駅に置き忘れた母(静岡鐡道、長沼駅)

駅に置き忘れた母

「聡さん、よく頑張った。安らかに眠ってね。姉の私が送るなんて、ちょっと計算があわないかもしれないけど、まあ、あっちへ行ったら、二度と苦労はしないですむだろうから。」

父の姉、夢路にとってはおばさんである、峰岸奈津子さんが、墓石に向かってそう話しかけた。

「ほらあ、あんたも声かけてやりなさいな。お父さんでしょう。」

優しく声をかけるおばさんだったが、夢路は何か足りないと思った。いつも家族といえば、お父さんだけでなく、二つセットで、別の誰かがいるはずなのだが、その人は結局、父ちゃんが亡くなるまで、現れなかった。

「父ちゃん。」

夢路は、墓石に向かって話しかける。でも、

「お疲れ様。」

としか、いえなかった。何を言っているの、お疲れ様じゃなくて、ありがとうって言うもんじゃない?と、おばさんがからからと隣で笑っているのが見えるが、どうしてもいえなかった。

「お疲れ様。」

また再度出るのはこの言葉。

「馬鹿ねえ夢路。体ばっかり大人になっても、頭はまだ恥ずかしがり屋の少年のままなのね。」

「おばさん、そんなこと言わないでよ。」

「ま、今回は免除してあげるけど、これからはちゃんとアリガトウって言わなきゃだめよ。お父さんにね。」

おばさんは、夢路の肩をポンと叩いた。

「はい。」

「でも、これでやっと、お父さんは苦労しなくて済むのねえ。聡さん、やっと楽になったのかしら?あの人に、振り回されて、大変だったでしょ?」

不意に、おばさんの一言がやけに耳に残った。

「おばさん。あの人って誰ですか?」

「あんたは、聞かないほうが良いわよ。」

おばさんは、それだけしか言わなかった。

「さ、払いの善の開始時間に間に合わなくなっちゃうから、急いで行こう。」

おばさんは、方向を変えて、マイクロバスが停車しているほうへ歩き出した。

「夢路、何ぼさっとしているのよ。早くしないと、遅れちゃうわよ。」

「は、はい!」

急いで夢路もその後を突いていく。

払いの善の会場に向かうマイクロバスの中でも、親戚がたくさん乗ってきたが、夫婦だったり、親子だったりいろんなグループが乗っていた。親子でも夫婦でもそうだけど、多くの人は男女ペアでいることが多い。

夢路は、幼いときから、父ちゃんは存在した。母ちゃんはいなかった。確か、幼い時に亡くなったと聞いた。ただ、父ちゃんの姉の奈津子おばさんが、まだ独身であったため、時折自宅へ来てくれて、食べ物を持ってきたり、着る物を持ってきたりしてくれた。だから、おばさんがお母さんの代理人だと思っている。おばさんも、結局、結婚せずに夢路が成人するまで面倒を見てくれた。そして、就職した今でも、何かしら理由をつけておばさんはしょっちゅうやってくる。なので、寂しいという事はないが、でも、お母ちゃんがないという事は、やっぱり何か他の子とは違う気がした。

払いの善の席でも、親戚たちが語るのは、父である聡さんが苦労をしていたことばかりで、母の話は出なかった。父は、私立高校で教師をしていた。以前は公立高校で英語を教えていたが、転勤を言い渡されるのを避けて、私立高校の英語教師になった。それでも仕事で忙しかった。家に帰ってこられない事も多々あったので、子供を一人にさせるのはよくないという事で、夢路はおばさんの家に泊めてもらう事も多かった。おばさんの計らいで、親戚では、それなりに優しくしてもらっていたし、経済的に不自由ということもなかったけれど、でも、何か足りないという気持ちは、日常的にあった。

親戚たちは、父が教師としてやっていた時の思い出を語っている。とんでもない不良生の担任になって、体当たりでもするつもりで面倒を見たこと。試験の結果にあまりにも執着しすぎて、拒食症に陥った女子生徒に、おにぎりを作って食べさせたこと。そして、アメリカからやってきた男子生徒に、単語のスペル間違いを指摘されて、大笑いされたこと。みんな確かに、存在する父ちゃんの思い出だ。

でも、お母ちゃんの話は、誰一人出さなかった。

もし、自分を生んですぐ死んだというのが本当なら、今頃、聡さん迎えてやっているんじゃないのか、何て話が出てもいいはずだ。夢路は、葬儀に出た経験は少ないが、その分記憶として、残っていた。必ず先に逝った人の話も出るはずである。なのに何もないのは、かえっておかしい。

でも、母ちゃんという人がいない人なんて、生物学的にもありえない話だ。必ず父ちゃんと母ちゃんがいなければ、人間という生物は誕生できないからだ。ただ、出産で死亡するというケースはあることはある、というのは知っていた。だけど、それなら遺影があるはずだし、位牌があるはず。しかし、おばさんの家に置かれた仏壇にはそれもない。よく、おばさんを含めて親戚が口にするのは、お母さんはあんたを産んだときにね、後産が上手くできなくてなくなっただよ、という言葉だが、それは本当にそうなのだろうか、疑問がわいてきた。それを裏付けることとして、夢路は、今住んでいる富士市内ではなくて、静岡の長沼というところにある産院で生まれたんだという話もあったが、それも疑わしいなと思い始めてきた。

とりあえず今日は、払いの善が終わって、おばさんの家に帰ってきた。父が亡くなったら、夢路はおばさんの家に住むことになっていた。

「無事に終わってよかったですね。皆さん、満足してくださったようで。」

夢路は、おばさんに言った。

「ええ、いいお葬式でしたよ。まあ、聡に言わせたら、こんな粗末な葬式で俺を馬鹿にしてるのか!なんて怒っているかも知れないけどね。」

奈津子おばさんは、ふふ、と笑いながらそういった。

「まあ、僕たちしか費用が出せないから、あんまり盛大にやってやれませんでしたね。でも、父ちゃんのことですから、きっとこれでいいと思っているんじゃないですか。元々、派手にやることは、嫌いな人ですからね。」

「あら、自分と重ねちゃだめよ。意外に若いときは派手な男だったわよ。夢路、あんたが引っ込み思案で、優男なだけよ。」

「それ、誰と比べてるんですか。」

夢路は、ちょっとむきになっていった。

「ま、あたしが送ったというのが、ちょっと計算ちがい?五年離れているのに?」

おばさんは、いたずらっぽく、父の遺影をテーブルの上に置く。

「おばさん。」

と、夢路は聞いた。

「ちょっと聞きたいことがあるんですけど。」

「何?」

「はい。母ちゃんのことです。親戚の人たち、何で何も言わなかったんですかね。」

おばさんは、夢路から意外な質問をされたので、一瞬ぽかんとしている。

「だって、夢路。あんたの年齢を考えてみなさいよ。あんたいくつなの?」

「三十九歳。」

「ほらあ。そんな大昔のこと、覚えていられると思う?あんたが生まれてすぐなくなったのよ。その数字のおもさを考えたら?」

だけど、人間についての思い出というのは、なかなか忘れられないと思う。例えば、親戚が話していた、父が英単語のスペルを間違えて大慌て、というエピソードは、もう、30年以上前に起こったことである。

「そのくらいの数字で忘れてしまうのでしょうか?」

「全く、人間は、忘れるようにできてるの。そんな、40年近く前に起きたことなんか覚えていたら、頭がパンクしちゃうわ。」

ははは、と笑ってにこやかに笑うおばさんだったが、夢路はどうも納得できなかった。お母さんのことについては、忘れられてしまったというより、思い出したくないないという雰囲気が、見て取れる。

僕は、何のために生まれてきたんかな?お母ちゃん、本当にそうだったんだろうか?それだったら、もっと隠さずに話しても良いのではないかな?

夢路は、おばさんを見て、そんな気持ちになった。

不意に、壁に貼ってあるカレンダーが目に入ってくる。

「明日は、土曜か。」

そうなれば、会社も休みだ。かつて幼いときに言われた、自分が今住んでいる富士ではなく、静岡の長沼というところで生まれたという言葉を今一度思い出す。長沼とはどこか、と、タブレットで検索してみると、静岡市内を走っている、静岡鉄道という線路に、長沼駅という駅があることを知った。恥ずかしい話だが、夢路は、静岡鉄道に一度も乗ったことはなかった。人がたくさん乗って、ぎゅうぎゅう詰めの通勤電車が苦手で、会社にも自身の車で通っていた。

「よし、行ってみよう!」

というわけで、長沼へ行ってみることにした。

翌日。いつもより早く起きて、夢路は車を走らせた。とりあえず、静岡鉄道の起点である、新清水駅まで行って、近くにあった有料駐車場に車を止める。それでは、とちょっと覚悟して、新清水駅から新静岡駅行きの電車に乗ることにした。

ホームに行ってみると、もうお昼に近づいているせいか、殆ど人はいなかった。でも、電車の本数は比較的多く、少なくとも一時間に五本は走っていた。

「おい、兄ちゃん、ちょっとすまんのだが。」

と、後の方から声がしたので、振り向くと、車いすに乗った男性が、自動販売機でなにか買おうとしていた。

「すまんが、これで、お茶を二つ買ってもらえないだろうか?」

と、彼はそういって、千円札を一枚差し出した。

「わかりました。何を希望されますか?」

「あ、緑茶で良いよ。」

夢路は、親切に、千円札を自動販売機に入れて、ペットボトルの緑茶を二つ購入した。

「あ、どうもありがとう。」

と、頭を下げて受け取る男性。彼は、黒に白い麻の葉柄の着物を着ていた。

「はい、しかし、どうして態々二本買ったのです?あ、そうか、戻ってくるときに、また飲みたくなりますものね。それでですか?」

夢路がちょっとした疑問を投げかけると、

「違うんだよ。僕のほかに、もう一人来るからね。今、切符を買ってもらってるでさ。」

と答えた。基本的に電車なんて、ICカードで乗るのが当たり前になっている現在、切符を使って電車に乗るなんて、随分古臭い人たちだなと思った。

「ごめん、遅くなって。えーと、目的地は長沼駅だったね。」

そのとき、二枚の切符を持って、もう一人の男性がやってきた。夢路に比べたらかなり背丈が小さくて、身長は153センチ程度、体重も40キロあるかないか程度の人だった。つまり、がりがりに痩せて窶れていた。でも、その顔は、同じく男性である夢路が、羨ましがるほど綺麗な人だった。彼は、白い着物に黒い羽織、黒い袴をはいていた。

「お、ありがとよ。今な、こいつに頼んで、お茶かって貰ったのさ。僕、自動販売機は手が届かないのよ。」

と、黒の着物を着た男性がそういうと、

「あ、ご迷惑をおかけしてすみません。杉ちゃん、けっこうこだわりがあるので、結構大変だったのでは?」

と、彼はいった。

「こだわり?何もなく、受け取ってくれましたけどね?」

夢路がそういうと、

「すみません。本当にお手数かけてくださって。」

と、彼は頭を下げた。

「もう、変な挨拶は抜きにしてさ、早く行かないと電車が来てしまうぞ。」

杉ちゃんと呼ばれた男性が、そう言うと、彼はすみませんと頭を下げて、二人そろってスロープを用いてホームに行った。でも、その動きは、二人とものろくて何だか危なっかしくみえてしまうのだった。夢路は、心配になって二人の後を追いかける。

「なんだか大変そうですから、僕も手伝いますよ。確か目的地は長沼駅と仰っていましたね。僕も、そこで降りるんです。」

「はれ?偶然という物はあるんだねえ。ありがとう。お言葉に甘えようかな。」

杉ちゃんと呼ばれた人よりも、隣にいる綺麗な人の方が心配だ。一応直立してはいるが、あまりにやせすぎというか、何だか惨い気がするのだ。

数分後に電車はやってきた。基本的に10分に一本は走っているから、あまり待つ必要もない。あらかじめ予約していたのか、駅員さんにも手伝ってもらいながら、杉ちゃんたちは、電車にのりこむ。

この電車には、急行や通勤急行といった優等列車もあり、それらに乗ってしまうと、長沼駅には停車しないと聞かされた。一瞬ぎょっとしたが、幸い今乗った物は各駅停車で間違いはなかった。

「あんた、長沼言ったらどこへ行く?」

不意に杉ちゃんが答える。

「あ、ああ。ちょっと訳がありまして。」

夢路は、そういってごまかそうとしたが、

「ちょっとって、どういう事か?」

と、杉ちゃんに言われて、返答に困ってしまう。

「すみません。答えを聞かないと、納得しないのです。杉ちゃんは。」

隣にいた綺麗な人が、夢路にいった。その人に申し訳ないと思って、

「はい、長沼駅近くの病院へ。」

とだけ言う。

「実は僕らも、そこへいくだよ。書類を出しにいくだけだけど?」

あ?と思った。

「ちょ、ちょっと待って。僕が行くのは長沼駅近くの産院なんですけど?」

「何をいってら?病院って、溝の口病院一軒しかないよ。あそこらへんには。」

と杉ちゃんは、首をかしげる。

「はい、だから産院に。」

「あのねえ、溝の口は、産科という物はないよ。あんたさん、一体何をするつもりだ?何か重大なわけでもあるんだろ?」

これではだめだと思った。

「どうしたんだよ。もし、何かあれば、僕らも話聞くよ。どうせ書類なんて、すぐ終わる。水穂さんも放っておけないだろう?」

「そうだね。」

杉ちゃんがそういうと、あの綺麗な人もそういった。

「よし、これで仲間ができたから、少し楽になったんじゃないか?先ず、事情を話してみな?」

「ええ。」

杉ちゃんにそういわれて、夢路は、自分の目的をやっと話すことができた。おばさん意外の人に、この疑問を話したのは初めてだったが、身内以外の他人に話して見ると、何だか意外にらくになるような気がした。

「そうか。大変だったな。ずっと、頭の中を縛り付けてきたんだろ。おばさんには、からかわれたり、大変だったね。」

そういって、肯定的に言ってくれた人物が現れたのは、初めてであった。

「まあ、あのあたりに産院という物はないのは確かなんだけどねえ。でも、君のおばさんは確かに、苦労しなくて済むんだねといったんだね。」

「ええ、言いました。確かにそう言いました。おばさんの話だと、母が、ここにある病院に入院していたと聞いたのです。何か手がかりがつかめるかもしれないと思って、今日やってきました。」

杉ちゃんが言うと、夢路はすぐに答えた。

「あの、お母様の旧姓は?」

水穂さんにそう聞かれて、

「ああ、僕の名は峰岸夢路で、母は峰岸あやです。そこははっきりしています。でも、旧姓はわかりません。」

と、答えた。そういうと水穂さんは、一つため息をついた。

すると、

「まもなく、長沼に到着いたします。御降りの方はお忘れ物のないように、、、。」

と車内アナウンスが流れ、電車は、長沼駅で停車した。杉ちゃんたちは、また駅員に手伝って貰って、電車を降りた。夢路もそこを降りて、簡素な改札口を出た。

「長沼駅近くでは病院というものは、これしかないぞ。」

と、杉ちゃんが、駅の目の前にある、でかい建物を指さした。しかし、それは本当に病院?と疑いたくなるような雰囲気があった。なんといっていいのかわからないが、ほかの病院とは違っている。かといって、重症な患者を受け入れる救急病院とも違っている。

確かに、入り口には「溝の口病院」と看板はあったが、診療科は表記されていなかった。

「入ろうぜ。」

杉ちゃんは、平気な顔をして入ってしまうが、夢路にはちょっと難しいなというところがあった。

水穂さんに促されてとりあえず中に入る。

中は異様な感じだ。さほど広くはないけれど、ぎっしりと患者さんが診察を待っている。その人たちは、特に体が肥満していたり痩せたりしているわけでもないが、その顔はのっぺらぼうみたいな人もおり、周りに誰かいるわけでもないのにでかい声でしゃべったりしている人もいた。

「我慢してくれ。そういうところなんだから。」

杉ちゃんにそういわれて、夢路は渋々頷いた。

「じゃあ、書類だしてくる。それまで、カフェスペースで待っててくれや。」

「わかったよ。」

もう慣れてしまっているのか、杉ちゃんと水穂さんはそんな会話を交わして、それぞれの持ち場へ行った。夢路は水穂さんと一緒についていった。カフェスペースに行くと、水穂さんが、ポカリスエットを一本、自動販売機で買ってくれた。今日のお礼だという。そこだけは今日の訪問でよかったことかもしれなかった。

「それにしても、お母様って、ここにいたんでしょうか。確かに50年くらい前から、この病院、ここにありますけど。」

「僕もよくわかりません。でも、母の話をすると、みんな黙ってしまうというか、言ってはいけないというところは見て取れます。いつも一緒にいてくれるおばさんだって、母は悪い人のように言います。ですけど、そうなったら、被害者が出るはずですよね。だけど、そういうことは一回もありませんでしたし。」

なるほど、確かに何か事件を起こしたというのなら、被害者の誰かが家に殴り込みに来るとか、そういうことはあるかもしれない。

「そうですか。だから、何か言ってはいけない秘密があるのだと思ったんですか。」

「ええ。僕は、母を責めるということはしたくないのですが、母について、本当のことが知りたいだけです。ただ、曖昧にしたくなくて。」

「曖昧にしていたほうが、平穏に生活できるからではないですか?」

夢路が自分の願いを話すと、水穂さんは、そういった。

「かえって知らないほうが、平和にというか安全に生活できるからと思って、そうしたんだと思いますよ。それを破ったら、生活できなくなるかもしれないでしょ。人間、自ら逝くということは、許されませんし、逆を言えば食べていかなきゃなりませんので。」

「と、いうことはやっぱり母は、犯罪者だったのでしょうか?」

「どうなんでしょう。僕はわからないですけど、とにかくお母様のそばにいたら安全な生活はできなかったから、おば様が引き取られたのではないかと思います。」

と、いうことはつまり、虐待でもしていたのだろうか?

「でも、虐待をして、捕まったということは聞いていませんし、僕は誰かに暴力を振るわれた記憶は何もありません。いったいなぜ、おばさんのもとに預けられる羽目になったのでしょうか?」

夢路は、ちょっと語勢を強くしていった。

「夢路さんが、正常に育ってほしかったからでしょう。」

「でも、おばさんではなく母がいてほしいと思ったことだってあるでしょう?」

確かに、理論的に言えば父と母が揃っていて当り前である。

「悪いね、遅くなって。前のやつが、受付でごちゃごちゃしてたから、遅くなってしまった。」

と言って、杉ちゃんが戻ってきた。書類を出しに行くにも、こういう病院だから何かと手がかかる人も多いのだろう。

「本当に、安全のために、僕は母と別れることになったのでしょうか?」

「まあねえ。こことかかわりのある人ってのは、多かれ少なかれ誰かに危害を出すだろうねえ。」

杉ちゃんは、頭をかじりながら言う。

「だけど、母に暴力を振るわれたとか、そんな話は一切聞きませんでしたが?」

もう一度、同じことを言うと、

「そりゃあ、君が育ってくれるように、あえて悪い話はしないさ。」

と返ってきた。なんだか、自分がすべての元凶になってしまったのかと感じられ、何ともやるせない、気持ちになっていると、

「じゃあ、婆さんの看護師に、きいてみるかいな。おい、君の母ちゃん、名前をなんと言ったっけな?」

「峰岸あや、です。」

杉ちゃんが質問したので夢路は答えを出した。ちょうどそこへ二人の看護師が通りかかる。

「おいおい君君、看護師長さんか誰かにさ、ここの病院に峰岸あやという女性がいなかったか、聞いてみておくれよ。」

その若い看護師に、杉ちゃんは聞いた。

看護師が、何を言い出すんだと、びっくりした顔をしていると、

「あやちゃんは、私知っているよ。」

と、隣にいた、かなり高齢の看護師が言った。

「ほら、うちは定着率が高くてさ、あまり異動になる看護師も少ないもんで、割と昔から、患者さんのことを覚えている人が多いのよね。」

「へえ、どんな患者さんだったの?」

なるほど、いわゆるチェーン店のような病院ではないということだろう。それなら印象的な患者さんというのもいるはずである。

「あやちゃん若かったし、体力もあって、よく泣きながら怒ってたね。確か生まれたばっかりの息子さんもいたはずなんだけどね。なんだろう?プレッシャーが大きかったのかな?うまく育てられないって言って、いつも泣いてた。」

「で、その人は、結局どうなったんですか?」

水穂さんが、そうきくと、

「確か、これ以上息子さんを育てると、あやちゃんも、息子さんも不幸になるからって、息子さんはお父さんが育てたんじゃなかったかな?本人は、ここにずっと入院していたけど、二、三年前に、法律が変わったから、もう病院は出て、ほかの施設に移ったらしいわよ。」

と、看護師は答えた。つまり、水穂さんがいうことに間違いはなかったのだ。

「じゃあ、その施設はどこでしょうか?」

夢路はそう聞くと、

「うーん、あたしたちはねえ。ずっと病棟で勤務してたから、そのあとのあやちゃんのことは知らないなあ。」

と、いう答えがでてきて、またがっかりした。若い看護師が、時計を見せて何か言う。

「ごめん、そろそろ会議が始まっちゃうから、席を外させてもらうねえ。」

二人の看護師は、そそくさと杉三たちのほうを離れていく。それを夢路は呆然としてみ

おくった。

「つまり、母はやっぱり僕に対して、虐待をしていたのでしょうか?」

「というよりか、不安とか、期待に耐えられなかったんでしょうね。それで、息子さんである、貴方に当たり散らしたのかも。直接暴力的なことはなかったかもしれませんが、それに近いことはあったのではないかと思います。だから、これでは無理だと周りの人が判断したのではないでしょうか。そして、ここへ連れてきて、隔離させたんでしょう。」

水穂さんの態度は優しかった。夢路も母を責めようという気にはなれなかった。

「なるほどな。君が生まれたので、すべての災いが始まったのか。そして、解決するには、母ちゃんから離すことだったか。」

杉ちゃんは、感慨深く言った。

「今は何でも予防の時代だから、簡単に別れられちゃうんだよね。」

「でも、看護師が、二、三年前にと言ったのだから、母はまだ生きているということでしょうか?僕は、亡くなったと聞かされてきましたが、そこは間違いなんですね。」

夢路は、ここはどうしてもはっきりさせておきたくて、そういってしまうが、

「お母様、探すつもりなの?」

水穂さんに言われて黙った。一生懸命考えていると、今度は、

「そのあと、どうするつもり?」

もう一回聞かれた。夢路は次のように答える。

「ええ。もし、可能であれば、うちの近所で住まわせてやりたいなと思います。息子である、僕のそばにいさせてやりたいと思います。そのほうが母も、やっと存在が認められたというか、喜ぶと思うので。」

「喜ぶかな?」

答えを出すと、すかさず杉ちゃんに突っ込まれた。

「でも、実社会に住めないから、退院できなかったわけでしょ。」

暫く間があく。

「だってよく考えてみろよ。本来なら、育児できないから母子を離すなんて、ありえない話だぞ?それをやるってことは、相当ひどかったんじゃないの?本人も辛いし、周りの人も。」

暫く間があく。

「それに、君だって、生活していかなきゃならないだろ?お母ちゃんは、なにもできないから入院して面倒見てもらってら。もし、こっちへ来させたら、君がそういうことをしなくちゃならない。それはやっぱり、高度な技術というか、忍耐力がいるよね。」

「夢路さん、単なるそばに置いておきたいなんて、本人にも周りにも迷惑がかかるんですよ。お母様だって、きっと実社会で生きていくことは、苦しいんじゃないでしょうか。それに、おば様にとっても、辛いことになるかもしれない。何よりも、夢路さん自身が次第に負担になっていくかもしれないんです。なぜなら、お母様のような人は、ただ食べるだけで、何も見返りは返ってこないから。そういう人をうけいれられるのは、昔でしたら、政府の高官や、公家のような人たちだけですよ。」

杉ちゃんも水穂さんもそういったが、

「でも、今は。」

夢路は、繰り返した。

「いえ、今でも昔も同じです。こういうことは経済的に豊かでないと、本人も周りもかえって逆効果であることが多い。そのために施設があるんです。手を出さないほうが生活していける。」

きっぱりと言われてしまって、夢路は、何も言えなくなった。確かに、そうなってしまうことも、ある程度なら予測できた。

「でも、どうしてそういうことがわかるんですか?」

やっとそれだけ言うと、

「僕も、そういう人間だから。誰かにつぶされるしか、価値はない。」

はっきりと言い返されてしまう。こんなにも綺麗な人が、なぜこういうことをいうのだろうか。普通に生きていれば、と思うのだが、、、。

そう考えていると、不意に前方からせき込む声がした。

「ほらあ、またやる。病院と言っても、ここではだめだぞ。誰も手を出してはくれないぞ。」

聞こえてきた一言で我に返り、よく見ると、水穂さんの背をさすっているのは杉ちゃんで、せき込んでいるのは水穂さんのほうである。苦しそうだ。

「しっかりしろ。」

そうだよなあ。二人とも、普通に生きている人ではないもの。いくら綺麗な人であってもなにかを作れないというか、それがなければ、この世界では生きていかれないのだ。働かざる者食うべからず、という言葉がこの世を支配しているように。それができない人が、身近にいたら、色んな諍いが生じてきて、生活ができなくなっていくだろう。今は、自分の身を立てるだけで精いっぱいの時代。他人のことにかまっていたら、自分の身がすぐに転落してしまう時代である。それがよいのか悪いのか、は不詳であるが。

「わかりました。手がかりだけはつかめたから、、、。」

ちょっと、気を抑えるように、というか、自分に言い聞かせるように夢路は言った。

「もう暫く、余裕ができたら、もう一回会いに来ます。あの、長沼駅を、母のいる駅だと思って、忘れないことにします。」

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