第11話 あの、嫌ってくれませんか?

「なん……なんてことを……」


 お父様は婚姻契約書が完全にダメになったのを見て、衝撃を受けていた。

 申し訳ないけれど、こんな早々に婚約の署名などさせられてはたまらないのです。


「ああ、ごめんなさい! 拭いてしまったらこんなことに……」


 私は衝撃を受けたフリをしつつ、心の奥底からスッキリとしていた。

 婚姻契約書はそんなにすぐ取り寄せられるものではない。貴族の結婚は、王家に申請が必要で、王家が結婚に問題はないと判断した上で、婚姻契約書を作り、印を押した上で送られてくる。


 昔、いつ貴族が離反するかわからないとか、結束を強めるために婚姻の相手を王家がある程度定めていた時代とは違うので、許可が下りないことはないけれど。

 ただ、当時の名残から書類が作られて送られてくるまでには時間がかかる。たしか二週間ほどだと聞いたことがあったような。


 ん……? ということは、私にお父様がマルグレット伯爵との話を最初にした時には、すでに伯爵は婚姻契約書を申請していたの?

 なぜそんなにも急いだのかしら。


 不思議に思う点はあったものの、とにかくこれで二週間は確実に婚姻契約書に署名することはなくなった。

 それに再度契約書をくださいと頼んだら、王家もさすがに不快を示すんじゃないのかしら。大切に扱ってしかるべき王家の書を、使えない状態にしたのだもの。

 そして私は、再発行をされないように、ここで一気に嫌われておくべく頑張ることにした。


「ああ本当に申し訳ありません! どうしましょう。乾かせばいいかしら?」


 テーブルから取り上げるべく手を伸ばした私は、そうと見せかけてお父様のカップに自分の手をぶつけた。


「あ!」


 勢いよく当たったおかげで、見事カップの中のお茶が、いくらかマルグレット伯爵にかかってしまう。ここは少し予想外。

 婚姻契約書を台無しにされ、渋い表情をしていたマルグレット伯爵がやや身を引く。

 でも膝の上にお茶のしぶきが少しかかった。


 ……熱くはなかったみたい。そもそもお茶の温度が低かったのか、それとも私が契約書を紅茶浸しにしているうちに、少し冷めていたのかはわからないけど。

 伯爵は厳しい表情で、自分の膝を見つめる。


「り、リヴィア! なんてことを!」


 衝撃を受けて叫んだのは、お父様だった。


「本当に申し訳ありませんマルグレット伯爵! とてんでもない粗相ばかりする娘でして。その、よく叱っておきますので!」


 立ちあがって頭を下げて謝るお父様の横で、私も頭を下げつつ、笑って誤魔化すことにした。

 怒っている時に笑って誤魔化されるのも、なかなか腹立たしいものだ。ついでに心底私を嫌ってくれるといい。

 マルグレット伯爵はしばらく黙った後、ようやく口を開く。


「とりあえず濡れた衣服を拭いてはいかがかな? よければ代わりのものを貸しましょう。フォーセル子爵」

「は、でもそういうわけには……」


 迷惑をかけたのはこちら側なのでと、お父様は断ろうとした。でもマルグレット伯爵は早々に従僕に指示をしてしまい、お父様は別室へ連れて行かれる。

 そうして私は、伯爵家の召使いがいるものの、マルグレット伯爵と一人で相対することになった。


 怒鳴られるかしら。

 内心でびくびくしながらも、それで目的が達成できると肩の荷が下りる気がしていたのに、


「ふ、くくく」


 マルグレット伯爵は笑いだした。

 ぎょっとする私を、ニヤっとした笑みを口元に浮かべた伯爵が見る。


「私を怒らせようとしたのだろう、リヴィア嬢? しかし浅はかだったな」


 なおも笑う伯爵に、私は何と言ったらいいのかがわからない。

 そうですと肯定して、普通に嫌ってくれたらいい。ただマルグレット伯爵が意地になってしまったらどうしよう。


 考えた末に黙っていたら、マルグレット伯爵が立ちあがって私に近づいた。

 危機感から、私も立ちあがって数歩マルグレット伯爵から離れる。


「怒らせても、お前の運命は変わらない、リヴィア嬢。私はお前を手放す気はないのだからな」


 その言葉と一緒に、マルグレット伯爵から心のポエムが聞こえてくる。


『ああ、その怯えた表情が実にいい。お前は私の理想、もっと怯えておくれ』

『もっと抵抗するがいい。逃れられぬカゴの鳥になった自分を知って、もっと絶望したその顔を見られるのが楽しみだ』


 ひぃぃぃっ!

 嘘でしょ!? 怯える表情が気に入ってるらしいけど、そんな怖い発想の人はお断り! 年の差以前の問題よ!

 でも心の声が聞こえることは口に出すわけにいかないし、


「ど、どうしてそんな。後妻が必要でしたら、私みたいな粗暴な人間ではなくてもよろしいのでは? この調子では私、今後も何をするかわかりませんし、家名をそこなうようなことをするかもしれませんわ」


 迷惑をかけた私を手放さないと言うのは、どうしてなのか。そこを突っ込んでみたのだけど。マルグレット伯爵は楽し気な表情のまま答えた。


「後妻は親族に必要だと迫られてな。しかし無視していたんだが、お前を見て結婚してもいいだろうと思ったのだ」

「……!?」


 なんで私!


「たまさか見かけたひきつった表情が、最初の妻に似ていてな。さぞ私を楽しませてくれるだろうと思ったのだ」


 やだこの伯爵、本気で頭がおかしい!


「それに女ならばなおさら、結婚後に思い知らせることで大人しくなるだろう。お前は強く押さえつければ大人しく従う気質だ、と聞いたからな」

「え……?」


 私の気質ってどういうこと? お父様が、そうしたら私は従うと伯爵に話したということ?

 わけがわからない状態なのを察したのだろう。マルグレット伯爵が親切にも教えてくれた。


「お前の知人ではないのか? シャーロット・オーリックがそう言っていたぞ」


 ま、またここでシャーロット!?

 そして彼女がこんなことをしたのは、まさか私をマルグレット伯爵と縁づかせるつもりだったわけ? なんで!

 ぼうぜんとしていたら、そこにお父様が戻って来た。

 マルグレット伯爵はお父様に言う。


「婚姻契約書が使えなくなったのは残念でしたがな、代わりに早々に婚約を発表しましょう、子爵」

「え、婚約は破談になさらないので?」


 お父様も、さすがにお茶をかけるような暴挙に、婚約が破談になると思っていたようだ。目を丸くしている。

 そんなお父様にマルグレット伯爵は悪意のにじむような笑みを見せる。


「ええ、破談にはしませんとも。実に理想的なお嬢さんでしたからな」

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