迷宮を抜けて

 まさかあの女がいるなんて。最初は見間違いかと思ったが、やはりあの時橋の上にいたのはザクロだ。フードにサングラスの不審人物は、自転車を飛ばして河川敷から逃げ帰ろうとした。だがザクロの方も、同じく自転車で追いかけて来た。よりいっそう、ペダルを漕ぐ力を強める。


 ザクロの追跡を振り切るために、彼女は住宅街に続く路地に入った。住宅が密集し、複雑に入り組んでいるその場所は土地勘の無い者を撒くのにはちょうど良い場所だと考えた。うっかり一本分かれ道を間違えると袋小路に迷い込むようになっている。そして、大きな通りに出るための道は実は数えるほどしかない。彼女は友人の家に遊びに行くのにこの道路を何度も使い、何度も迷った。その苦い経験が今、自分を助けている。ここを初見で越えるのは難しいだろう、と彼女は思っていた。事実、途中で振り切ることに成功したように見えたが、油断した時に別の路地からザクロが飛び出してきたので慌ててまた駆け出した。その住宅街を抜ける頃には、むしろザクロとの距離は詰められているように思えた。


 大きな道路に出た。裏路地で迷い込ませる作戦は失敗したので、今度は別の方法で振り切らなければならない。直線道路でできるだけスピードを出して逃げることを試した。ある程度引き離すことには成功したが、大きな道路との交差点で行き詰まった。目の前は横断方向に行き交う車が流れていき、信号機もないので渡るのは大変そうだ。左折すればまた直線道路の追いかけっこに持ち込むことができるが、それだと問題を先送りにしているに過ぎない。しかし、ここで立ち止まるのが一番悪い。どうしようかと考えたが、彼女はその道路を渡るための歩道橋を見つけた。自転車が上るための長いスロープもあったが、階段で追いかけられることを危惧した彼女は自転車を降りて階段を上がるという選択をした。自転車を失うことは手痛いリスクだが、その分向こうで階段を使ったルートが取れると考えればまだ勝機はあると考えた。階段を上りきり、一瞬歩道橋の中頃で振り返ったがザクロが追いかけてきている様子はなかった。だが彼女はそこで油断せずにすぐに駆け出した。


 歩道橋を降りたとき、手すりの影から何かが飛び出してきた。死角からの体当たりをモロに食らった彼女は、かけていたサングラスを落としてしまった。振り返るとそこにはかつてのチームのリーダーが、鬼の形相でこちらを睨んでいた。


「やっぱり、あんただったのね……ナズナ。久しぶりね」

「……ザクロさん、お久しぶりっす。どうやって追いついたんすか」

「仕事柄ね、この街の裏路地は大体把握してるの。この道路も、一見すると信号もないし交通量も多いから渡るのは大変そうに見える。でも実は北側には周期の長い信号機があって、南側も同じタイミングで赤になるときがある。実はそれを待ってから下を無理矢理通った方が、歩道橋を渡るより速いのよ」

「……知らなかったっす。やられましたね」


 逃げることを諦めたのか、ナズナと呼ばれたその女は歩道の脇の石段に腰を下ろした。ナズナはコルヌコピア総務班に所属していた、環、つまりザクロの直属の部下だった。



「で、ザクロさん。なんでウチだって分かったんすか」

「……そうね。まずあの掲示板に書き込みができたことから、どこかの不良グループに所属していることがわかるわ。それでいてアヤメの情報を流せる人、つまりコルヌコピアの元メンバーってことになるわね」

「でも、そういう人って実は結構いるんすよ。知ってました?」

「詳しくは知らないけど、想像はできるわ。でも総務班の中でそういう人は私の知る限りあなただけだった」


 ミステリーものでよくあるやり取りだな、とナズナは自嘲気味に思った。確かにザクロの推理は筋が通っているように聞こえるが、まだナズナには納得できない点があった。


「……なんで総務班って断定できたんですか」

「あなた私の顔をじっくり見てから逃げ出したでしょ。アヤメの前では顔を隠してたとはいえあの距離まで近づいてたのに。だから、アヤメのことは一方的に知っている。でも私とは面識がある。そういう予想だったんだけど、当たりだったわね」

「……ザクロさんには敵わないっすね」


 ザクロは何か複雑な表情を浮かべていたが、そんなことにナズナは気がつかなかった。


「とにかく、あんたが能力者残党狩りの内通者で犯人なのね。もう二度とこんな真似はやめなさい」

「い、いや! それは違うっす! ウチが情報を流したのは今回のアヤメさんの件だけで、それ以外はウチ関係ないっす!」

「いやいやいや、“それ以外”のことを知ってるのが何よりの証拠じゃない! 見苦しいわよ!」

「……ザクロさん。恐らくその人は真実を言ってると思います」

「アーシェ!? あんたまで何を!?」


 左耳から垂らしたイヤホンに手を添えて、ザクロはアーシェの言い分に疑問をぶつけた。もちろん、その声はナズナの耳には届いていない。


「……ザクロさん、誰と喋ってるんすか?」

「うっ……」

「ザクロさん。イヤホン外して、スピーカー通話にしてください。私もその、ナズナさんとお話ししたいです」

「……わかったわ」


 ザクロはイヤホンを外し、ナズナに事情を説明した。御門アーシェと通話しながらナズナを追いかけていて、さっきの推理の9割方がアーシェのものだったということを。


「御門アーシェってあのハーフの子っすよね? なんでまた……」

「……色々あったのよ。とにかくアーシェ、説明しなさい」

「わかりました。ナズナさん、初めまして。御門アーシェといいます。ザクロさんのパートナーです」


 いきなりのCOにナズナは困惑したが、あまり深い詮索はしないことにした。


「は、はぁ……ナズナといいます。あっ、本名の方がいいっすか?」

「いや、いいですよ。元総務班で、ザクロさんの部下だったんですね」

「そっす。今はコルヌコピアの前に所属していた≪璃蓮座リレンザ≫ってチームに戻りました」

「……特攻というより特“効”って感じの名前ね」

「カッコいいっしょ? 今回の件は、そこに戻ってきた私のケジメなんっす。チーム内でもコルヌコピアに対しての反感は強くて、そこで能力もう無いからまた入れてくれーっつっても、無理があったんすよ」


 ナズナの告白を聞いてザクロはその時の状況をイメージした。確かにそんな状況でチームに戻るのは難しいだろう。かといって戻らなければ、今度は自分が残党狩りの被害者筆頭候補だ。なんせ、顔が割れているのだから。


「アヤメさんを選んだのは、一番強いからですね?」

「……全部お見通しなんっすね。戦闘班幹部なら最低限の自衛はしてもらえると思ったんっす。まさかあんなに人数が集まるとは思わなかったっすけど……大丈夫っすかねぇ……」

「星井灯も合流したから何とかなってると信じたいけど……何かあったらあんたに責任取らせるから、覚悟しなさい」

「……本当に申し訳ないことをしたっす。事前にアヤメさんに連絡取れたらよかったんすけど……」

「そうよ。何で連絡しなかったの?」

「ザクロさん、ちょっといいですか? 私、その理由は昨日、ハンバーガー屋さんでザクロさんに教えてもらいましたよ」


 ザクロの呈した疑問にナズナは答えようと口を開いたが、アーシェが先に話に割り込んできた。


「アーシェ、どういうこと?」

「ザクロさんのいた総務班のグループ、もうザクロさん以外全員退会しているんですよね? それなら全体グループからも退会しているはずです。そうなると、もう双方ともに連絡を取ることは不可能です」

「そういえば……」

「……ザクロさん、総務班のグループ全員退会ってマジっすか。ザクロさんだけまだ残ってるって……」

「……」


 アーシェのせいで恥ずかしいことを元部下にバラされてしまった。状況が状況なのでナズナも笑えないだろう。珍妙な空気がしばらく流れた。


「……つまり、ナズナさんはLINEグループを退会していました。そしてこれが、ナズナさんが他の事件と無関係であることの証拠です」

「確かに、アーシェさんの言うとおりっす。ケジメとしてコルヌコピアのLINEはチームの皆の前で退会したし、関係者は全員ブロックしたっす。けど、それが証拠ってどういうことっすか?」

「今回の残党狩りと他の残党狩りは、その手口が大きく違うんです。私も他の残党狩りについてはあまり詳しくないんですが、一番分かりやすいのが、そのターゲットですね」


 ザクロとナズナは二人でアーシェの推理に聞き入った。このかっこいい役回りは最初は自分のものだったはずなのに……とザクロは内心で自分を情けなく思った。


「ザクロさんが残党狩りについて知ったのは、昨日の夜ですよね?」

「ええ。アーシェが教えてくれるまで知らなかったわ」

「もしもの話ですけど、ザクロさんが残党狩りの被害にあったらどうしますか?」 

「え? そりゃ他のメンバーに気をつけろって注意喚起するんじゃ……あっ」

「そういうことです。他の被害者はそれができなかった。何故なら、もうそのグループを抜けているからです」

「待ってください! それはわかったっす! でもそれでどうやってうちが無関係って証明するんすか?」

「簡単な話です。グループを抜けたら、じゃないですか」

「あ……確かに……」


 ナズナとザクロは同時に納得の声を上げた。思えば単純な話だが、犯人が退会した人間を標的としているという仮定には確かに説得力があった。そして、その手口はナズナには不可能だ。


「そういうことです。つまりナズナさんは、というか元総務班のメンバーは犯人になり得ません」

「なるほどね……ということは、真犯人は……あ」

「……そうです。今の推理が正しければ、退ということになります」

「そんな……」



 ◇



 アーシェの衝撃的な推理を飲み込むのにしばらく時間がかかったが、ひとまずナズナが真の黒幕でないことはわかった。またLINEを消されるかもしれないということで、ザクロとナズナは電話番号とメールアドレスを交換した。そして、これから残党狩り事件について何かわかったら報告することを約束して二人は解散した。また家に帰ったら、アーシェと作戦会議をしないといけないだろう。河川敷に戻ろうとしている途中で、環はアヤメからの着信に気がついた。


「もしもし! アヤメさん、無事ですか!?」

「声がでかいぞザクロ。まぁ、なんとか無事だ。ザクロの連絡とこの自称ヒーローのおかげでだいぶ助かった。そっちはどうだ?」

「えーと、こっちは敵の一人を捕まえて尋問してました。灯も一緒にいるんですよね? 時間があれば一旦アーシェの家に集まりませんか?」

「……そうだな。こっちも聞きたいことが山ほどある。じゃあまた後でな」

「……とにかく、無事で良かったです。じゃあまた」


 電話を切って、自転車をUターンさせようとした。その時、視界の隅に黒い影が映った。ちょうど路地裏のほうからこちらを見ている。環はその異様な雰囲気に思わず立ち止まった。その影は身長は小柄に見えるが、全身を真っ黒なローブで覆い、さらにその顔の部分も深い闇に覆われていた。ローブも普通に考えれば布製のはずだが、環の目にはそれが出来の悪いCGのような、違和感の塊のように思えた。


「ザクロ……いや、森実環……やはりお前か……」

「誰……? 私のことを知ってるってことは、コルヌコピアの関係者ね?」

「私はお前に忠告しに来た……この件に深入りするのはおすすめしない」

「へぇ。私に仲間の仇も討たせず、残党狩りに怯えて日々を過ごせっていうの?」

「お前を中心に元能力者が集まっている……散らした水滴が再び一ヶ所に集まろうとしているのだ……そうして質量を大きくした雫は、歪みを生み、やがて滑り落ちる……」

「何を言ってるのか分からないわ。というかあんた、人と話すときには顔を見せなさい!」


 環はその異形を掴み取り、そのフードを剥ごうとした。しかし、その腕は空を切った。避けようとする素振りも見せなかったのに、その存在はまるで最初からそこにいなかったかのように消えてしまっていた。あまりにも現実離れしたその一幕を環は不気味に思いつつも、環は再び自転車を漕ぎ出し、皆の待っている家への帰路についた。

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