第四十話 信頼と、愚かさ

 夢見心地となっていた俺に、虎胤は頬を緩ませる。

 「何故そんな顔をする、晴幸殿」


 いや、疑っている訳ではない。無論疑いたくないというのが本心だが、今ではその笑みさえ歪んで見えてしまう。不思議なものだ。俺の瞳は、常に偽りを映さないものだとばかり思っていたのに。


 「案ずるな、儂の家臣の仕業だとしたら、こう証拠ばかり残さん」

 安心するべきか?その言葉は、信用するに値するものか?

 吟味する必要性を感じるほどに、虎胤に対する俺の疑心は深まっていく。


 「……どこまで御存じであらせられる」

 それが、言葉を選びに選び抜いた俺の精一杯の問いだった。

 触れるべきことに触れようとはしない。しかし知りたい、ただ知れば壊れてしまう。そんなジレンマを抱える俺の発言は、あえて核心に迫らず、震えそうな声を極力抑えたものだと、俺の中で理解していた。

 それに対する虎胤の発言は、思いのほかすんなりと発されたものだった。


 「八日前の事を覚えて居るか」

 八日前?それは確か、晴信と諏訪御料人の下に男が誕生した日だったか。

 それが一体どうしたというのか。その日、何か別に大事が起こった訳でもなく、思い当たる節などある筈がない。


 「あの日、儂は二人の話を偶然耳にしたのじゃ。

  一方の男はこう申して居ったわ。直に晴信の下に赤子が生まれる、士官という道に落ち着いたが、儂は諦めた訳ではない。と」

 「其の発言主は」

 「さあ、通りすがりに耳にしたこと故、皆目わからぬ」

 

 彼の話が真実だと仮定すれば、筋は通る。その男が主君の出産が近いと知っていたならば、計画も立てるのも容易かったものだろう。出産の騒ぎに乗じて行動を起こせば、身を紛れさせられる。

 いや、仮定以前に、恐らくだが虎胤の言い分は正しいものだと思われた。何故なら狐の男が発した裏切者発言は、この虎胤の発言によって証明されたようなものだからだ。だとすれば、自動的に虎胤はシロとなる。

 少し考えてみれば分かる事だ。今になってみると、虎胤が俺に対し先立って疑問を投げ掛けたのも、単に俺にこの話を振る為の前置きだったのではないかとも思えてきた。


 俺は己の愚かさを恥じる。

 俺は彼を、友だと信じていたのではないのか。

 罪悪感と共に、硬直していた身体がぶるりと震える。


 「申し訳ありませぬ」

 突然の謝罪の言葉と御辞儀に虎胤は驚きつつ、俺の心情を理解したかの如く、ふと笑った。

 俺は、友を失う事がただ怖かっただけなのかもしれない。己の中に芽生えた安堵の感情を抑えきれずに、俺は頬を緩ませた。


 



 その後、俺は晴幸に一連の出来事を言い伝える。晴幸は俺の愚かさを馬鹿にすること無く、労いの言葉をかけた。

 晴幸は、其の男が昨晩何者かの許へ使者を送り、其の使者こそが狐の男であると予測する。それはあながち間違ってはいないだろう。少なくともこの旨を、晴信に一刻も早く伝えなければならない。


 「頼み事を聞いてはくれぬか」

 俺は晴幸に語る。それは〈その時〉が来た時に、山本晴幸としての俺が取るべき行動について。

 面白そうだと、晴幸は了承する仕草を見せる。俺は彼の発言に苦笑しながらも、理解を示したことに安堵していた。

 手筈は整った。あとは、その時を待つのみである。



 其の時、俺の名を叫びながら屋敷へと転がり込む一人の男。俺は突然の事に驚く。


 「晴幸様!伊那郡の藤沢勢が此処、武田領に向かって居る模様!急ぎ軍議を開くとの知らせにございます!城へと御向かい下され!」


 突然舞い込んだ一報。俺は驚きを見せつつ立ち上がる。

 予想はしていたが、此れ程早かったかと。

 其の時、俺の背に寒気を感じる。



 「事は全て把握した、この儂に任せよ。

  なに、巧くやってやるわ」


 晴幸の言葉に、俺は視線を移すことなく頷く。

 全身が痺れるような心地の中で、俺は目を閉じる。心臓がどくんと大きく鼓動を打つ。

 見開いた〈俺〉の目に、光は無い。


 「あいわかった、直ぐに向かう」

 そう言い残し歩き始めた晴幸は、うすらと不敵な笑みを浮かべていたのだった。

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