第1話 大学生のモノローグ

 何枚上着を羽織ったとしても、顔まで隠すことは難しい。

 晒されるしかない頬を赤くして、たくさんの人が歩く午後九時の駅の前。


 その駅の、雪に降られないようなところに置いてあるベンチに、白石航平は座っていた。現在大学一年生、親元を離れ一人暮らしをしている。


 最初に断っておくが、彼は別に彼女と待ち合わせをしている訳ではない。クリスマスイブに駅のベンチに座っているからといって、そう決めつけるのは偏見だ。航平には高二の時から付き合っていた彼女がいたが、半年前に別れた。


 この時期に彼女がいない、すなわち特に予定がないというわけで、航平はまんまとバイトのシフトをあてがわれた。それでせっかくのクリスマスイブは、ほぼ一日バイトで潰されてしまった。


 バイトが終わったら、大学の友達の家で行われているパーティに参加しようと思っていたが、航平の知らないうちに降り始めた雪のせいで、電車の運行が一時見合わせになり、どうしようもなくてベンチに座っている。


 彼は何もすることがなく、ただぼんやりと、きれいにライトアップされたクリスマスツリーを眺めていた。


 駅前の広場の真ん中に設置された、ビル三階分はありそうな巨大なツリーは、航平の座るベンチから、その全体をよく見ることができる。

 星とリンゴを象った様々な飾り、きれいな電飾に彩られたツリーは見る者の心を惹付けた。


 ──とても幻想的だ。飾りのリンゴを一つ食べてしまおうか。きっと美味しいだろう。だってそれはアダムとイブの食べた、知恵の樹に生る禁断の果実なんだから。


 クリスマスイブと、アダムとイブのイブが図らずも掛かっていることに気づいて、航平は一人で苦笑した。


 少し前までの彼は、クリスマスが大好きだった。クリスマスという行事は不思議な力を持っている、人々に夢を与える、と思っていた。


 家族とちょっと豪華な食事をしたりケーキを食べたり、友達とパーティをしたり、恋人とデートをしたり。子どもにはサンタがやってくるし、街は幻想的なイルミネーションで彩られる。このシーズンになるといつもとは違う、夢のような世界が目の前に出現する。


 普段は大嫌いな冬の寒さも忘れ、吐く息が白いことさえ素敵に思えてくる。

 クリスマスイブとクリスマスは人々を幸せにする特別な日だ、と思っていた。


 だが、一人で迎えるクリスマスに今、航平は何の特別さも感じていない。


 確かにクリスマスツリーやイルミネーションはきれいだな、と思う。が、ケーキもデートもない、サンタもいないイブとクリスマスは、現在の航平にとって、ただ普通の十二月下旬、冬真っ盛りの極寒の二日間でしかなかった。友達とのパーティはあるけど、特別感で言うと、しょっちゅうやっているタコパと大差ない。


 昔は喜んでいた雪だって、今となっては面倒くさい邪魔者だ。

 空から落ちてくる白い障害物。


 ホワイトクリスマスになるのだろうか。なんにもそそられない。航平はため息をついた。白い息が航平に寒さを再認識させる。


 そしてとどめに航平の頭に浮かぶのは、そもそも俺は仏教派だ、という、使い古されたツッコミ。


 ではクリスマスは航平に何を祝ってもらいたくてやってくるのか。


 甚だ疑問である。だが、それを考える気すら起きない。


 大人になればなるほどクリスマスという行事に構っていられないくらい忙しくもなるし、気にならないものになっていくのだろう。年を取るごとに、お化けを怖がらなくなるのと同じように。


 つまり今の航平は、クリスマスに興味がなかった。それどころか嫌悪感を抱いていた。


 この時期に騒ぎだすバカップルを見ると、後ろからついていって、不意打ちで背中を蹴ってやりたいという衝動に駆られる。だが自分の貴重な時間を、どぶに垂れ流しにするに等しいことはしない。大学生は、そんなに暇ではないし。

 

 そのかわり、楽しそうに手をつないで歩いていくたくさんのカップルを尻目に航平は、クリスマスにも、彼女との予定にも振り回されていない今年の俺は大人だな、と一人で妙に得意げになった。


 そういえば最近、航平は大人になってきたと思う瞬間が多々ある。一人暮らしを始めたのが大きなきっかけだろう。洗濯、掃除、食事の準備だって全て自分の力だけでしなければだめだし、たくさんバイトをしてお金もどんどん稼がなければならない。来年には成人を迎えるわけだしな。


 そんなことを考え、航平は改札の方に、ちらっと目をやった。電車が動き出している気配はない。いっそのこと歩いて帰ろうか。ここから家までは三駅分しかないから、歩けば一時間くらいで着くはずだ。


 もう少し休んだら帰るとしよう、と思いながら彼は、さっき近くの自動販売機で買ってきた缶コーヒーのふたを開けた。


 航平が初めてコーヒーを飲んだのは中学一年生のとき。当時は砂糖をこれでもかというくらい入れて飲んでいたが、今では、コーヒーはブラックしか飲まない。


 いつの間にか大人になったんだな。子ども扱いされる必要もなくなっていく。


 航平は、何となく感じた哀愁とワクワクを、苦みの強いコーヒーと一緒に飲み込んだ。芯まで冷えた身体がわずかに暖まる。


 ほっ、と一つ白い息を吐いたところで横から声をかけられた。


「あのお、すいません」 


 そこには小学生くらいの女の子が立っていた。


 茶色のズボンに赤いコートを着て、小首をかしげてこちらを見ている。背丈はベンチに座っている航平の目線と同じくらいで、多分動き回っていたのだろう、鼻のてっぺんが、ほのかに赤くなっていた。


「この辺で、大きなリュックサックを背負った髪が真っ白なおじいちゃんを見ませんでしたか?」


 ──大きなリュックを背負った白髪のおじいちゃん。


 記憶を辿ってみても、そんな人はいなかったように思う。見ていたとしても、さっきからずっと自分が大人になっている実感をして、自己満足の世界にいたから、記憶には残っていない。


「ごめん、多分見てないと思う」


 航平は答えた。すると女の子は、残念そうな表情でため息をついた。


「やっぱりそうですよね。ありがとうございます」


 女の子があまりにも悲痛な面持ちだったため、航平は可哀想になって尋ねた。


「君、迷子になっちゃったの? 大丈夫?」


 すると女の子は、一瞬きょとんとした後、

「いや、そうじゃなくって、おじいちゃんが迷子なんです。結構長い間探してるんですけど見つからないんです」

 と言ってちょっと気まずそうに笑った。

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