第5話


「はぁ…」

夕陽が差し込む電車の中で、二条ももはそっと溜息をついた。

四月生まれのももは、ついこの間22歳の誕生日を迎えたばかりだった。

華の女子大生、とは名ばかりで大学四年生になったももには就職活動、という言葉が背中に重くのしかかっていた。

色々な企業の説明会にも、もう何度も足を運んでいる。

しかし、未だにピンとくる企業に辿り着けていない。

周りはもう大体決まっている。

焦りばかりが募ってゆく。

親友の一条さくらが死んでから5年。

あの後、結局ももはバスケ部を退部した。

それからは何となく学校生活を送り、何となく卒業し、何となく大学に通っている。

バスケの選手になって世界で活躍する選手になる、などという夢物語はエピローグすら無く自然消滅した。

夢を失い、大切な親友も失ったももは抜け殻のような毎日を送っていた。

特にやりたいこともなく、只々息をしている。

当たり前のように就職先も見つからず、企業説明会の帰りの電車で就職サイトをぼんやり見つめるのが最近の日課になってしまっている。

こんな堕落した自分を見たら、きっとさくらはガッカリするだろう、そんなことも考えたがもうさくらはいない。

『人は何かを失っても、きっとそれを乗り越えて前に進める。』

『神様は乗り越えられない試練は与えない。』

そんなの全部嘘っぱちだ。

二度と取り戻せない心に空いてしまった穴だってあるし、神様なんていやしない。

いや、こんな残酷な運命を叩きつける神様なんて神様じゃない。

もはや悪魔だ。

ももの心はすっかり荒んでしまっていた。

「………さくらに、会いたい…」

ふと唐突に思った。

さくらにとってももは憧れの存在だった。

それと同じように、ももにとっても、さくらは憧れだった。

バスケの才能もそうだ。

でも、それよりもさくらは一緒にいて安心する。

穏やかで、聞き上手。

かと言って全くの無口という訳ではなく、欲しい時に欲しい言葉をくれる。

全てを分かっているかのような落ち着いた雰囲気。

そして何より、優しかった。

自分のことより周りのことを優先する。

虫一匹殺せない、捨て猫を見たら泣きながら「連れて帰れなくてごめんね」と言う。

本当に心優しい子だった。

そんな子に、当たってしまった。

自分に才能がない事をさくらに八つ当たりしてしまった。

自分を想ってくれたさくらに、「大嫌い」と、言ってしまった。

いつまでもそれがももの心に残っていた。

いつまでも最後にさくらに言ってしまった言葉に、ももは責任を感じ、縛られていた。

だからこそ、未だにこの街を出られないでいる。

引っ越してすべて忘れようとも思った。

でもできなかった。

自分が、それを許せなかった。

「………」

聞き覚えのある街の名前を車内アナウンスが伝える。

駅に着き改札を出ると、空はピンク、紫、青…綺麗なグラデーションになっていた。

夕暮れと夜の境界線が曖昧な時刻。

地上での滑稽な人々の営みを嘲笑うかのように、三日月がはるか頭上で煌めいた。

すると、三日月の妖しげな輝きに操られたのか、ももの足は勝手にある場所に向かって歩き出していた。

十五分ほど歩くと見えてきたのは、小さな公園だった。

フェンスで区切られた向こう側には一面しかないが、バスケットコートがある。

昔、さくらと二人でよくここに来て練習した。

来るのが怖くて、今迄避けてきた場所。

だがこの日は、突然この場所に来たくなったのだ。

空のグラデーションは消え、もう夜の顔をしている。

誰もいない公園に一人、ももはフェンス越しにバスケットコートを見つめた。

二人で練習した。

沢山、沢山…。

なのに、その時のことを鮮明に思い出すことが出来ない。

あんなに沢山練習して、二人で笑って、泣いて、汗を流した。

きっと一番思い出がある場所のはずなのに、その時の記憶が朧気にしか残っていない。

涙が流れてきた。

さくらの時間はあの日で止まった。

でも、自分の時間は否応なしに進み続けている。

それを痛感させられる。

さくらの事を永遠に忘れないと思っていた。

勿論顔も、声も覚えている。

なのに、二人で過ごした日々がだんだん色褪せていく。

日を追う毎に記憶にかかる靄は濃さを増す。

さくらが自分の中から消えないのは事実だ。

しかし、さくらと一緒にいた頃の楽しかった記憶が自分の中で薄れていくのもまた事実。

涙は止まらない。

蹲って声を押し殺しながら泣いた。

あんなに自分を主張していた月は、何時しか雲に覆われ、微かな光すら見ることが出来ない。

ぽつり、ぽつりと、予報外れの雨が降ってきた。

雨は次第に激しさを増し、ももの悲しみから生まれた涙という雫を、自然の中で生まれた雨という雫で拭い去っていく。

暫くはそうしていたと思う。

ももの涙はいつしか止まっていた。

先程よりも弱まった雨を降らせる空を見てももは言った。

「私の涙より、あなたが流す涙の方がよっぽど綺麗ね。悪魔のくせに…皮肉だわ…」

雨は自然には必要不可欠なものだ。

緑を増やし、花を咲かせる。

万物の乾きを潤す恵みの雫。

しかし、人の流す悲しみの涙は何も生まない。

地に落ちても花は咲かない。

乾きを潤すことも無い。

自分の中にある『悲しみ』という感情が、心のキャパシティをオーバーした時に溢れてくるただの液体。

昔はそうではなかったはずだ。

試合に負けて流した悔し涙、勝って流した嬉し涙、映画を見て流した感動の涙…。

悔し涙は次の勝利への闘志を生み、嬉し涙は仲間との絆を育む。

感動の涙は感受性を豊かにし、優しさが芽生え、やがて愛情へと変化する。

あの頃流した涙は綺麗なものばかりだったはずだ。

「私の涙は、いつからこんなに陳腐なものになってしまったんだろう…」

呟いたももの声は雨が葉を叩く音に消される。

四月の雨はまだ冷たい。

びしょびしょに濡れたスーツに身を包んでいるももは、ふるりと身震いした。

「………帰ろ…」

ぽつりと言って、ももは公園を後にした。

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