第三十五話 未練、忘却

 諏訪勝頼の名はたちまち家中に広まり、家臣等は総出で騒ぎ始める。

 中には、日も暮れて居ないというのに酒を用意する者まで現れていた。


 皆がその一報に沸く中、俺は唯一人、城内の一室に籠っていた。

 騒がしいのは苦手な俺は、極力こういったものには参加したくない。

 俺は仰向けに寝頃がる。


 それにしても、晴信もたいそうな名を付けたものだ。

 〈勝つ〉なんて、付けられた当人からすれば相当な重圧だろうな。



 ふと、昨日の昼間の出来事が俺の脳裏に映像として現れる。

 俺が晴信の子の出産が間近に迫って居る事を知ったきっかけは、言わずと知れた本諏訪家家臣、高遠頼継が俺の屋敷へとやって来たことにあった。また、先の戦の御礼という名目で、俺に甘柿の差し入れを渡す為の来訪だと説明していた。


 「実を言うと、頼重殿の一件には、少しばかり未練が残っていたのじゃ」


 彼が俺に語ったのは、諏訪の頃の自分と、今の自分について。頼重に不満を持っていたというのは確かだが、やはり主君に対する裏切り行為には、相当思い悩んだことだろう。彼は終始笑顔を浮かべていたが、彼自身の抱える心残りは、恐らく早々消えることは無い。


 それが裏切者の宿命かと、俺は彼を憐れむ。現に俺自身が転生する前も、俺の周囲は騙し騙されで溢れかえっていた。時に己が傷付くこともあった。それが心の傷と成り、完全に癒えるには時をかける必要があった。二度目は無いと信じながらも、癒えぬままに傷つけられる。いわば社会の縮図を無理に見せつけられたような心地である。そういうのは、いつの時代でも変わらないことを悟る。



 そういえば、転生前の俺の名前は、一体何だったか。

 とうの昔に忘れてしまったと思っていたが、

 今更思い出そうとするのは、難しいだろうな。


 俺には、転生前の一年以前の記憶が無い。実際に転生した直後から、日に日に転生前の記憶は薄れてしまっている。

 その速度は、通常の忘却とは比べ物にならない。まるで、その記憶は不必要だと言われているかの様に。


 俺は思い立ったかのように起き上がる。

 そして、辺りを見回すのである。

 もしかしたら、あの男なら知っているかもしれない。



 「ほぉ、其方の元の名が知りたいと申すか」

 其の男とは言わずもがな、本物の晴幸である。

 俺の中の可能性は、確信へと変わっていた。

 異物だった彼ならば恐らく、俺について何か知っている筈だと。

 下手をすれば、彼自身が俺の忘却に関連している可能性もあるのだ。



 「残念じゃが、儂も以前の其方を知らぬ。

  申したであろう、儂は其方を意図して呼び出した訳ではないと」

 「……!」


 予想外だった。俺はてっきり知っているものだとばかり思って居たが、そうではなかった。

 話を聞く限り、彼の言い分の筋は通っている。

 「誠に何も知らぬのか?」

 そう申しているではないかと、晴幸は呆れ気味に言う。

 どうやら、嘘は付いていない様だ。


 忘却の速度は、ただ晴幸の身体として年老いた俺にとって、必然なのか。

 俺はますます分からなくなってしまった。


 もし、山本晴幸としての俺が今の俺ならば、

 現代で生きていた俺は一体何だというのか。

 以前の俺が本物だと仮定したなら、

 今の俺が全てを忘れてしまった時、俺という存在の証明は、一体何だというのか。


 いつか、己が転生したという事実さえも、忘れてしまうかもしれない。

 ならば忘れる前に知りたい。どうして山本晴幸として転生を果たしたのか。

 それを忘れてしまえば、訊くことすらも、出来ないだろうから。


 「儂はてっきり、御前が儂の記憶を奪っていると思うておった」

 「はは、そう思われても、おかしくは無いな」


 晴幸は外を見ていた。

 俺はそんな彼の姿を捉える。


 俺は改めて考える。本物の晴幸は、俺以外の人間には見えて居ない。

 恐らく目前の存在は、俺の中の異物が作り出した幻想に過ぎない。

 もしかしたら、此の男は、本物の晴幸では無いのかもしれない。

 異物が、晴幸の身体をして現れただけなのかもしれない。


 じゃあ、異物とは一体誰なんだ。

 この男は、一体誰だというのだ。


 「……きりが無いぞ」

 俺は目を見開く。晴幸は俺を横目に、薄ら笑みを浮かべる。俺は一瞬焦りを見せたが、直ぐに平常を装う。

 そういえば俺の心の中は、この男には全て筒抜けだったな。

 俺は苦笑いを浮かべ、その場を誤魔化した。




 気づけば、夕日が沈み始めている。

 部屋に肌寒い風が通り抜ける。

 もうじき、山本晴幸としての俺の一日が、終わる。


 そう思った時、ふと背中に寒気を感じるのであった。

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