さっき、僕は嘘をついたから
真野絡繰
1 土曜日、路線バスで
土曜日なのに、バスは意外なほど混んでいた。高校までの毎日の通学で、もう乗り慣れた路線バスだ。
――残念、座れないかあ……。
でも。
昨日、家の玄関でつまずいて上がり
「ここ、よかったら座りますか?」
振り返ると、背の高い男の子が座席から立ち上がり、空けてくれたスペースを指差していた。幼稚園児が茶色のクレヨンで塗りつぶしたみたいに日焼けした顔に、がっちりした体。上下とも水色のジャージを着ていて、ひと目で運動部の男子高校生だと思った。
「いえ……いいです」
反射的に断った。席を譲ってもらえるのはうれしかったけど、同世代の男子に声をかけられたことにドギマギして――。
「足、怪我してますよね? かばって歩いてましたけど」
え……そっか、変な歩き方してるのを見られちゃったんだ……なら仕方ない。彩瑛は、彼の好意を受け入れることにした。
「すい……ま……ません……」
緊張して、お礼の言葉を噛みながら腰を下ろすと、彼のジャージの胸に赤い糸で刺繍された学校名が見えた。――YUTOKU HIGH SCHOOL。
「あれ、
バスは次の停留所に停まり、隣に座っていた白髪のおばあちゃんがゆっくりとした歩みで降りていった。ジャージ君は少し躊躇してからそこに腰を下ろし、彩瑛の質問に答える。
「うん、僕は有徳です。君の制服は、えっと……
おどおどしたような様子を見て、彩瑛はなんとなく安心した。もしかすると自分と同じで、彼も誰かと話すのがあまり得意じゃないタイプなのかもしれないと思ったからだ。でも、こんな風に安易に同類項でくくるのは、自分から恋愛を遠ざける悪い癖――。
「この制服……やたら目立っちゃうから、いつもバレバレで……」
思い切って冗談っぽく言ってみると、彼は表情をゆるめた。この近辺の人は誰でも、オリーブグリーンのセーラー服を見れば瞭星の制服だとわかる。高校生なら特に。
「もしかして今日、サッカーの試合に行きます? 県立グラウンドの」
彼は、思い出したように聞いた。
「行きますよ。私、こう見えてもサッカー部のマネージャーなんです」
内気で人見知りする性格を変えられるかも、と思って入ってみたサッカー部。おかげで男臭さには慣れたけど、いつかは恋愛も……という淡い期待のほうは実っていなかった。というより、芽吹いてもいなかった。
「僕もサッカー部なんですよ」
「えーっ。今日の試合、出ます?」
今日は、彩瑛が通う私立瞭星高校と、同じバスで隣り合って座っているジャージ君が通う県立有徳高校のサッカーの試合――県大会の準決勝――だ。
「出ますよ」
彩瑛は再び「えーっ」と大げさに驚き、試合当日に相手校のサッカー部員と知り合った偶然を不思議がりながら、笑顔をつくって言った。「今年は負けませんからね!」
去年の県大会。瞭星は決勝で有徳と当たり、1対2で負けてしまっていた。ずっと攻め込まれていた前半に1点、後半にもフリーキックを直接ゴールされ、瞭星がやっと1点を返せたのは後半アディショナルタイムに入ってからだった。彩瑛の網膜には今も、2点目のフリーキックが描いた芸術的な放物線がくっきりと焼きついている。――決めたのは、相手チームの選手だったけど。
「去年の決勝、よく覚えてますよ。終了間際に、瞭星の
「去年も、試合に出てたんですか?」
ジャージ君はうなずき、控えめな声で1年のときからレギュラーだったと自己紹介した。ポジションは主にトップ下、名前は
「出てたよ。松村さんが信じられないぐらい速くて、ぜんぜん止められなくて……」
室井くんは、視線を上げて悔しそうに言った。去年のあの日は気温が30℃を超え、後半に入ってからは両チームとも完全に脚が止まる消耗戦だった。そして瞭星は負け、卒業後の松村さんはプロになった。
「室井くんはこのへんに住んでるの?」
彩瑛は話題を変えた。これまで同じバスに乗り合わせたことはなかったし、このあたりから有徳に通うにはかなり遠い。
「いや。今日はちょっと特別で……」
言いづらそうに揺れた視線を見て、彩瑛はそれ以上追求するのをやめた。
「そっか、初対面の私には言いにくいこともあるもんね? しかも私は、今日これから対戦するチームのマネージャーだし」
「……ていうかさ」
室井くんは真剣な表情になる。難しい数学の問題でも解いてるみたいに。
「なに?」
「君に会いに来た、って言ったら信じてもらえる?」
バスは車体を大きく揺らしながら交差点を曲がり、国道に出て停留所に止まった。『市民病院前』までは、停留所にしてあと3つだ。
「……それ、冗談だよね?」
「じゃなくて、真剣。今日の試合で勝つために、相手校のマネージャーからチームの内部情報を得ようとしてるんだ」
5~6人の小学生が乗ってきて、車内がいきなり騒がしくなる。おそろいのユニフォームを着たサッカー少年たちが、どこかのイベントに行く途中のようだった。
「……え?」
「……ごめん、冗談だよ」
言葉とは裏腹に、どこか無理をしているように見えた。本心は、ここじゃない別の場所に置いてあるような感じに。
「今は仲よくお喋りしてるけど、試合は試合。負けませんから」
「いや、勝つのは有徳だよ」
小雨が降り出して、運転手がワイパーのスイッチを入れた。動くたびにゴムがこすれる音がして、車内には雨の匂いが広がった。
「私、次の『市民病院前』で降りるよ。瞭星は、病院の裏手にあるから」
フロントガラスの先に、国道沿いにそびえ立つ市民病院の巨大な建物が見えていた。
「じゃあ、もう時間ないね……」
「?」
「あのさ……」
室井くんは、また数学の問題に立ち向かう表情になる。彩瑛も、数学は大の苦手だ。
「どうしたの?」
「君もさっき言ってたけど、僕たちって初対面でしょ?」
「うん」
「初対面の……しかも他校の人にはちょっと言いにくいんだけど……」
「試合に負けてっていうのはナシだよ?」
「大丈夫、そんなんじゃない」
室井くんは小さく首を横に振り、何かを決意したようにきっぱりと宣言する。
「――今日、どんなことがあっても驚かないでほしい」
「…………?」
何を言いたいのかが瞬時にはわからず、彩瑛は彼の言葉を脳裏で反芻した。バスのワイパーが、またキュッという音を立てた。
「――どういう、こと?」
「それ以上でも以下でもない、言葉どおりの意味だよ。でも――」
「でも?」
「すっごく、大事なこと。もう少し時間が経てば、君にもわかると思う」
バスは市民病院に着き、タクシー乗り場とスペースを分け合ったロータリーの停留所に止まった。乗り降りする人がいなくても、ここでドアを開けてしばらく停車するのがデフォルトだ。
彩瑛は立ち上がり、後方の降車ドアに向かいながら室井くんに確かめる。
「そんなに大事なことなの?」
「うん」
「わかった、覚えとくね。――じゃあ、後でまた県立グラウンドで!」
室井くんは、彩瑛に応えて小さく手を上げた。その表情は、どこか寂しげだった。
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