3 土曜日、グラウンドで

「どうしたの? バス、ここで降りなかったよね?」


 無意識に身構えていた。でも室井くんは、何事もなかったようにうなずく。


「次で降りて、戻ってきた。――口下手なせいで、さっきはうまく言えなかったから」

「何を言えなかったの?」


「……本当のこと」


 困ったような悲しいような表情の後で、室井くんはちょっとだけ目を伏せる。


「本当の……こと?」


「僕もまだ全部を理解できたわけじゃなくて半信半疑だから、本当に驚かないで聞いてほしいんだけど……いいかな?」


「……うん」


 室井くんは、一度大きく深呼吸した。明らかに、自分を落ち着かせようとしていた。


「君は今、死にかけてるんだ」

「え?」


「こんなこと、いきなり言われても気持ち悪いだけだと思うけど……たぶん間違ってないと思う。だから、信じてほしい」


 彩瑛は返答に迷った。室井くんの真剣さは伝わってきたし、少なくとも騙そうとしているようには見えないけど……けど……。


「どういうこと?」

「そこの自動ドアの前に立ってみて」


 わけがわからないまま、言われたとおりにする。でも、開くはずのドアはピクリとも開かない。


「あれ?」

「センサーが反応しないんだ」


 そこに、さっきの配送ドライバーが空の台車を押して戻ってきた。ドアは当然のように作動し、ガラガラという車輪の音が響いた。


「今だ。中に入ろう」


 勢いに押されて、一緒に院内に入る。室井くんは少し進んで、長椅子が並んだロビーの一角で立ち止まって聞く。


「久我原さん。瞭星と有徳の試合って、何月何日だったっけ?」

「5月7日土曜日、今日でしょ?」

「違うんだよ。そこの新聞を見てみて」


 新聞は、綺麗にファイルされてラックにかけてあった。その日付は――


「5月8日になってる……」

「そう、今日は5月8日の日曜日。僕たちの試合は、昨日だった」

「なんでよ……こんなの、変だよ……」


 自分に何が起きているかが理解できず、彩瑛は混乱した。心がザワザワして頭もクラクラした。でも室井くんは冷静だった。


「今日、5月8日は県立グラウンドで青少年サッカー教室がある日だよ。僕たち有徳のサッカー部は、そこで場内整理のボランティアをすることになってた。さっき、バスに乗ってきたサッカー少年たちは、たぶんそれに参加する子だよ。ほら、あれ――」


 室井くんは、壁の掲示板に貼られた1枚のポスターを指差す。それは彼が言った青少年サッカー教室のもので、「5月8日・県立グラウンドにて開催!」と書かれていた。


「……もしかして、私はタイムトラベルしちゃったの?」


 そうとしか思えなかった。でも、室井くんはゆっくりと首を横に振る。


「それは違う。君は今、1日分の記憶をなくしちゃってるんだよ」

「え……どうして?」

「3階に行けばわかる。ついて来て」


 一緒に3階に上がると、室井くんは廊下の奥へと早足に歩いていく。


「どこまで行くの?」

「この部屋を覗いてみて」


 そこは廊下から覗けるようガラス張りになった部屋で、入り口のドアに「ICU/集中治療室」と書かれていた。室内にはベッドが4台あり、そのうち2台を誰かが使っている。


「あのベッド、誰が寝てるか見える?」


 室井くんにうながされて目をやると、そこに寝ていたのは――自分だった。


「……どういうこと? なんで……なんで私が病院のベッドに寝てるの?」


 彩瑛はようやく、さっき室井くんが言った「君は今、死にかけてるんだ」という言葉の意味を理解した。でも、わかったのは意味だけで、こうなった理由がわからない。


「ここは集中治療室といって、重体とか危篤の人が入る部屋なんだ。君のはここにいて、今まさに命が尽きかけている。だからこそ、僕と喋ってる君というがいる」


「……うん」


「そして、分身のほうの君は記憶を失っている。たぶん、一時的にだけど」


 彩瑛は覚悟を決めた。そして、知っていることだけでいいから、最初から順に説明してくれるよう室井くんに頼んだ。彼は言葉を選びながら、ゆっくりと話し始めた。


「僕たちは昨日の5月7日、県大会の準決勝で県立グラウンドにいた。試合前、僕が地下のロッカールームからピッチに出ようとして階段を上がってたとき、君は反対に1階から下りてこようとしてた。そのとき、君は重そうなクーラーボックスを運んでいて、急にバランスを崩した」


 彩瑛は必死に思い出そうとした。クーラーボックス……クーラーボックス……古い紺色のが壊れて、新しいのを買って……。


「――覚えてない?」

「えっと……古いクーラーボックスの取っ手が壊れてて、持ちにくくて……」


「慌てなくていいよ。ゆっくり考えて」

「……あ!」


「何か思い出せた?」

「私、クーラーボックスを運んでたら手が滑っちゃって……それに、前の日にぶつけた足が痛くて……階段で……」


「――足を踏み外した」

「そのとき、誰かが私を支えようとしてくれて……有徳の、水色のユニフォームを着た選手だった……」


 室井くんは、黙って彩瑛を見つめている。


「――それは室井くんなのね?」

「うん。でも支えきれなくて、一緒に階段を転げ落ちちゃった。その結果、僕たちは頭を打って救急車で運ばれた」

「そんな……」


 彩瑛には、何も言えなかった。言えることなんか、何もなかった。


「君の隣のベッドに寝てるのは、僕だよ」


 彩瑛は目を閉じて、必死に記憶の糸をたぐり寄せた。昨日の朝、学校からマイクロバスに乗って県立グラウンドに行った。今日と違って快晴で気温が高くて、だからドリンクも多めに用意して、壊れたクーラーボックスも使った……。


「私のせいで、室井くんに大怪我させちゃったんだね……ごめんね……」


 泣きたかった。号泣したかった。でも涙は流れてこない。目の奥は痛むのに。


「いいんだよ。勝手に助けようとして、勝手にミスったのは僕なんだから」


 しばらく沈黙した後で、彩瑛は聞いた。


「ねえ。今の私たちって、幽霊なのかな?」


「オカルトっぽい言葉だと、『幽体離脱』なのかなあ? 自分の体から抜け出た意識とか魂みたいなもの……みたいな」


「だから、普通の人には見えないのか……」


 掃除係の女性も配送ドライバーも5階の看護師さんたちも、誰もこちらを見なかった。それは無視したわけじゃなく、見えなかったからだ。


「最初は僕も、何もわからなくて焦ったよ。知らないベッドで自分が寝てるし、ここがどこかもわからなかったし……状況を理解できるまで、ずいぶん迷わされた」


「……うん」


「でも、隣のベッドに君がいるのを見て、階段の事故のことを思い出せた。その後で君の分身が体から抜け出て、そのままスッと病院から出て行っちゃった。だから僕は追いかけて、引き留めようとしたんだ」


「私、試合のことばっかり考えて、気がついたらバスに乗ってた。家族にも心配かけちゃってるね……私、ひとりっ子だし」


 すると、室井くんは隣の部屋を指差す。


「君のご両親らしい人たちは、その部屋にいるよ。僕の家族も来てる」


 両親の顔を思い浮かべたら、小さな手でバイバイするあどけない笑顔がよぎった。


「あ、アサミちゃんも……」

「ちっちゃい女の子のこと?」


「うん。ピンクのワンピースの」

「あの子なら、もう大丈夫だよ。無事に、ちゃんと体にと思う」


「室井くん、わかるの?」

「わかるっていうか、感じる。あの子の意識は、もうここにはないよ。だから大丈夫」


「なら、よかった……」


 彩瑛はホッと胸をなで下ろしながら、別れたときのアサミちゃんの様子を思い出していた。あの人懐っこい子がバイバイもせず吸い込まれるように部屋に入ったのは、そのとき自分の体にからだと思えた。


「ごめんね。僕もまだ曖昧で、うまく説明できなくて……」

「ううん、謝らないで」


「でも、謝ることがひとつあるんだ」

「何を?」


「さっき、僕は嘘をついたから」

「……嘘?」


「バスで、僕たちは初対面だって言ったでしょう? あれは嘘なんだ。僕は君のことを前から知ってたし、覚えててくれたとしたら君も僕を知ってる。去年の決勝の日に、僕たちは県立グラウンドで会ってるから」

「……ホントに?」


「僕が落とした定期入れを君が拾って、走って届けてくれた。忘れちゃった?」


 ――覚えていた。まだ1年生で坊主頭の有徳の生徒に届けてあげたっけ。


「あれも室井くんだったんだ……」


 そして、照れくさそうに定期入れを受け取った有徳の背番号10番は、その後の試合で芸術的なフリーキックを決めた。


「先生、至急お願いします! ふたりとも急変です!」


 の状態が変わったらしく、集中治療室の看護師さんが慌てた様子で内線電話をかけた。ずっと聞こえていたツー・ツーという電子音が1オクターブ高い連続音に変わり、画面に描かれていた波形も平坦になっている。


「どうする? 室井くんはあそこに行って、自分の体に戻る?」

「……ていうか、戻れるのかな?」


 わからない。でも、高校2年で人生を終えるなんて早すぎると彩瑛は思う。


「じゃあ、私と一緒に行ってみようよ。それで来年またと試合して、去年の決勝みたいにすごいフリーキックを決めてよ」


 看護師さんに呼ばれた先生らしい人が急いで走ってきた。自動ドアが開くタイミングに合わせて、ふたりは集中治療室に入った。


「戻るなら、今しかなさそうだね」

「うん。絶対に外せないゴールチャンスかも」


 彩瑛はうなずきながら、次に何を言うかを心のなかで決めた。それを口にするには、バスで最初に会ったとき以上にドキドキするだろうけど、これは緊張じゃなく胸が弾んでるんだからと自分に強く言い聞かせて――


「また会いたい」

「僕も」


 視線を重ねた次の瞬間、彩瑛の意識はベッドに寝ている自分のものに変わった。手を動かしてみたら、指先に力が通うのがわかった。


 首を横に向けた。

 隣のベッドには、室井くんが横になっていた。


 心から祈った。どうしようもないぐらいに強く願った。


 5秒、あるいは10秒……。


 もっと長かったかもしれない。短かったかもしれない。


 無音だった。何もかもが硬直していた。


 ただ見つめた。そうするしかなかった。


 室井くんはゆっくりと目を開け、こちらを見て静かに微笑んだ。

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さっき、僕は嘘をついたから 真野絡繰 @Mano_Karakuri

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