第四十八話 闘志、決断
「何!?晴信が引き返しているだと!?」
高遠は呆然とその知らせを聴く。
一体何が起きてる?思考と理解が追い付かない。その傍ら、有賀の遠江守は彼を睨みつつ、小さく息を吐いた。
「策が破られたか。高遠殿、如何するおつもりじゃ」
破られた?馬鹿な。儂の策は完璧だった筈だ。何処に欠落した要素があるというのか。
高遠は頭を抱える。様々な憶測を並べつつ、遣いの者の言葉を脳裏で反芻する。
まさか、援軍の中に間者が紛れている?いや、そんな筈は無い。調略にかける暇は無かった筈だ。少なくとも高遠が見る限り、晴信はそんな様子を一度たりとも見せなかった。
(ならばこの違和感は何だ?)
高遠には、自身が何かを見落としている様にしか思えなかった。
その時である。途端に風が吹き、高遠は目を見開く。
待て、武田家中で儂が援軍を頼んでいた事を知っている者は何人いる?
風が陣中を吹き抜け、枯葉を巻き上げる。
ようやく気付いた、己の中の違和感。
そうだ、一人しかいない。あの男だ。
高遠は唇をかむ。
失態だ、儂の失態が招いた状況だ。
興奮気味につい口走ってしまった事が、仇となってしまった。
今になって殺しておくべきだったと、高遠は我を悔やむ。
「如何した」
有賀の声に我に返る高遠。何でもないと声を掛け、眉に皺を寄せる。
こうなれば儂が先頭に立ち、此度の責任を取る他ない。
いけるか。高遠は己に問いかける。晴信の事だ、恐らく我が家臣団は今頃足止めをくらっている事だろう。
だが、戦況としては十分に有利な立場だ。時をかけさえせねば、晴信が戻る前に藤沢が事を済ませてくれる。
呼吸が徐々に荒くなる。苦渋の決断の末、高遠は汗ばんだ右手で采配を握った。
「目が怖いぞ。冷静になれ高遠殿」
その時、高遠の肩が何者かに掴まれる。其の方を向くと、矢島が険しい表情を浮かべている。
身体が熱い。此処に来て初めて、高遠は己に生じた異変に気付く。
息切れや動悸を起こす身体に、己のものでないかのような感覚を覚える。
「此処で急ぐ必要など皆無じゃ。此処は耐え時、晴信とはいずれ、宮川で相対することになろう」
宮川、それは諏訪領が東西に分けられた間の地。それを聞いた高遠は采配を持つ手を下ろし、俯いた。
戦を仕切る将は、冷静さが何より必要とされる。
己の中の闘志を胸に秘めつつ、冷静でなくてはならない。冷静さを失えば、それは敗北を意味する事と同じ。
彼の言葉を十二分に理解した高遠は、上原城を落とした後に、静かに身を引く事に決めた。
また、襲撃の時を見計らっていた藤沢にも其の件が伝えられると、一度も武田側に悟られること無く、身を引くこととなったのである。
後に飯富、甘利率いる家臣団が上原城へ攻撃を仕掛けたが、立て籠る諏訪勢の守備が固く、撤退を余儀なくされた。
【甲斐 躑躅ヶ崎館城下】
武田本隊は何事も無く城下に辿り着く。晴信がまず向かったのは、原虎胤の屋敷。
「お、御殿様!?」
菊の声に俺は反応する。晴信と数人の家臣が屋敷へ入り、俺の前に立つ。菊は逃げる様に、その場を静かに離れる。
「此度の文、誠に大儀であった」
「……は」
まだ傷口が塞がっておらず、立つことも屈むことも出来ない俺は、その場で頭を下げるのみである。
その様子を目前に見た晴信は其の場に屈み、俺の顎を持つ。
「!?」
彼の行為に、周りの者は皆揃って、驚きの表情を見せた。
「高遠とは再び会う事になろう、その際は其方にも出陣を命じたい。
今は己が身に専念せよ」
無論俺も内心驚いていた訳だが、平然な態度で頷く。
俺の反応を見た晴信はうすら笑みを浮かべ、元来た道を引き返し始める。
再び会う、か。
不意に外を見た俺の目に、色づき始めている紅葉が映る。
気付けば、武田に仕え始めてから二年が経っていた。
「菊殿、終わったぞ」
俺の言葉と共に、菊が恐る恐る顔を出す。其の様に俺は可笑しくなり、微笑した。
春まではまだ遠い。俺は再び横になる。
次の戦は、いつになるのだろうか。俺は傷口を
この怪我が出来る限り早く治らないことを、心の中で願っていた自分がいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます