第四十七話 孫子、三行

 半刻前、晴幸おれの屋敷



 行っては駄目だ、このままでは晴信の身が危うい。

 俺は次第に、脳内がぐちゃぐちゃになってゆくのを感じた。

 知っての通り、俺は歴史に詳しくは無い。スキルも使えない以上、晴信が何時、どの様に死ぬのかは分からない。

 ただ、俺は迷わなかった。歴史は変えるべきではないことは重々承知の上だ。しかし、此処で死ぬ運命だったとしても、やはり家臣である以上、救うに越したことは無い。


 俺は辺りを見回す。ふと己に浮かぶ違和感を悟った。

 此処から上原城への距離はそれほど遠くは無い。しかし、辺りは想像以上に殺伐としている。晴信が襲撃を受ければ、町は騒ぎになって居る筈だ。

 あくまで可能性に過ぎないが、もしかしたら、まだそれほど遠くへは行っていないのかもしれない。



 「菊殿、殿はどれほど前に出立なさった」

 「た、確か、四半刻前頃だと思います」

 予想通りだ、まだ間に合う。俺は息を吐き、菊の方を見る。

 「菊殿、頼みが有る。村一番の足を持つ者に、此処に来るように促して欲しい。また、紙と筆を貸してくれないか」

 俺が何をするつもりなのか、言わずとも分かるだろう。晴信に文を届けるのだ。

 其処に書く内容も既に決まっている。時が無い故、長々と文章を書くつもりは無い。転生する前に、格言を調べる事にはまっていた時期があった。その時、偶然にも目に留まった言葉。


 中国の春秋時代、この時代から数えて約二千年程前に存在した、〈孫子〉という人物の言葉である。



 『戦うべきと戦うべからざるとを知る者は勝つ。衆寡の用を識る者は勝つ。上下の欲を同じくする者は勝つ。虞をもって不虞を待つ者は勝つ。将の能にして君の御せざる者は勝つ。此の五者は勝を知るの道なり。故に曰く、彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず。彼を知らずして己を知れば一勝一負す。彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必らず殆うし。』

 

 【訳】

 戦って良い時と戦ってはいけない時を知っている者は勝利する。大軍と小軍の運用をわかっている者は勝利する。上役も下役も志が同じならば勝利する。万全に整えて不備な敵を攻めれば勝利する。将軍が優秀で主君が干渉しなければ勝利する。この五つの事は勝利する道理である。敵の実情を知り、己の実情を知っていれば、百回戦っても敗れることがない。敵を知らず自分ことのみを知っている状態なら、その時次第で勝ったり負けたりする。敵を知らずに自分のことも知らなければ、戦う度に必ず敗れる危険がある。



 俺が文に記した三行の文は、この文章の後半に書かれた部分を抜き出したもの。

 敵の素性が明らかでない状態で挑めば、幾ら名将といえども、負ける事もあると諫めている。

 晴信ほどの教養の持ち主ならば、此れが孫子の言葉であり、この文章が意味している事までもが理解出来る事だろう。


 「晴幸様!」

 書き終えたその時、男を連れた菊が戻ってくる。俺は男に文を託し、晴信の許へ届けて欲しいと頼む。

 四半刻前、つまり三十分前。それなら、走れば二十分足らずで追いつける筈だ。

 男は屋敷を飛び出し、上原城へと向かう。俺は息を吐き目を細める。此処までくれば時間との勝負。


 「菊殿、忝うござった」

 一仕事終えた後、不意に出た言葉。菊の浮かべる微笑みに、俺は何処かこっぱずかしい気持ちになった。







 【武田本隊】


 帰還を決めた晴信は、元来た道を引き返し始める。

 俺の予想した通り、晴信はその三行から晴幸おれの真意を殆ど理解していた。

 (恐らく奴は、他の手勢も用意して居たな)

 高遠の用意周到さには、やはり驚きを隠せない。想像以上に恐ろしい男のようだ。此方側に仕えていた間に、其処まで事が進んでいたというのか。


 「殿、先程の文は」

 「恐らく晴幸のものじゃ、全く、あやつは至極遠回しに物を言う」

 「晴幸殿、目を覚ましたのか……!」

 晴信は内心安堵していた。もし彼の意識が戻らず、かの文が来なければ、今頃高遠の策にまんまとはまっていた事だろう。

 それに、千代宮丸をここに連れて来なかったことは、不幸中の幸いであった。


 枯葉を踏む音が妙に心地よい。秋が深まってゆくのを感じた。

 戦が終われば、また皆で紅葉を見る事は出来るだろうか。

 晴信の脳裏に浮かぶ情景は、彼の思考を違う方向へと導いて行く。



 その時、一本の矢が、晴信の馬に刺さる。


 「!?」

 馬の甲高き叫び声を聞き、皆が驚きを見せる。

 一瞬にして、晴信の意識は現実へと引き戻されるのであった。



 「待て、逃がしはせぬぞ」

 其処に現れたのは、無数の敵兵と思わしき者達。家臣達は晴信を囲むような形で刀を抜き、構える。

 どうやら自分達が本拠地へ戻ろうとした所を、見計らっていた様だ。

 じきにこのことが高遠達の耳にも入り、此処に救援を寄越すだろう。彼らはその為の時間稼ぎ。


 「殿、此処はお任せくだされ」

 「頼んだぞ」

 虎胤の言葉に頷きを見せ、晴信は数名の家臣を引き連れ再び引き返す。虎胤隊は彼への追撃を防ごうと道を塞ぎつつ、抗戦する。


 枯葉が血で紅く染まり始める中、上原城では高遠へ、かの知らせが舞い込むのであった。

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