4羽 侵略開始
鳥をスナックに預けた長谷は、ひとまず今日の予定を片付けることにした。
大学へ車を走らせ、残っていた二コマの授業を終え、帰路に着く。当然、あの鳥の元へ立ち寄ることも忘れなかった。
おじさんの私有地であるという空き地へ車を停め、エンジンを切る。
店の前に目を遣ると、スナックのネオンが光っていた。戸にも大衆食堂のような暖簾が掛かっている。営業を開始したらしい。
この世に生を受けてから、およそ二十年。生まれてこの方、「夜の店」に足を踏み入れたことはない。思わず足踏みをした。
「い、いやいや。よく考えろ、俺。昼間に入った店と同じ店だぞ。どこに躊躇う要素があるんだ」
こくりと喉を鳴らし、ドアノブに手を伸ばす。棒状のそれを押し下げようとしたその時、中から賑やかな声が聞こえてきた。威勢のよい男性の声。それは複数個確認できた。
「マジか。まだ六時台だぞ。もう客がいるのか」
長谷の足元で小石が擦れる。そうかと思えば、どこからか喉を鳴らすような音が聞こえてきた。
クル。
それは数度耳にした鳥の鳴き声とそっくりだった。今頃も阿呆面を引っ提げて、店内を歩き回っているのだろうか。そうしみじみと思って、長谷ははとする。
「いやいや、ここで聞こえちゃまずいだろ!」
視線を配る。足元、背後、植木鉢の中。どこを見ても白い姿はない。長谷は呻き、首を振った。
「幻聴か……そんなに気になってんのかな、俺。我ながらちょっと引く――」
視界に映ったのは道路だった。鳥と出会った、片側一車線の道。そこへ向けてボールが転がっていた。
「いや、違う。あれは……」
次の瞬間、長谷の喉から意味を成さぬ声が洩れた。
「おまっ、お前は! 何をやってんだ、お前ーッ!」
それは鳥だった。昼間見たものとそっくりな――いや、それそのものとしても差し支えない阿呆面だった。
がしりと白い身体を掴む。幸いにも車が通過する前に回収することが出来た。もしも気付かぬまま入店していたらと思うと、ゾッとする。
「本当に何なんだよ、お前。自殺願望でもあるのか?」
手の中にあるその身体は、暴れることなく収まっている。この大人しさは間違いない、昼間に救出したそれと同一個体だ。
長谷は大きく息を吐いて、初体験の戸を開いた。
「あのぉ、こんばんは……」
「あら、いらっしゃ~い」
鮮やかな声と共に出迎えたのはミホだった。昼間のくたびれた様子から一変して、煌びやかなドレスと化粧を纏っている。長谷の視線はそれに釘付けとなっていた。
「昼間の子じゃない。改めて、スナック・ミホへようこそ!」
「どうもです、……ミホさん、ですよね?」
「ええ、そうよ。驚いたでしょ!」
無邪気に笑って、ミホはカウンター席を示す。ここに座れ、そういうことらしい。後ろ手に戸を閉めつつ、長谷はぐるりと店内を見渡した。
黒を基調とした落ち着いた雰囲気の中には、ミホ以外人っ子一人見当たらない。長谷は確かに聞いたのだ、馬鹿笑いをする男の声を。
「お客さん、いないんですね」
「開店したばかりだもの。人が来始めるのは、もう少し先よ」
グラスを拭きながら、ミホは応じる。その横顔には、女性にも劣らぬ色気があった。
元がよいとは言え、化粧一つでここまで変わるのか。長谷は感心すると同時に、同学の女子を思い出して、少しげんなりとした。
現実を知った長谷を嘲笑うかのように、どこからかドッと盛り上がる声が聞こえてくる。それは戸の外で耳にしたものとそっくりだった。
「テレビですか?」
「ラジオよ。聞かない?」
「車では音楽を掛けちゃうので」
客の声と取り違えたのは、ラジオの音だったか。長谷は頬が熱くなる思いだった。
「好きな曲を聞ける方が楽しいものね。その気持ちも分か――あら」
顔を上げたミホは目を瞬かせる。濃いアイラインに囲まれた瞳を動かすと、朗らかに笑み、グラスを置いた。
「お出迎えしてたの?」
「はい。道路に出て」
「はーっ!?」
咄嗟に出たその声は男性そのものだった。これが彼持前の声なのだろう。長谷は鳥共々肩を震わせる。
「いっ、いつの間に脱走して……嘘、やだ、ごめんなさい」
「いえ、ミホさんも忙しいでしょうし。こんな奴の世話を押し付けてすみません」
「それはいいんだけど……困ったわねぇ。どこから逃げ出したのかしら」
それは不明としか言い様がなかった。一見すると、鳥が通れそうな穴はない。長谷が訪ねるより先に客が来ていたとしたら、それと一緒に外へ出た可能性もあるが、そうだとしたら、ミホが全く気付かないとも考え難い。
長谷は鳥に目を落とす。丸まった目からは、相変わらず思考を読み取れなかった。
「まさか、別個体とか?」
「そんな……やめてよ、そんなの。ちょっと待って頂戴」
ミホはぐるりと店内を見渡した後、奥へと消えて行く。しばしの間の末、暖簾の隙間から「あっ」と声が洩れてきた。
悲鳴にも似た音に足音が混ざる。ミホは暖簾を押し開いた。
手には鳥。白い鳥。長谷と全く同じ鳥だった。
「いるわよ?」
「なんで?」
「さあ……」
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