ふたり暮らしの始まり

 月森の街は平たく言うと周辺大都市のベッドタウンである。二人が話していたハンバーガー店も大きな国道沿いに位置しているが、夜は交通量も人通りも少なく、確かに女性が一人で歩くのは不安があるかもしれない。とはいえ、環はそれを頭では理解しても今の状況に納得がいってはいなかった。


「ほらっ、ザクロさん。あそこですよ! ザクロさんが私を拐ってくれた場所!」

「あー、その事はもう思い出したくもないから、止めてくれないかな……」

「まったく……本当にカッコよかったんですよ?」


 アーシェは元々は能力を持たない一般市民で、しかしながら能力者となるための条件はすべてクリアしていた。意図的に能力者を生み出すという実験をしていた当時のコルヌコピアは、その被験者としてアーシェをターゲットにした。

 二人は“御門”という表札のついた一軒の家の前に到着した。豪邸というほどではないが、それでも平均的な世帯と比べて立派な佇まいをしている。それゆえに、この時間に電気が点いておらず、人の気配が全くしないのが少し不気味でもあった。


「どうぞ、ザクロさん。ここが今日から私たちの家です」

「勘弁してよ……」


 押して歩いていた自転車をガレージに停めて環は中に入った。着替えとか生活用品が家にあるから、と環はアーシェに一時帰宅したいことを伝えたが、案の定切り捨てられてしまった。今日はこの格好のまま寝るのか、という不安が環にはあった。これからのことについて、日々の光熱費や家賃、食費といったこととこの厄介な女との生活とを天秤に掛けて、何を真剣に考えているんだと環は自分自身に恐怖した。


「家の中は初めてですよね。正面がリビングで、右の方の扉がトイレです。お風呂はもうちょっと向こうですね。案内します」


 アーシェに連れられて家の説明を受ける環は、リビングの小さな机に置かれている写真に気がついた。アーシェと同じ髪と瞳の色をした、綺麗な女性の写真だ。写真立ての近くにはガラス製の花瓶と小さな花も飾られている。


「アーシェ、これは……」

「あ、はい。おかあさんです」


 アーシェの母親が既に他界していることはコルヌコピアの事前調査で環も報告を受けていたが、改めてアーシェの過去について思いを馳せた。

 日本人の父親とイギリス人の母親を持つアーシェは、この月森の街で生まれ育った。しかしとある事故で母親は他界、父親はイギリスでの生活を余儀なくされた。初めは父方の親戚と共に生活をしていたらしいが、その親戚もこの家を出ていき、今は父親からの仕送りで一人暮らしをしている。それが環がコルヌコピアから受けた報告だった。

 そういった家庭環境から、何かしらの精神的な抑圧が彼女にはあるのではないか。そのような予想から環、いやザクロはアーシェを誘拐することとなった。ただし月森高校ヒーロー部を始めとした様々な妨害のせいで、アーシェの能力の覚醒こそ達成したがコルヌコピアへの引き抜きは失敗に終わった。結果だけ見ると誘拐が未遂に終わってよかった、と思われていたが、アーシェはずっとコルヌコピアからの、ザクロからの次の接触を待っていたのだった。私を退屈な世界から連れ出してくれる素敵な王子さまを。


「2階のここが私の部屋です。隣のこの部屋が空き部屋なので自由に使ってください。あ、一緒の部屋でもいいですよ?」

「冗談言わない。もう遅いし、今日はここに泊まるね。明日家に戻って色々持ってくるから」

「じゃあ私は明日は家で大人しくしておきますね。あ、合鍵を渡しておきます」

「準備いいな……っていうか、私は元々ただの小悪党だよ? 合鍵なんか渡していいの?」

「ふふっ、私を心配してくれてるんですか?」

「もういい。じゃあ晩御飯は食べたしあとはお風呂入って寝るだけかな」

「お風呂! 一緒に……冗談です。そんなに怖い顔しないでください」


 環は汚物を見るような目をアーシェに向けていた。それはこれ以上話の主導権を取られるのは嫌だという環の意思表示で、アーシェも彼女の考えを察して一旦引いた。アーシェにとっては、環が今日ここに泊まるというだけで大勝利なのだ。


「場所案内するので、先入っておいてください。着替えはおかあさんの服がたぶんまだありますから、今日はそれでお願いします」

「お母さんのって、大切なものなんじゃないの? 私なんかが着ちゃマズいよ」

「私がいいって言ってるんです。早く準備してください」



 その日、環は久しぶりに足の伸ばせる風呂でゆったり過ごした。今暮らしているアパートは小さなユニットバスしかなく、また水道代を節約するためにシャワーのみで済ませることも多かった。毎日この風呂に入れるだけでもアリかな、と環の天秤は再び揺らいでいた。

 風呂からあがると畳んだパジャマが目に入った。恐らくアーシェが用意してくれたのだろう。袖を通すと若干サイズが小さかったが、せっかくの心遣いを無下にはできないと思って環はそのままバスルームを後にした。


「アーシェ、あがったよ。パジャマありがと」

「ザクロさん。パジャマ……若干サイズが小さかったですね。すみません」


 アーシェは環のパジャマを──正確には彼女の胸元を──じっくりと見てそう告げた。それに気づいていない環は落ち込ませないように表情を崩した。


「いやいや、別に着れないほどじゃないし、助かったから。あんたも早く入っちゃいな」

「わかりました。じゃあ行ってきますね」


 風呂に向かうアーシェをしっかり見送ってから、環は自分のスマホを操作した。コルヌコピアのあるメンバーと連絡を取るためだ。久々の連絡にやや緊張しつつ、通話ボタンを押した。2コールほどで応答があった。


「……もしもし」

「もしもし。私、ザクロです。アヤメさん、今大丈夫でしたか?」

「……今イベントの周回中だから手短に頼む」


 電話の相手は元コルヌコピアでザクロを力業で勧誘したメンバー、アヤメだった。彼女ともトウカと灯の最終決戦以来──つまり、能力を失って以来──連絡を取っていなかったが、元気そうで何よりだと環は思った。イベントや周回といった言葉は環は理解していなかったのだが。


「……とまぁ、そういうことで残党狩りというのがいるそうです。アヤメさんも気を付けてください」

「わかった。つまり普段携帯してる木刀を真剣に持ち換えればいいんだな?」

「まだ木刀持ってるんですか!! あと真剣はダメですよ!!」


 アヤメの能力は木刀を使って斬撃を繰り出すというものだったので、環の知るアヤメは常に木刀を携帯していた。しかし、まさか能力の消えた今でも木刀を持っているとは思わなかった。軽犯罪法に抵触しないのだろうか。いやでも、前から持ってたし……? そんな疑問を環は頭に浮かべていたが、アヤメの方から次の言葉が来たので一旦忘れることにした。


「……それで、そっちは元気か? 私はあの日以来コヌなんとかのメンバーと連絡を取っていなくてな」

「コルヌコピアです。アヤメさんの方がメンバー歴長いのにもう忘れちゃったんですか。まぁ、私もメンバーと連絡を取っていないのは同じです」

「残党狩りの件は今できる範囲だけでも周知して対策を取った方がいいだろう。そっちは対策は?」

「えーと、その情報を今日、さっき御門アーシェから教えられて……今色々あって彼女の家に転がり込んでいます。御門アーシェ、覚えてますか?」

「ああ、覚えてるよ。あの時はチーム内でもすごく話題になっていたからね。どうだったんだ? 彼女の唇は」

「~~っ!! 馬鹿言わないでください、本気で怒りますよ!! あれは不可抗力だったんです!!!」

「はっはっは、まぁよろしくやってくれ。……そういえば、まだトウカさんは見つかってないんだよな?」


 急に真面目なトーンでアヤメは問いかけた。環も真剣な語調に切り替える。


「はい、私は何も。……詳しい話は恐らく星井灯に聞くのが一番かと思いますが……アーシェにも聞いてみるように伝えてみます。確か同じ学校だったはずなので」

「了解した。それじゃ、また何かあったら連絡してくれ」

「わかりました。お元気で」


 律儀な性格の環はきちんとアヤメが電話を切ることを確認してから、通話を終了した。ちょうどそのタイミングでアーシェも風呂からあがってきた。


「アヤメさん。待っててくれたんですか」

「そんなんじゃないわ。元メンバーと連絡取ってたの。あっ、ほらちょうどLINEが来た」


 環のスマホが久しぶりにコルヌコピア全体LINEの新規投稿を知らせた。内容はこうだった。


 “夜遅くにすまない。ザクロからの連絡で、コヌヌコピアの残党狩りがいることが発覚した。

 皆も夜道を一人で歩くとき等は武器になるものを携帯するなどして各自自衛をするようにしてほしい。

 また、このグループを去った人で連絡がつく人がいたら彼女たちにもその事を教えてあげてほしい。

 何かあれば私かザクロに連絡をすること。 以上”


 ……これは。環の中で嫌な想像が浮かぶ。最後の一文に「私かザクロまで」とあるが、多くのメンバーはアヤメのことを怖そうな人、と認識しているのだ。環もはじめの頃はアヤメのことを警戒していた。つまり、何か問題が起こったときに、アヤメではなく環のほうに連絡が来ることが予測される。私はこんなに大問題を抱えているのに。あとおまけにチーム名を微妙に間違えてる。トウカさん泣くぞ。


「どうしたんですか?」

「なんでもないわ。早く寝ましょう」

「私はもうちょっとザクロさんとおしゃべりしたいですー」

「もう何時だと思ってるの。おしゃべりは明日でもできるでしょう」

「確かに……明日もいてくれるんですよね? 約束破ったら掲示板にあることないこと書きまくっちゃいますからね」

「何書かれるか一周回って気になるわね……まぁ、同居については最低限のプライバシーを守ってくれるならいいわ。おやすみなさい」

「おやすみなさい!」


 床についた環は、先ほどあまりアーシェを拒絶しなかったことを自分で不思議に思った。アーシェに対して責任を感じているのだろうか、それとも同情しているのか。はたまた久しぶりの同居人の存在に喜んでいるのか。いや、単にお風呂が立派で嬉しかっただけだ。環はそう自分に言い聞かせた。

 その後、アーシェが夜這いしてこないか確認するために環はこっそりアーシェの部屋に侵入した。スヤスヤと心地良さそうに眠るアーシェの姿を見て、環は安心した。そして少女の唇に目が行き、あの時のことを思い出して赤面するのだった。

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