16晩
花 千世子
16晩
居間でくつろいでいたら、買い物から帰って来た母がこう言った。
「あんた、今日から夏休みでしょ。今晩から『十六晩』が始まるからね。だから居間でご飯食べてね」
「え? 『十六晩』なんてまだやってたの?」
私はそう言ってから麦茶の入ったグラスに口をつける。
「そうよー、まだ続いてるしきたりなんだから。十六歳の
「相手、誰?」
私の問いに母は考えこむようにして、宙に視線をめぐらせてから何かを思い出したように両手を叩く。
「ああ、そうだ!
その名前を聞いて、私は思わず麦茶を吹き出した。
自室に戻ると何度目か分からないため息をつき、楽な服装に着替えて窓の外を眺める。
「あーあ。今日、いきなり台風でもきて碧波君が来られなくならないかなあ」
そう呟いてみるものの、空は晴天。
台風の気配はない。
私は夜から天気が大荒れになることを祈りつつ、窓の外を見渡す。
私が住んでいる十六町(旧十六村)は見渡す限り田んぼと畑に囲まれた田舎だ。
山が近くて標高も少し高いから避暑地として有名だけれど、私が住んでいるのは観光地じゃない。
観光地の近くのただの田舎だ。
それでも、古い家が多いながらもこの辺一帯は住宅街だし、一キロ先にはコンビニもあるし、中学はなんとか徒歩で通っていた。
ど田舎じゃないにしても、まあまあ田舎で、車社会なのと近所のおばさんのお節介がうるさいことを我慢すれば、住みにくくはない。
だけど、例のしきたりをしつこく続けていることで、自分の中でこの町のイメージがぐっと下がる。
そのしきたりである『十六晩』とは、十六歳になった村の男女が十六日間、二人きりの空間で晩ご飯を共にする、というもの。
噂には聞いていたけれど、未だにそんなことをしているとは思わなかった。
しかも、私の相手が碧波君だなんて、悪い冗談だとしか思えない。
テーブルに並べられていたのは、からあげ、エビフライ、春巻き、ポテトサラダ。
それらのこってりした料理が、大皿にどーんと一品ずつてんこ盛りになっている。
ガラス戸で仕切られた向こうにある台所では、両親と祖父母が食事をしているはずだ。
多すぎるよ、お母さん!
こんなの二人で食べきれないよ!
そう言いたいけれど、声が出せない雰囲気だった。
だって、向かい側に座っている碧波君は、ずっとこちらを睨みつけているのだから。
普段は家族団らんの場である居間が、今は緊張感に支配されている。
壁にかけられた化石みたいな柱時計が午後七時を告げた時。
「冷めちまうだろ」
碧波君が低く抑揚のない声でそう言った。
「あ、そうだよね! うん。じゃあ、食べよっかー」
私がそう言うと、碧波君は手をきちんと合わせて「いただきます」と呟いてから、からあげに箸を伸ばす。
なんとなく私はその光景を見守ってしまう。
碧波君はから揚げを一口食べた瞬間、「うまいな」と頷いた。
その言葉にようやく私の緊張が解けて、同じようにからあげを一口。
うん。美味しい。
から揚げを食べたことで空っぽだった胃が刺激されて、どんどん箸が進む。
碧波君も、黙々と食事をしている。
箸を動かす手を休めば、碧波君の食事をしている音だけが聞こえてくる。
なんだか居心地が悪くなって、私はテレビのリモコンに手を伸ばす。
すると碧波君にギロリと睨まれ、一言。
「おい。行儀悪いぞ」
「あ、うん。そうだよねー」
手をひっこめつつ思う。
静か過ぎて居心地が悪いんだよ!
ただでさえ、碧波君と二人で食事だなんて気まずいのに。
悩んでから、私は口を開く。
「この『十六晩』ってさ、十六歳の男女がランダムで選ばれて十六日間、食事をするわけだけど、その二人ってビンゴで選ばれるらしいね」
「そうか」
「十六にこだわってるのは、この村の最初の村長が十六さんって名前だったから、らしいよね」
「ああ」
「でね、もともとこの『十六晩』って、昔はお見合いみたいなものだったんだって。お見合いというか、男女が一つの部屋で食事をして一緒に寝るっていうのが、今はご飯だけになったんだって」
「知ってる。『十六晩』の最中に子作りしちゃってそのまま夫婦になった村人が多かったらしいな」
「子作りって!」
私はそう言って思わず立ち上がる。
碧波君が驚いてこちらを見上げ、それから鼻で笑う。
「そんなことで赤くなるなよ。葉月ってガキだな」
悔しいけれど何も言い返せなかった。
もっと悔しいのは、二年前に碧波君のことを好きだったことだ。
碧波君は、中学生の時にこの町に引っ越してきた。
中学一年生になっということもあり、周囲は友人は恋愛の話ばかり。
そんな中、碧波君は愛想はないものの、私は彼が気になっていた。
身長も体型も平均的だけど、切れ長目で鼻筋の通ったいわゆる塩顔の彼は私の好みどストライク。
さらに友人たちの恋バナに参加したいという理由もあって、私は思い切って碧波君に告白した。
校舎裏に呼び出して『好きです』と言ったらこう返された。
『俺はお前に興味はない』
碧波君は無愛想だけど心は優しいかも、と期待したけどそんなことはなかった。
無愛想で、口が悪くて、人を気遣うことなんてしない奴だったのだ。
そんな本性を知ったのは、フラれたずっと後で、私は碧波君に告白したことを激しく後悔した。
ちなみにフラれてたから私はとことん彼を避けたので会話はしていない。
そんなこんなで、ようやく中学を卒業して、高校は別々になったというのに。
まさか、『十六晩』で一緒になるとは想定外。
嫌がらせか。
私は碧波君が帰ってから、食器の山を洗いながらため息をつく。
残り十五日間、こんな憂鬱な食事が続くのか。
「碧波君、ちゃーんと食べ終わった食器、台所まで運んでくれて、しかもきれーいに残さず食べてくれて、本当にいい子ねー」
食後のお茶を飲んでいる母は、やけにご機嫌だった。
私は母の言葉を聞き流し、それから提案する。
「お母さん、明日はカレーとかでいいよ。卵かけご飯でもいいよ」
「なーに言ってるの。明日は優夏が碧波君の家に行ってご飯をごちそうになるのよ」
「そうそう。女性の家と男性の家で一日交代で晩ご飯にするんだよ」
祖母が口を挟む。
「なにその罰ゲーム」
「優夏! あの坊主に変なことされそうになったらすぐにこれを引っ張れ! 父さん三秒で駆けつけるからな!」
父がそう言って渡してきたのは、防犯ブザーだった。
次の日の夜。
私は重い足取りで碧波家へ行った。
古い家だけれど、庭はきちんと手入れされて色とりどりの花が咲き、家の窓もぴかぴかに磨かれている。
真新しいインターフォンを押すと、まるで待っていたかのようにドアが開く。
目の前に立っていたのは、エプロン姿の碧波君だった。
彼は相変わらずの怒ったような表情と声で「来たか。上がれ」と言う。
なんでこんなに命令口調なんだこいつは……。
防犯ブザー活用してやろうか。
ポケットに入れた防犯ブザーを手に取ったと同時に、背後からちんまりとした人が現れた。
「あらあら。かわいらしいお嬢さんだこと!」
そう言って顔中を皺くちゃにして笑ったのは、おばあさん。
「ばあちゃん、いつものところにご飯あるから今日はそっちで食べてくれ」
「はいはい。知ってるよ。翼とこんなかわいいお嬢さんがねえ」
「いいから! 冷めるから先に食べてて!」
碧波君が慌てておばあさんを別室に連れて行く。
あんな焦ってる顔、初めて見た。
ちょっとかわいいかも。
「待たせたな。じゃ、上がれ」
碧波君の言葉に、私は「おじゃましまーす」とご機嫌で玄関を上がる。
すると、私の顔を見た碧波君がちっ、と舌打ちをした。
前言撤回。かわいさの欠片もない。
居間のテーブルに並んでいたのは、きんぴらごぼうとひじきの煮物、魚の煮つけに味噌汁とご飯。たくわんもある。
それらの料理がきちんと小鉢に入っていて、食器も渋くて和食に合っていた。
一日目のうちのお母さんのダイナミック料理とは大違いだ。
私が感心しながら料理を眺めていると、碧波君が口を開く。
「悪かったな。質素で」
「そんなこと言ってないでしょ!」
「でも心の中で思ったろ」
「思ってないよ! ちゃんとした晩ご飯だなあって思ってたんだよ!」
「そうか」
短く答えた碧波君の横顔がどこか嬉しそうな表情に見えたのは、気のせいかもしれない。
「いただきます」と手を合わせた後で、私は聞いてみる。
「ご家族は?」
「うちは俺とばあちゃんだけだ」
「へー。そうなんだ。ご両親はお仕事?」
「死んだ」
「え?」
私は魚の身を箸で取ろうとして動きをぴたりと止める。
「俺が小六の時に二人共、飛行機事故で死んだ」
「なんか、ごめん」
それから、晩ご飯はまるでお通夜のように静かだった。
救いだったのは、料理がどれもおいしかったことかな。
碧波君のおばあちゃん、料理上手だなあ。
三日目の晩ご飯は私の家で、おまけにメニューはトンカツに生姜焼き、豚汁にご飯という豚づくし。
静かな居間で、私は小さくため息をつき、トンカツに醤油をかける。
すると、碧波君が聞いてきた。
「それ、醤油?」
「そう。あ、ソースのほうがいいよね!」
立ち上がろうとする私に碧波君が即答する。
「いや、俺も醤油派だ」
「え? そうなの?」
「ああ。ソースも嫌いじゃないんだが、どうもこっちの何にでもウスターソースをかける文化には慣れなくてな」
「わかる。ウスターソース、あんまり美味しくないんだよね」
「でも、こっちだとやたらソースをかけないか? 醤油派は肩身が狭い」
「少数派だからねー。私は家族に『変』って言われる」
「それは大きなお世話だな」
碧波君はそう言うと少しだけ笑った。
私はトンカツとキャベツの千切りに醤油をかけ終えると、碧波君に醤油さしを渡す。
碧波君はトンカツはもちろん。
キャベツの千切りにも醤油をかけていたので、なんだか親近感を覚えてうれしくなる。
「じゃあ、碧波君も目玉焼きも醤油?」
「当然だろ」
「コロッケは?」
「コロッケはなにもかけない。そのままの味がいい」
「え?! 私も同じだよ!」
私が驚いていると、碧波君も細い目を見開いて、それから大きく二回頷いた。
私と碧波君の共通点が、醤油派でコロッケは何もつけないというところが見つかってからは、少しづつ会話ができるようになった。
碧波家に行くと、おばあちゃんが笑顔で出迎えてくれるし、ご飯は美味しいしで、なんだか幸せな気分。
「えー! 映画館で観るよりDVDのほうが気楽だよー!」
私がそう言って小鉢の中の牛肉のしぐれ煮を箸でつまんで口に入れようとしたら、肘がグラスに直撃して麦茶がこぼれた。
「わわっ! ごめん!」
私があたふたしている間に、碧波君は台所から布巾を持ってきて、こぼれたところを拭き始める。
「手伝うよ!」
「動くな。面倒ごとが増える」
碧波君にぴしゃりと言われて、私はそのまま座り込む。
自分の家ならともかく、人の家を汚すのは申し訳ない。
グラスが割れなかったのは不幸中の幸い。
でも、やっぱりなんだか、申し訳ないな。
そんなことを考えていると、碧波君が笑った。
鼻で笑われた?
「葉月は相変わらず落ち着きがないな」
「そうかなあ」
「無自覚か」
そう言ってこちらを睨みつけているような目も、冗談交じりだということがわかる。
すると、ドアがノックされる。
「ばあちゃん、なに?」
「さっき大きな声がしたけど、大丈夫かい?」
そう言うと碧波君のおばあちゃんは、遠慮がちにドアを開ける。
「ああ、大丈夫だ。葉月がドジやらかしただけだ」
「そう。それならいいんだよ。私はてっきり翼が葉月さんのお嬢さんを押し倒したんだとばっかり――」
「ばあちゃん! そういうのはないから!」
「あら? そうなの?」
「つーか、残念がらないでくれ! 俺はそんな見境ない男じゃねえ!」
碧波君が叫ぶと、「そうかい。でも、仲良くね」とだけ言い残して部屋を出て行った。
真っ赤になっている碧波君を見て、私は思わずぷっと吹き出す。
碧波君がこちらをキッと睨みつけてきたけれど、ちっとも怖くない。
「聞きたいことがある」
そう言って碧波君が落ち着きない様子で両手を動かし始めたのは、次の日に家で親子丼を食べていた時。
「ん? なに?」
「葉月の家、猫がいるだろ?」
「ああ、うん。三匹いるよ」
「今日は、いないのか」
「私と碧波君の邪魔になるといけないからって、居間に入れないだけだよ」
「そうか」
碧波君はそれだけ言うと、ちらっと居間と廊下を隔てるドアに視線を向けた。
ははーん。
なるほど。
そういうことか。
私は勝ち誇ったような気分でこう聞く。
「ご飯食べ終わったら、猫、ここに連れてこようか?」
「いいのか?!」
目をきらっきらに輝かせて碧波君は言ってから、ハッとしてこう言い直す。
「別にいい」
「いやいや。完璧に無理してるでしょ!」
「ニヤニヤしてる葉月を見てると、反発したくなる」
「そりゃあ弱みを握ったようなもんだしね」
「弱みを握ってどうするつもりだ」
「別にー。なにもー」
私はそう言って明後日の方角に視線を向ける。
「くっ……。ムカつく!」
碧波君は悔しそうに言うと、怒りに任せて親子丼を一気に平らげた。
怒りに任せたというか、早く猫に会いたかったのだと思う。
その証拠に、我が家のしらす(白猫)、まぐろ(黒猫)、おはぎ(三毛猫)をたっぷり撫でて、猫じゃらしで遊んで帰って行った。
猫にデレデレなのは、頬が緩んでいるのですぐに分かった。
さすがに『一緒に遊びまちゅかー?』とか『かわいいにゃー』とか言葉遣いが変わることはなかったけれど。
それでも、碧波君の新たな一面を見られた気がした。
無愛想で、口が悪くて、人を気遣うことなんてしない奴。
碧波君のイメージがどんどん崩れていく。口が悪いのはともかく。
本当は真面目で思いやりもあって猫好きなんだ。
中学の頃は、何も知らなかった。
何も知らずに告白しちゃうなんて、碧波君に失礼だったなあ。
申し訳なく思いつつ、私は猫たちの写真をスマホで撮る。
明日、見せてあげよう。
猫写真を見せた効果なのか、私と碧波君は、普通に会話ができるようになっていった。
休日は家で映画を観るとか、ヒトカラが趣味だとか、花が好きだとか、私と碧波君は共通点も多い。
だから、私の碧波君の家へ行く足取りはどんどん軽くなっていく。
そして、家に碧波君が来る時は、私も料理を頑張って一品、作ったり、かわいい部屋着にしたりと気合いが入るようになった。
碧波家のインターフォンを押して、スピーカーから『ちょっと待て』という相変わらずの碧波君の言葉に、私はまだ明るい空を見上げる。
もう十日が経った。
『十六晩』が終わるまで、あと六日。
最初は憂鬱で早く終われ! とか思っていたのに、今は終わってほしくないとすら思う。
そんなことを考えていたら玄関のドアが開き、エプロン姿の碧波君が姿を現す。
「悪いな」
「なんか顔色悪い?」
「いや」
碧波君はそれだけ言うと、私に背を向けて玄関を上がった。
今日はおばあちゃんのお出迎えがない。
出かけてるのかな?
居間に入ると、テーブルに並んでいたのはオムライスだった。
「おいしそう」
思わず口に出る私に、碧波君は満足そうな表情をする。
そして、二人でオムライスを食べ始めた時に私はようやく気づく。
「もしかしてこれ、碧波君が作った?」
「今頃、気づいたか」
「まさか、今までの料理って……」
「ああ、俺が全部、作った。なんだ男が作ったらおかしいか」
「そういうわけじゃないけど、意外だなあって思って」
私はそこまで言うと、オムライスを一口食べる。懐かしい味。チキンライスにはコクがあって玉子とケチャップとよく合う。
碧波君が黙々とオムライスを口に運び、水を飲んでから口を開く。
「葉月は、俺の何を知ってるって言うんだ」
「猫好きとか」
「それだけだろ」
「醤油派だとか、映画好きとかヒトカラ好きとか」
「それはここ最近の情報だ」
「なに? 機嫌悪いの?」
私がスプーンを動かす手を止めると、碧波君はオムライスに視線を落としたまま言う。
「葉月、お前さ、中学一年の時、俺に告白してきただろ?」
「うん」
「何も接点がなかったのに、なんで俺なんだ? 一目惚れをされるタイプでもない。それならやっぱあれか」
碧波君は俯いたまま続ける。
「罰ゲームか」
「違うよ!」
即座に否定したものの、顔が好みだっただなんて本人に言うのは照れくさい。
「じゃあ、なんで俺がフッたあとで、思いきり避けるんだ」
「そりゃあフラれたら普通は気まずいでしょ?」
「葉月の態度見てると、今はそうでもないみたいだけどな」
「だって今は気まずくないし」
「やっぱり罰ゲームだったのか」
「だーかーらー。違うって!」
私はそう言うと、碧波君を睨みつける。
居間が静寂に包まれ、碧波君のため息だけがやけに大きく聞こえた。
そして彼は顔を上げてこう言う。
「ま、本気で告白されたとしても葉月みたいな、ドジでうるさい女は嫌いだから断るけどな」
その言葉に、私は何も言い返せなかった。
それどころか、頬を伝った涙がスプーンを握った手の甲に落ちる。
私は乱暴に涙を手で拭い、オムライスを半分以上残したまま「ごちそうさまでした」とだけ言って碧波家を出た。
次の日は家に碧波君を招く番だけれど、朝から気が重い。
学校から帰ってくると、居間でテレビを観ていた母が言う。
「今日はカレーでいい?」
「うん。ああ、碧波君のはとびきり辛くしておいて」
「ああ、そうそう。『十六晩』はもう終わり」
「え?! まだ十日しか経ってないよね?」
「それなんだけど」
母はそう前置きしてから、静かに続ける。
「『十六晩』はね、どちらかが途中でやめることもできるの。やめるということは、お断りということなの」
「そっか……。じゃあ、碧波君が」
私がそう言いかけた時、背後で笑い声が聞こえた。
父だ。
「あの坊主、生意気だったからな! あんな奴、こっちからお断りだ!」
「でも、こんな噂もあるのよ」
それまでそばで私たちのやりとりを静かに見ていた祖母が口を開く。
祖母の言葉を聞いた途端、私は家から飛び出していた。
向かう先は碧波家。
近道である舗装されていない道を走りながら、私は祖母の言葉を思い出す。
『十六晩をきちんと終えた男女は、むしろ結ばれないって噂もあるのよ』
ただの噂だから何の根拠もない。
だけど、このまま黙って家にこもっていたら、私はきっと後悔する。
碧波君にハッキリと『帰れ』と言われたら、彼のことはきっぱりあきらめよう。
そんなことを考えていたら、手入れのされた庭が見えてきた。
私は覚悟を決めて庭を横切り、玄関の前に立つ。
「よし」
小さく深呼吸をして、インターフォンを押す。
しばらくして碧波君がドアを開けた。
そして、私の顔を見るなりこう言う。
「何の用だ」
「あの、えっと」
ここにくるまでに色々な台詞を考えたのに、いざ本人を目に前にすると言葉にならない。
私はつい誤魔化した。
「え、そういえば、おばあちゃんは?」
「友だちと温泉旅行中だ。ばあちゃんに用か? なら伝えておく」
「そういうわけじゃないの」
「何も用がないなら帰れ」
吐き捨てるような碧波君の言葉に、私は勇気をふり絞ってこう聞く。
「なんで『十六晩』を途中でやめたの?」
「俺の理由だ。お前が知る必要はない」
「なにそれ! 私だって理由を知る権利はあるの!」
「お前は知らなくていい」
「知らなくていいわけないでしょ! 私は碧波君が好きなんだよ!」
どさくさに紛れて告白してしまった。
勢いがついた私はこう続ける。
「今回の『十六晩』で碧波君のこと本気で好きになっちゃったの! だから理由を教えてよ!」
「俺が『十六晩』をやめたのは、ばあちゃんから、おかしな噂を聞いたからだ」
「え?! それって、『十六晩』を終えた男女は結ばれないとかいう……」
私がそこまで言うと碧波君は私を睨みつけてから、口を開く。
「俺だってお前に告白されて以来、気になって気になってしかたがねーんだよ!」
「そうなの?! 私てっきり嫌われてるんだと……」
私がそう言うと、碧波君は「嫌ってるわけがないだろ」と答える。
そして、彼はこちらを見つめて言う。
「将来、俺の嫁になってほしいくらいに好きだ!」
その直後、二人して顔が真っ赤になったのは言うまでもないかな。
16晩 花 千世子 @hanachoco
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