あねといもうと
「中宮さま! どうなされたのです」
どういう風の吹き回しなのだろう。身分の高い中宮彰子が、居所の飛香舎から、身分低い女房である紫式部の房まで、渡ってくること自体が、あまりにも異例だ。紫式部は、何故、と、いぶかしんだ。
「話をしに来たのよ、紫式部」
少し、照れたような微笑みをたたえ、彰子は紫式部の房へと、入って来た。
彰子が人払いをしてきたのか、周囲には人の気配がない。とても賢い彼女のことだ。これで自分も紫式部も、胸の内を忌憚なく話せると、踏んだのだろう。宮中の、しかも身分の高い彰子が、自ら飛香舎を飛び出してきたのでは、完全に人の目や耳を遠ざけることは出来ないが。
紫式部は、普段自分が使っている円座を、彰子に勧めた。彰子は、自分の居所と比べて、狭くて物も少ない紫式部の房を、嬉しそうに、きらきらした目で見回した。そして、文机の上に、硯箱のふたが開けておいてあることに気付いて、ふっと微笑んだ。
「この文机と硯箱で、源氏物語が生まれるのね」
彰子も「源氏物語」の読者であるからか、その言葉は、非常に感慨深げに聞こえた。勧められた円座に優雅な仕草で座ると、持っていた扇を、これまた美しい仕草で広げ、ふんわりと微笑む。それだけで、この狭い房に、灯が入ったように明るくなるのを感じ、紫式部は恐縮してその場に伏した。
この若く美しい中宮は、自分の性を分かっているのだろうか。その優雅で美しい仕草ひとつで、誰もがひれ伏したくなる。紫式部は、今、改めてこの中宮彰子に仕えていることが、喜ばしいことなのだと、感じた。
「紫式部。……おもうさまと会うのは、やめなさい」
彰子が、少し固い口調で、口火を切った。美しい顔にも、先程とは違った、固い表情が浮かんでいる。
「中宮さま……」
「おもうさまは、おたあさまを好いて、正室に迎えたの。側室も沢山いるわ」
困惑して、言葉を切った紫式部に対して、彰子は言葉を畳みかけた。
「聡明で、才能もある若いあなたが、おもうさまの妾になるなんて、もったいなくてよ。気持ちがあるのでなければ、おもうさまの訪いは、きっぱり断りなさい」
彰子は、忍び込んでくる、あの宮中で一番の権力者である道長を、追い返せと言う。道長に反抗する者が、どんな末路を辿るかくらいは、彰子も分かっているのであろうに。
「中宮さま……何故でございます」
思わず、問いかけてしまった紫式部に、彰子は少し悲しそうな顔をして、
「わたくしが嫌なの。わがままであることは、分かっているわ。でも、あなたが傷つくようなことは、嫌なのよ、紫式部」
と、視線を落とした。紫式部は、言葉を失った。
数多いる女房の中の一人である、紫式部に、まるで年の離れた姉妹のように懐いてくれている、彰子。昨夜、寝所に下がる前に見せた、いわば「可愛いわがまま」も、忍んで訪れる道長に、紫式部を盗られるのではと、不安をあらわしていたのではないか。紫式部は、心の底から、ほんのりと温かい心地がするのを、感じた。
「かしこまりました、中宮さま。もう、お父上と通じたりは、致しません。一夜の過ちでございました」
伏して、厳かに誓う旨を述べると、彰子はほっとしたのか、急に明るい笑顔になった。
「おもうさまには、わたくしから一言、釘を刺しておくわ。あなたは何も心配しないで」
うふふ、と、心のしこりが溶けて行ったかのように、うきうきとした気持ちを、表情に出した。無邪気さに、紫式部も、つい微笑んでしまう。この、年若い妹のような中宮を、不安にさせてはならなかったのだ。
「さあ、中宮さま。飛香舎へ戻りませんと。そろそろ女房たちも、心配している頃でしょう」
「そうね、そうするわ。あなたもいらっしゃい。私の怒りは、解かれたのだから。久しぶりに、絵合わせをしたいわ」
「仰せのままに」
彰子の言葉に、嬉しそうにそう言って微笑むと、紫式部は、自分の房の御簾を上げて、
「誰かある! 中宮さまがお戻りですよ!」
と、人を集めた。さわさわと、声を聞いた女房たちが集まってきて、彰子に笑顔で挨拶をした。そして彰子は、たくさんの女房を従えて、飛香舎へと戻っていく。紫式部は、周りの女房たちに微笑んで、一番後ろから、飛香舎に戻った。
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