君が為に花は謳う

九十九緑

プロローグ

 彼は歩く。暗い森の奥深くを。満月は照らす。静けさに包まれた夜を。木々はざわめく。生き物たちの鼓動に木霊して。


 吹き付ける風がまだ少し肌寒い、夜ももう深まりきった森。ここは現代においては珍しい天然林であった。木々の呼吸が早くなり、闇の時間の住人たちが活発に会話をし始めた頃、その中を悠々と不敵に歩く若い男が一人。彼は今の時代には不似合いな、真っ黒で丈の長いローブをその背に羽織っていた。一歩、また一歩、彼の歩みを妨げるものはいない。森は彼を受け入れる。数多の住人もそれに異を唱えることはない。彼の一挙一動の全てが文字通りの自然そのものであり、彼こそがこの世界そのもののように感じさせた。


 木々を通り抜けた先に、少し開けたところに出た。彼の眼前には透き通った小さな湖が広がる。月明かりがその澄んだ美しい湖面を照らす。暗い森の中。この場所だけは、その眩く妖しい光を遮るものは何も無い。月の光を反射して水面が輝く。彼は一度その場に立ち止まり、その神秘的な光景を一瞥した。しかしその感動に浸ることなく、彼はまた、湖畔に沿ってゆっくりとただただ歩を進めた。


 地には数多の花の蕾。今か今かと春を待つ。寒さにじっと耐え忍びながら、花咲かすその時を彼女たちは待ち侘びる。そんな種々の蕾たちが、湖畔には絨毯のように広がっていた。彼は数知れない待ち人たちの間をゆっくりとすり抜けて歩いて行く。


 彼女らの横を彼が通り過ぎたその刹那、一つの蕾がその表情を変えた。じっと己の内に溜め込んでいた春への活力を一気に空に放ち、柔らかい蕾はそのベールを広げ、一輪の美しい花を咲かせた。するとそれに呼応するかの如く、次々と待ち人たちはベールを脱ぎ始める。開花は連鎖しその色彩は大地にたちまち虹をかけた。気がつけば彼の歩いた後ろには一面の花畑が広がっていた。


 そんな摩訶不思議な現象が今まさに起きているにも関わらず、彼はまるで気にもとめない。表情一つ変えずにさらに森の奥へと歩を進める。

 彼の歩く道は、はじめは獣道であった。しかし彼が歩を進める次第に道のようだったものもなくなり、獣の気配ですらもう感じられないほどになった。先程の湖畔での明るさが嘘かのように、もう月の光など届かないほどにあたりは暗い。木々が茂り、葉が重なり合い、空からの光を遮断していた。気づけばこの森のかなり奥まで彼はやってきていた。そして彼はようやく足を止める。そこに不気味に佇んでいたのは森にはとても不似合いな大きく豪勢な洋館。自然とは相反するはずの圧倒的なまでもの人工物。彼はここに一人で住んでいた。森にそぐわないはずの不自然な舘は、どうしてだろうか、見事にも自然と調和し、あたかも当然かのような顔をしてそこに立っていた。門をくぐり抜け、広く美しい、綺麗に整備された庭園を横目に、彼は重く大きな扉を開けて、すっと中へ入る。彼一人で住んでいるのにも関わらず、その中は不思議な程に清潔に保たれていた。

 彼はまっすぐにとある部屋へと向かった。足を運ぶ彼の表情はどこか切なげで憂いを帯びているようにも見えた。扉を開け静かに中に入る。そこは壁と天井が眩しいほどに白い部屋だった。そして四方を埋め尽くすのは、高さが天井まであろうかという棚。そこには数々の種類の花が一輪ずつ、筒状の透明な容器に密封されて大切に飾られていた。

「もうすぐか……。」

 彼はその保管されている花のうちの一つを容器ごと手に取り、そして優しく抱きしめ、独り言をぽつりと呟いた。



 これと同時刻のこと。森の青年を照らしていたのと同じ満月を、車椅子の少女も場所は違えど眺めていた。ここはとある病院の一室。眩しいほどの白に埋め尽くされたこの小さな病室の中で、彼女は車椅子に腰掛け、空に輝く月を見上げていた。病院での変わり映えのしない、つまらない日常において彼女はこの時間をとりわけ大切にしていた。ただ空に浮かぶ月を眺める。昨日に比べてどれほど欠けたか、満ちたか、そんなことをぼんやりと考えながらただ月を眺める。その横顔は儚く、どこか切なげで、そしてとても美しい。月を眺めていれば五分、十分、気づけば一時間を経ぎる日だってざらにある。消灯時間もとうに過ぎた頃に、彼女は決まって部屋の窓から空を見上げる。どれだけ時間が過ぎようと、また明日からも続くであろうこの真っ白な日常を憂いながら、月を眺めることをやめることはできない。当の本人もなぜこんなにも毎日ただ月を眺めていられるのか分かってなどいない。ただ、なんとなく月を眺めていると、この小さな箱から飛び出して、つまらない日常から抜け出せる、そんな自由な自分を夢見ることができる気がするのだ。

 もし自分が月の世界のお姫様なら、従者が私を迎えに来てくれるのだろうか。そして天の羽衣を身に纏い、ふわりと宙を舞って、そのまま空を翔る牛車に乗せられ、惜しまれながらも月に帰るのだろうか。それならこの病院はさしずめ無力な護衛だろう。そんな竹取物語のような世界を大きく綺麗な満月の日に彼女は空想していた。ただの妄想だと笑われるかもしれない。それでも彼女は今日もまた、空を見上げ、月に想いを馳せる。後に本当にこのつまらない日常が一変することになることはまだ彼女は知らない。



 愛。歴史上、この概念ほど形態を問わず、様々な物語において題材に取り上げられたものはないだろう。多種多様、様々な角度から語られてきたこの概念を辞書的に説明するのであれば、「対象をかけがえのないものと認め、それに引き付けられる心の動き。また、その気持ちの表れ。相手を慈しむ心。相手のために良かれと願う感情。」こういった文字列が無機質に並ぶ。しかし、そんな無表情な言葉で私たち人間は納得などしえなかった。その存在はどの時代においても人々を魅了し、時に幸福を、時には絶望を隣人に振りまく。この捉えどころの無い概念を、多くの人間が古来より思考し、誰にでも共通する、普遍的な説明を試み続けた。「愛とは何か」。この重大な問に対する回答は現代に至るまで未だに見つからず、そもそも正解などきっとこの世に存在などしない。そんなことは誰でも分かってはいるのだ。だが、それにも関わらず多くの人間は愛のことについて考えることを止められない。先程の彼もその「愛」という概念の持つ不思議な力に囚われた多くの人間のうちの一人である。いや、一人であった。



 これから語られるのは野に咲く花のように繊細で、儚く、そして彼と彼女の歪んだ愛の物語。「愛とは何か」。彼らなりの答えを探し出す一つの物語。

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君が為に花は謳う 九十九緑 @tanseikaiPB

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