タバコ
@opty61
第1話
それは人魚の恋に似ていた。
思い焦がれて近づけば、声を無くして蹲り、共に生きようと誓ったならば、脚の代わりに自由を失う。
いっそどこかの人魚みたいに、泡になって消えてしまえたらと、くだらない考えが頭をよぎる。
いつだって、追い縋るのは女と決まっていた。
部屋を出ようと、ドアノブに手を掛けたところで振り向いた。
あいつは呑気に寝息をたてて、すやすやと眠っている。たたき起こして文句の一つでも言ってやりたかったが、実際にそうしてみたところで、何が変わる訳でもない。
面倒臭そうに、「分かってる」を繰り返すだろうことは、簡単に想像できた。
部屋を出て、ドアをそっと締める。
真冬の朝は、コートを着ていても震えるほど寒くて、鍵を差し込もうとしても、カチャカチャとうまくいかない。
些細な物音でも目覚めるあいつは、そうやって起こされると、決まって機嫌が悪かった。
震える右手に左手を添えて、ようやく鍵を閉めることが出来た。
ポケットにそっと鍵をしまう。そしてそのまま、ギュッと握り締めた。何度も捨てようと思ったのに、いつも土壇場で躊躇ってしまう。
廊下をエレベーターに向かって歩きながら、反対のポケットからタバコを取り出した。
ライターで火をつける。嗅ぎ慣れたあいつの匂い。
我ながら、少し情けなくなった。
こうして人の目を盗んでまで、逢瀬を繰り返す程の価値があいつ自身にあるのかといえば、恐らくそんなことはないだろう。
きっと誰でも良かったのだ。
女が一人意地を張って、孤独な生を全うするには、私の心は弱過ぎた。
もたれ掛かる何かがあれば、それで良かったのだ。
エレベーターに滑り込む。
一階に着いたら、誰もいないエントランスを抜けて表へ出る。外はまだ薄暗い。
朝焼けが色を増す空を見上げる。吐く息が白い。全てがどうでもよく思えてきて、くだらない居場所を確保するために、躍起になっている自分を、責めたりもした。
けれど夜にはきっとまた、ここへ戻って来るのだろう。
あいつに抱かれる、そのために。
全てを委ねたあの日から、私が過ごした“日常”の、当たり前は当たり前では無くなった。
※本作はTwitterにおけるハッシュタグ『始まりと終わり』で、最初と最後の一文を指定頂き、書いたものになります。
タバコ @opty61
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