2 土曜日、病院で
室井くんを乗せたバスを見送ってから、彩瑛は学校に向かって歩き始める。土曜日の早朝に客待ちをするタクシーも1台もなく、あたりには誰もいなかった。
「今日、どんなことがあっても驚かないでほしい」
室井くんはそう言った。試合でトリックプレーでもするのかな? それとも相手校のマネージャーをからかった? でも、なんだか寂しそうだったのが気になる……。彩瑛は、ヒントだけ出されて答えを教えてもらえなかったような、宙ぶらりんの気分で歩いた。
ふと見ると、病院の玄関前の歩道で小さな女の子が遊んでいた。ひとりで何かを歌いながら、ダンスをしている。
3歳か4歳ぐらいだろうか。赤いシュシュでツインテールに結んだ髪に、ピンクのワンピース。あどけない歌とダンスが、動く人形みたいに可愛らしかった。
でも、おかしい。こんな朝早くに小さな女の子がひとりだけで、近くに家族らしい人もいないなんて……しかも雨なのに。
家族は病院の中にいるのかと思って、彩瑛は玄関ドアのガラス越しにロビーを覗いてみた。そこでは、グレーの作業服を着た掃除係の女性が黙々と床のモップがけをしているだけで、ほかには誰もいなかった。
女の子はダンスに夢中で、ロータリーの車道に出てしまった。このまま放っておいて、国道まで行っちゃったら危ない――。
「おはよー!」
彩瑛は両手でメガホンをつくり、歩道の端まで行って女の子に声をかけた。
「そこは車が来て危ないから、こっちにおいでー!」
女の子は警戒する様子もなく、すぐ歩道に戻ってきてくれた。彩瑛は身長を合わせるように小さくしゃがんで、女の子に向き合った。
「車、いないよ?」
子どもらしく、ほんのりと口をとがらせて言う。くっきりとした二重瞼と茶色っぽい瞳をした、顔立ちの整った子だった。
「そうだね、今はいないね。でも、来たら危ないでしょう?」
「……うん」
「お名前は?」
「ヨコヤマ・アサミ・です!」
誰かにそう教えられているらしく、お行儀よくしっかりとした返答だった。
「アサミちゃん、いいお名前だねー。いくつ?」
「3歳」
アサミちゃんは指を3本立てようとしたけど、薬指を上手に伸ばせなかった。2歳と4歳は簡単だけど、3歳は難しい。
「パパかママは一緒にいないの?」
「いる」
「どこに?」
「びょういん」
「ホント? 誰もいないみたいだけどなー?」
「こっち!」
そう言うと、アサミちゃんはいきなり駆け出した。掃除係の女性が開けていた玄関の自動ドアをすり抜けるように通って、彩瑛を手招きする。
「おねえさん、おいで!」
行くしかなかった。早く学校に行って、部員全員のスパイクを磨いてあげようと思ってたけど、この3歳児の身の安全を確認するほうが先決だった。
「どっち?」
彩瑛がロビーに入ると、アサミちゃんは迷わずエレベーターホールに向かった。毎日の通学で横を通っている病院なのに、建物の中に入るのは初めてだった。まだ開院前で、ロビーは照明を落としていて暗かった。
「5階!」
エレベーターに乗ると思ったら、アサミちゃんは階段を使った。彩瑛は痛む足をかばいながら、3歳児とは思えない身軽さで駆け上がる背中を追いかけた。3階の次が5階でラッキーだった。壁の案内図を見たら、病院らしく4階と9階がなかった。
「アサミちゃん、待って!」
5階は入院病棟で、廊下の両側にいくつもの病室が整然と並んでいるフロアだった。大きな声を出しちゃいけないと思い、彩瑛は小声でアサミちゃんを呼んだ。でもアサミちゃんは振り返ることもなく、一目散に走っていく。
「パパ! ママ!」
ワゴンで朝食を運んでいる看護師さんの横を全速力で走り抜け、アサミちゃんは507号室に入った。何人かいる看護師さんたちはみんな仕事で忙しいらしく、朝食を運んでいる人もナースステーションにいる人も、誰もこちらを気にしない。「病院で走らないで」と叱られるかもしれないとビクビクしていた彩瑛は、ちょっとホッとした。
「よかった。無事に会えたみたいね……」
こんな早朝に、見知らぬ高校生に訪問されても迷惑になるだろうと思い、彩瑛は507号室を覗くことはやめた。――早く学校に行って、みんなのスパイクを磨かなきゃ。
「おねえさん!」
階段に戻ろうと歩き始めると、アサミちゃんに呼び止められた。振り返ると、アサミちゃんは507号室から顔だけをちょこんと出して、こちらを見ていた。
「パパとママに会えたのね?」
彩瑛が問いかけると、アサミちゃんは花が咲いたみたいに顔をほころばせる。
「うん」
「もう、ひとりでお外に行ったらダメだよ?」
「うん!」
「約束してくれる?」
「うん!」
「じゃあ、お姉さんは行くね。バイバイ!」
「バイバーイ!」
手を振るリズムに合わせて、アサミちゃんのツインテールがゆらゆらと揺れていた。
*
玄関では、掃除係の女性が自動ドアを全開にして、雨天用らしいフロアマットを設置していた。「すいません」と声をかけながら屋外に出ると、雨はまだパラパラと落ちていた。でも、手のひらを広げても雨粒は当たらないし、地面もそんなに濡れてはいない。雲の流れも早いから、午後1時半のキックオフまでには上がってくれそうだった。それでも念のため、学校に着いたらすぐに照る照る坊主を作ろうと心に決めて、彩瑛は病院の脇道を急いだ。
外壁に臙脂色のタイルが貼られた市民病院の建物の裏に何百台も止まれる広い駐車場があり、その隣が瞭星高校のグラウンドだ。
――と、そこへ。
「おねえさん!」
またアサミちゃんだった。
声がした方向に顔を向けると、病院の裏口で小さな手を振っている。裏口側の階段を使って下りてきたらしい。
「どうしたの?」
さっきと同じように駆け寄って、体をかがめて声をかける。玄関で作業していたのとは別の女性がドアを開けっ放しにして、裏口にもフロアマットを設置していた。
「あれれ? ひとりでお外に出たらダメって約束したでしょ?」
3歳児は、ちょっと口をとがらせる。
「ちがうよ、あのね……」
「なぁに?」
「バイバイしに来た」
「さっき、バイバイしたのに?」
「また、する」
「そっか……。じゃあ、また5階のお部屋まで、お姉さんと一緒に行こうか。それで、もう一回バイバイしよう」
言い終えるのも待たず、アサミちゃんはさっきと同じように全速力で駆け出し、彩瑛は再び追いかけた。そして5階という名の4階まで行き、507号室の前で別れた。
「アサミちゃん、バイバイ!」
手を振る彩瑛を放置して、アサミちゃんは吸い込まれるように部屋に入っていった。
*
1階に戻って裏口から出ようとしたとき、段ボール箱をいくつも乗せた台車を押した男性が自動ドアを入ってきた。配送のドライバーらしく、段ボール箱にはスナック菓子やチョコレートのロゴマークが描かれている。院内の売店に置く品物だろうと思いながら、彩瑛は台車の邪魔にならないよう体を端によけてすれ違った。
早く学校に行って、照る照る坊主をいっぱい作って、スパイクを丁寧に磨いてあげよう。選手たちはみんな、去年の敗戦から今日まで必死に練習してきた。だから絶対にリベンジさせてあげたい。有徳だけには負けられない。
視線を上げた。目の前に、見覚えのある水色のジャージを着た少年が立っていた。
――室井くんだった。
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