荷葉と白檀
約束通り一局を打ち終えて、中宮彰子がしぶしぶだが納得し、寝所に戻った。寝所番の女房たちと交代した紫式部は、自分の房に下がって、文机に向かう。宮中でも、市中でも話題の「源氏物語」を書くために、である。
墨をすり、筆を手に取ったその時、かすかな風が御簾を揺らして、ふくいくたる香と、人の気配がした。白檀の香りだ。
「どなた?」
文机に向かったまま、顔も上げずに誰何する紫式部に、侵入者は苦笑して、灯の中に進み出た。
「つれないな。折角、顔を見に来たというのに」
ほの暗い部屋の灯に映し出されたその顔は、今をときめく左大臣、藤原道長、その人であった。
齢四十を前にして、ますます艶然と微笑む道長は、この宮中に敵なしと、内に外に言われるほどの実力者であり、また野心家でもある。位を争っていた藤原伊周が失脚したのを機に、左大臣に上りつめたのだ。
その自信からか、はたまた生来の自尊心の高さなのか、
この世をば 我が世とぞ思う 望月の
欠けたることも なしと思へば
という歌を後に詠み、彼の権力を誇示している。
道長は、夜半にたびたび紫式部のもとを訪れては、「源氏物語」の続きを催促し、「もっと面白いものを」と注文を付けては、その日のうちに去って行った。しかし、この日は何かが違っていた。普段、道長は白檀など、焚き染めない。いつも、荷葉を焚き染めている。
「今日は、何がお望みですの?」
紫式部は、筆を硯に置いて、顔を上げた。道長が近寄ってきて、紫式部の頬にかかっている遅れ毛を、すっと長い指に巻き付ける。
「そなた、と言ったら、どうする」
道長は、艶然と微笑んだ。
紫式部は、ふふっと微笑み返し、
「どうもこうもありませんわ。お戯れではありませんか」
と、軽く道長をあしらった。道長は、ふん、と鼻を鳴らして、
「そなたはつまらぬ。未通娘なら、赤うなって恥じらうものを」
と、親ほどの年の差の夫を亡くす前に、既に一女をもうけていた紫式部に、無理難題を吹っ掛けた。
「ご無理をおっしゃいますな。私に、娘がおりますのは、ご存知ではございませんか」
「確かにな。ではこうしよう」
道長は跪いた。紫式部の顎に手を掛け、唇に触れるか触れないかの距離で、その目を覗き込んだ。
「今宵は帰るつもりはない」
甘く低く、少しかすれた声で囁く道長に反抗出来る者など、この宮中にいるだろうか。いや、市中にもいないであろう。
紫式部も、例外ではなかった。
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