聞こえる香

「昨夜は、誰か来ていたようね」

 明けて翌朝。開口一番、中宮彰子は剣呑な表情で、そう言った。朝の挨拶を、いつも通りにこやかにするつもりで表情を作っていた紫式部は、一瞬、動きを止めた。彰子はその一瞬を見逃さず、

「……おもてになりますこと」

と、殊更に扇をゆっくりと開いて顔を隠し、その上から見透かすように、ぎろりと紫式部を睨んだ。若く美しい彰子がそうすると、なかなかに迫力がある。

 何故、と、紫式部は思った。確かに昨夜、道長の訪いがあったが、夜半も過ぎた刻。仲間の女房たちも、それぞれ寝所に戻って、安らかな寝息を立てているような時間だ。何故、彰子に気付かれたのだろう。

「何故、と思っているわね、紫式部。答えてあげましょうか。昨日焚き染めていた香と、今聞こえる香が、違うからよ」

 固く、少々非難も混じったような声で、紫式部に答えを教える彰子は、何か、嫉妬でもしているかのようであった。

 責められた紫式部は、はっと、顔の筋肉を引きつらせた。そして、しまった、と思った。彼女が好んで焚き染めているのは伽羅。しかし、昨夜訪いのあった道長の香が移っているのであれば、伽羅にかすかに白檀が混じっていても、おかしくはない。香にも明るい彰子ならば、御簾を上げた時の空気の流れで、明らかになってしまうであろう。

「……白檀に、少し荷葉かしら。そう、そういうことなの……」

 彰子は独り言を言って、一人で納得した。

「おもうさまと、通じたのね」

 固い声に、怒りが混じっているのが、紫式部にはひしひしと感じられた。仕えはじめて数年。姉のように慕ってくれているからこその、「嫉妬」なのかもしれない。

周りに控えていた女房たちが、あまりのことに、ざわざわと声を立てる。

「お許しください。中宮さま」

 紫式部は、その場にひれ伏して、許しを乞うた。道長と通じたことは、彼女の本意ではなかったのだが、今はそれを説明したとしても、彰子は聞かないだろう。また、この宮中で栄華を極める道長本人の娘、中宮彰子には、説明しても理解出来ないかも知れない。

 ひれ伏しつつ紫式部は、そう考えていた。

「許すも何もないでしょう。しばらく、顔は見たくないわ。下がって」

「中宮さま!」

「下がりなさい」

 燃えるような怒りの目で、彰子は紫式部を睨みつけた。取り付く島もないとは、このことか。紫式部は、肩を落とし、

「……かしこまりました」

と、小さな声で言葉を返し、飛香舎を退出して行った。


 自分の房に戻った紫式部は、失意の底にいた。このまま、宮中から下がれという宣旨が下るかも知れず、胸が苦しくなった。

恐らく道長にとっては、一夜の気まぐれ。しかし、紫式部にとっては、一夜の過ちであった。

紫式部にとっても、彰子は歳の離れた妹のような存在であり、本来ならあの場で、言葉を尽くして説明することで、信頼を取り戻したかった。しかし彰子の、少々わがままで頑固な性格をかんがみるに、頭に血の上った状態で、説明したところで、受け入れてもらえはしないだろう。

唇を噛んでいた紫式部が、はっと後ろを振り返ると、彼女の房の御簾の向こうに、人影があった。

「どなたです」

 つとめて平静な声で、誰何する。影の主は、おずおずと御簾の隙間から顔を出した。

 中宮彰子、その人であった。

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