キッチンに立つ者、立たざる者
夏休みとはいえ、その日はピザの注文は少なかった。最後の配達が終わってもまだ日は完全に落ちてはいない。環の働いているピザ屋はシフトの概念が非常に緩く、「もう配達終わったので帰ります」と一声かければすぐにでも帰宅することができた。とはいえ、どうしたものかと環は考える。確かに星井灯は第一の不安要素だ。会った途端に殴りかかってくるということも考えられる。そして、御門アーシェは第二の不安要素だ。勝手に人のLINEを見てくるようなやつだし、もしかしたら今も私の荷物を弄くっているかもしれない。環の不安はヘルメットの中の熱気を巻き込んで肥大化していったが、それでもまだ帰りたくないという気持ちが勝った。君子危うきに近寄らず、と環は自分に言い聞かせた。現実では危うきの方から近寄ってくるのでどうしようもないのだが。
原付のガスメーターが三分の一を切っていたことに気づいていた環は、ちょうどいい言い訳を思いついた。ちょうど環の今いる場所は、周辺にガソリンスタンドが無いのだ。
「なので、ちょっと遠回りして帰ります。配達は無事終わりました」
店長に連絡をして、スマホと繋いだイヤホンマイクで通話を切る。配達中でも通話ができるイヤホンマイクは能力を失ってから手にした環の愛用の逸品だった。自主的に残業を申し出てガソリンスタンドへと向かう環の表情は、どことなく清々しいものだった。
帰宅する頃には日もすっかり落ちていた。御門家の前に戻ってきた環は、大きく深呼吸した。このドアの先では何が待っているか分からない。一切の希望を捨てて、環は足を踏み入れた。
「まだ足りない! もっと日頃の怒りを込めろ!」
「はい、えーっと、私に英語の授業のアドバイスを求めるな!」
台所の方から二人分の罵声が聞こえる。玄関には見知らぬ靴があるし、もうヤツは来ているようだ。きちんとドアの鍵を閉めて、声のする方へと環は足を進めた。エプロンをしたオレンジの髪の少女が環を出迎えてくれた。
「おっ、奥さんお帰り!」
「は? 奥さん?」
「あっ、そうだった。たとえ
「それはいいから。久しぶりね。星井灯さん」
いつぞやのポーズを取ろうとして止められたその少女こそ、コルヌコピアの因縁の相手、ヒーロー部部長星井灯その人だった。キッチンの方ではアーシェがハンバーグのタネを捏ねていた。私は純日本人だ!という悲痛な叫びが聞こえる。
「戦闘になるかも、ってちょっと身構えてたんだけど、その必要は無いのね」
「まーな。ヒーローの目的は悪の組織を潰すことだし、もう、えーと、コッコルピアは潰れたんだろ?」
「あんた
「そうそれ! だから次は残党狩りを潰すことにしたんだ。それならお前らも味方だろ?」
「……柔軟な考え方をしてくれるヒーローで助かるわ。あんたも残党狩りと戦うの?」
「そうだよ、うちの可愛いさわちゃん先輩を襲った奴らには痛い目見てもらわないとなぁ……?」
右手の握り拳を左手に叩きつけ、彼女は凄みの篭ったオーラを出していた。環の背筋に緊張が走る。さわちゃん先輩って誰だ。
「灯さーん、ちょっとこっち来てくれませんかー?」
「おーわかったー、じゃあ奥さんは座って待っててくれ」
「いや、あんたたちだけ働かせてってのも嫌だし、私も手伝うわ。何かすることある?」
「おっ、奥さん料理できんの? じゃあスープ任せる! 味見して適当に調味料足しといてくれ」
荷物を置いて環もキッチンに移動した。この家のキッチンは女三人いても窮屈さを感じさせない。このくらいの人口密度を予見して作られた家なのだろう。アーシェが混ぜ加減を灯に聞いて、次は成形だ、空気を抜くために叩け、もっと鬱憤を晴らせ、とアドバイスをもらっていた。
「最近あった嫌なことをここで叫べ!」
「えーっと、宿題しながら録画したドラマを見てて、台詞を聞き逃して巻き戻ししたけど、もう一回課題に集中したせいでまた聞き逃したのを1日に3回もやって、嫌でした!!」
「いやわかるけど長すぎでしょ!?」
アーシェの渾身の不満にツッコミをいれつつ、環は鍋の蓋を開ける。コンソメのいい匂いが広がる。だけどその光景に、環は少し違和感を覚えた。
「ねぇアーシェ、こんな鍋があったならお昼にラーメン2人分茹でれたんじゃない?」
「確かにそうなんですけど、えい、そのお鍋はさっきまで行方不明だったんです」
「何が行方不明だよ、そこの引き出しに鍋類いっぱい入ってたぞ?」
「……そこが引き出しだったことを知らなかったんです」
どうやらアーシェは今日キッチンに立たせた友人に自宅の台所事情を教わったようだ。情けない、とは思いつつも環もあまり人のことは言えないので口をつぐむことにした。コンソメスープは味を整える必要がないくらい十分に美味しかった。
「スープたぶんオッケーよ」
「了解。じゃあ盛り付けもよろしく」
「はいはい。……このお皿も見つけたの?」
「いえ、お皿はどうしても見つからなかったので、えい、食材のお買い物のついでに買ってきたんです」
「いやー、アタシも愕然としたよ。調味料が塩と醤油とマヨネーズしかなかったんだから。そのくせスライスチーズだけ何故か大量にあるし」
「…………えい」
アーシェが完全に塞ぎこんでタネと戯れる機械になってしまった。横から灯が覗きこんで、そろそろいいから焼いていくぞ、と促した。
「じゃああとは冷凍のご飯をチンしたら終わりだ。ハンバーグは蒸し焼きにするからまだちょっと時間かかるけどな」
「ちょっと時間あるなら、私、灯さんに聞きたいことがあるの」
「おっ、ちょうど良かった。アタシも今から教えようとしてたことなんだけどな。ハンバーグが焼けた後の肉汁を使って……」
「料理の話じゃないわよ!? 6月1日、能力が無くなった日のことよ」
「そっか……料理の話じゃないか……」
「えぇ……なに落ち込んでんのよ」
私は肉汁の話聞きたいです、とアーシェが振り返って報告してくる。そういえば、今のアーシェはエプロン姿にポニーテールという装いで、普段とは受ける印象が違う。だからどうした、と環は頭の中でツッコミをいれた。
「私のLINEを見せるわ。この6月1日、21時30分の投稿よ」
環は自分のスマホを操作して灯に見せた。画面に表示されたメッセージはこうだった。
“6月1日 21時30分 Unknown これから決着を着けに行く”
“6月1日 21時31分 Unknownが退出しました”
「……で、これがどうしたんだ?」
キョトンとした顔で灯は環に問いかける。しかし環は真剣な面持ちを崩さなかった。
「このUnknownってのはうちのリーダーのトウカさんのアカウントよ。なぜか削除されたみたいだけど……うちのチーム内ではあんたは指名手配犯みたいな扱い受けてたし、前日にもあんたについての話題が挙がってたわ。だからこの『決着』っていうのはトウカさんがあんたとの戦いに向かった……と思ってたんだけど……」
話しながら環はどんどん自分の発言への自信を失っていった。よく考えれば、これだけの発言からトウカと灯を結びつけるのは無理があるのではないだろうかと環は自分で不安に思った。だが、灯の口からは思いもよらない言葉が出てきた。
「トウカって
「えっ……?
ちょっと待って、桃花って?」
「あんたらの言う“トウカさん”の本名だよ。あいつとは古い仲だったからな」
「待って待って、私そんなの知らない……」
「灯さーん、焼き加減こんな感じですかー?」
「あー今行く、待ってろ」
残された環はもう一度彼女の言葉について考えていた。トウカさんの本名が桃花さん……? 2人は幼なじみ……? それなのに対立していた……? 能力が消えたことと彼女は関係がない……? やはり今の環には結論を出すことは不可能だった。
「よし、火もちゃんと通ってる。仕上げにお前の大好きなスライスチーズ乗せろ」
「むー。スライスチーズはみんな大好きですよ」
間の抜けた会話と共に、メインディッシュが準備される。さっきまでとても魅力的に感じていたそれも、今の環にとっては興味の外側の事象となっていた。
「ま、続きは食いながらでいいだろ。いただきまーす!」
「いただきます」
「……いただきます」
家でこんなにちゃんとした料理を食べるのは環にとってもアーシェにとっても久しぶりのことだった。アーシェはこの瞬間、料理を勉強してこれから環を支えていこうとこっそり決意したのだった。
「私たちは、何となくあなたがトウカさんの失踪や能力の消失にも関係してると思ってたんだけど……今となっては何でそう思ったのかもわかんないわ」
「確かになー。アタシも能力が消えた瞬間のことなんか全く覚えてないし。気がついたら消えてた、みたいな」
「私の場合は一人では使えない能力ですし、そもそも人に対してみだりに使うものじゃないので特に実感はなかったですね……あれ? ザクロさん、今のLINEもう一回見せてください」
「えっ、いいけど見るだけよ。画面には触らないでね」
「……あの時のことは謝りますから。……うん、おかしいとおもいます、これ。全然誰も能力が消えたことに対して言及してません」
アーシェの発言の意図を環はすぐには捉えられなかったが、思い返してみて違和感に気がついた。
「コルヌコピアには確か研究班もいましたよね? この時間ならちょうど喧嘩に能力を使っていた人もいたんじゃないでしょうか。それなのに誰も、能力について発言していません。次のメッセージはトウカさんが消えたことについてですし」
「確かに……トウカさんが消えて戻ってこないことと、能力が使えなくなったことは関係があるとばかり認識してたけど、普通ならそれは分けて考えられるべきなのか……?」
環は自分の認識について考えてみたが、やはり結論を出すには至らなかった。同じ境遇の元メンバーにまた相談しようか、と環は一旦それについては置いておくことにした。続いて、灯が口を挟んだ。
「そんなことよりさ! アタシは残党狩りの話が聞けると思って来たんだけど! そろそろ話してくれよ、さわちゃん先輩の仇取らないといけないんだよ」
「そういえば気になってたんだけど、さわちゃん先輩って?」
「
「あぁ、あの氷の眼鏡っ子。彼女も残党狩りの被害に遭ったんだ」
「まー軽傷で済んだんだけどな。先輩スタンガン持ってて反撃したから」
「えっ、怖……護身用ってこと?」
「さわちゃん先輩は自分の能力に自信がないからって、能力者時代から携帯してたよ。ぶっちゃけあの人かなり強かったから使ってるとこ見たことなかったけど」
「えぇ……じゃあ仇討ちって言うほどじゃないんじゃ」
「傷が浅かろうと深かろうと関係ないんだよ。ヒーロー部に歯向かった、その事実に対して責任を取らせるだけだ……」
「……あんた全然ヒーローっぽくないわよ」
また灯から悪人のオーラが漏れだした。まあまあ、とアーシェが
「私が残党狩りの情報を仕入れたのはこの匿名掲示板サイトです。このサイトは匿名とはいえ普通に検索しても発見できなくて、見るためにはURLの直接入力とパスワードが必要になります」
「いやいや、それなら何であんたがアクセスできてるのよ」
「私、ザクロさんに拐ってもらったあと、何とかしてまた会おうといっぱい努力したんですよ? その時の副産物がこれです」
「……つまり、ヤンキーの誰かを能力で脅して巻き上げたってことか。やるじゃねーか」
「えへへ、頑張りました」
アーシェはなんか可愛いリアクションをしているが、彼女の能力による脅迫は想像しただけで環を震撼させた。一対一の戦闘においてアーシェは無敵の能力を持っていたのだ。
「でも会えなかったんですよね、この掲示板結局あんまり使われてなくて……あれ」
「? どうしたの」
急にアーシェの様子がおかしくなった。スマホを見ながら固まっている。アーシェは一度大きく深呼吸をしてから、口を開いた。
「ザクロさん、今日、掲示板に投稿があったようです。コルヌコピアの残党狩り、時間は今夜21時、場所は月森西公園近くの河川敷、ターゲットは……木刀を持った長身の女性、とのことです」
賑やかだったディナータイムは、アーシェのその報告で終わりを告げた。
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