡っていると聞いていたのだが、見ていないようなので、改めて商品パンフレットを渡す。すると、社長は軽く目を通し

「ふ~ん、こんなものしかないの。まるでガラクタだね。うちのお客様は目が肥えているから、これじゃ話にならないね。遠野先生、悪いけど、使えるものはないよ」

 誠のほうは一切見ず、遠野のほうだけに目を向けて言う。遠野は困ったような顔を見せるも

「そうですか」

 そう言うしかないのだろうが、誠はそんな遠野にも納得できない。ただ、誠はもう商談などどうでもよくなっていて、早くこの場を立ち去りたいということだけを考えていた。

「じゃあ、私はこの後会議があるので」

 社長はそう言うと、さっさと応接室を出て行った。社長が応接室に入ってから出ていくまで、10分位しかたっていなかった。

 その日、誠はどうやって自分の会社まで戻ったか、よく覚えていない。隣で、遠野がしきりに詫びていた記憶はあるのだが、そんなことはどうでもよく、誠は社長に対する怒りの気持ちで頭がいっぱいだった。これまで生きて来て「人を殺したい」と思ったのは初めてであった。

 誠のその気持ちは何日たっても消えなかった。本当は、時がたてば自分の気持ちも収まるのではないかと思っていたのだ。だが、その時のことを思い出すたびに、怒りが沸騰してくる。妻には、今回のことは話していないが、何かあったことを感じているようで、しきりに確認をしてくるが、大丈夫だとしか答えていない。

 誠の気持ちは限界に達していた。そして、いつしか誠はサバイバルナイフを購入していた。自分のこの怒りを鎮めるためには、もうやるしかないという思いに達していた。誠は実行に移すため、本社の周辺に何度も行き調べた。その結果、社長は自分の車で帰宅するのだが、本社裏の駐車場にいつも1人で向かうことを確認した。その時がチャンスである。

 今日がその決行日である。誠は、胸ポケットにナイフを忍ばせて電車で本社へと向かう。その途中、何度も胸ポケットに手を入れ、ナイフを確認した。だが、電車で移動中、誠の気持ちは揺らいでいた。いざ実行となると、恐怖が襲ってくる。また、妻やまだ幼い子供のことが頭をよぎる。そのため事務所を出る時はあれほど強かった殺意が少し萎えてくる。だが、誠はあの日あの時の光景を瞼に浮かべた。

 予定通り、社長の帰宅時間に合わせて、本社裏の駐車場に着いた。少し早く着いたので、近くでじっとその時を待つ。

 やがて、社長が本社裏のドアを開け駐車場へと出てくる姿が目に入った。先ほど、電車の中で一度緩んだ社長への殺意が、社長の顔を見た瞬間、また激しい憎悪となって湧き上がってくる。「許せない」「殺してやる」。誠は胸ポケットに手を入れるが、緊張でその手は震えていた。しかし、何度も何度も頭の中でシミュレ-ションしてきたことだ。必ずできる。そう自分に言い聞かせて、ナイフを取り出そうとした時だった、社長の後ろのドアが再び開き、総務の女性が社長の側へ近づき何かを話している。その女性は、あの日、唯一私に社長の非礼を心から、しかも何度も何度も頭を下げて詫びてくれた女性だった。その女性の姿に妻の姿が重なった。年齢も妻に近いと思われる、その女性の優しさの記憶が胸を締め付けた。私は、取り出そうとしていたナイフに触れた手を離した。自分が間違ったことを犯そうとしていたことに、目が覚めた。



















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