第四話 我の、名は

 そもそも俺と若殿が出会ったのは、俺が今川義元に仕官を申し込んだ頃(俺が転生してから三年が過ぎた頃)まで遡る。


 当時はまだ意気揚々としていて、今川家に仕官しようとしたのも《今よりも良い物が食べられるから》という軽い気持ちからの行動だった。


 しかし仕官が叶うことはなく、悶々とした気持ちで俺は駿河の隠れ宿へ向かう。

 其処で出会ったのが、彼女だった。


 彼女は宿場の娘で、品行方正。

 俺の顔を見ても、怖がることはなかった。

 俺は直ぐ、彼女に惚れてしまった。


 俺が駿河で日々を重ねる様になったのは、それからのこと。

 今川家士官の際に世話になった庵原忠胤いはらただたね殿の屋敷に寄宿させて貰ったのだ。

 彼女の家と、忠胤殿の屋敷は距離が近く、通い易いのである。



 「あら、今日もいらっしゃったんですね」

 転生前は独り身だった俺にとって、彼女との出会いは運命的だった。

 無論、周りは俺を奇怪なものを見る様な目をしていた訳だが、彼女だけは違う。


 其れは彼女なりの建前かもしれない。

 だが俺は、そんな彼女に救われたのだ。


 貴方のことを、もっと知りたい。




 「失礼は承知の上だが、娘さん、名は何と申す?」

 ある日、思わず口から発せられた言葉。

 いつも隣に居る筈なのに、そんな事も知らなかったのだな、と自分が恥ずかしくなる。



 「お侍さん、私も貴方の名を知りません」

 予想外の返答に少々驚いたが、不意を突かれたという意味で、つい吹き出してしまった。


 「私は若殿と申します。」

 「若.......殿、何処か武士もののふの様だな」

 「父がおのこを欲しがって居て、女子であってもしたたかであって欲しいと、想いを込めたそうです」

 そう言って若殿は俯く。


 「そんな私の名を

  女子のくせにと嗤う人も居ます」

 「何故嗤う?良い名ではないか」

 若殿は薄ら笑みを浮かべた。


 「貴方の名前は?」

 俺は若殿の透き通った目を見る。


 

 俺の、名前は




 「我は、山本晴幸と申す」




 

 

 若殿は押し入った客人に茶を出す。

 その様を見ていた俺は頬杖を突く。


 俺は迷い始めていた。

 板垣が俺に出してきた話は、確かに悪いものではない。

 それでも迷い続けているのは、言わずもがなである。

 答えは未だに、決まらない。


 「それにしても、長閑のどかな場所ですな」

 板垣の言葉は俺にとって耳障りだった。

 板垣かれには既に見破られているのだろう。

 俺が一度迷ってしまうと、とことん迷ってしまう性格だということを。


 「甲斐に戻らずとも良いのか。

  其方は見る所、武田家中でも高い地位の様じゃが。

  それに駿河に居る限り、其方は敵じゃ」

 「ほぉ、分かりますか。其れは感心致した。

  ますます我が家に来て貰いたいものじゃ」


 仕掛けたつもりが裏目に出てしまった。

 全く、少しは考える時間を頂きたいものだ。





 「晴幸殿、」

 突然背後から声をかけられた俺は、其の声のする方を見る。

 部屋に入ってきた若殿が、真剣な眼差しで此方を見ていた。


  「また、気を遣ってる」


 その言葉に俺は目を見開く。

 若殿は俯き、こう言ったのだ。





 「晴幸殿。貴方はきっと、此処に居るべき御人ではないのですね」

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