記憶と消しゴム

DDT

記憶と消しゴム

港町には風俗宿がつきものだ。

遠洋漁業の男たちは、みな競って陸に上がる。

ここでは国籍も年齢も性格や性癖もすべてが平等だ。

日が暮れると、ただ白塗の顔に黄色い歯が浮き立つ、薄ら笑いの女の布団に入り込むのだ。


マツダは布団の中に寝そべったまま、女を呼んだ。

「これをあげるよ」

ゴツゴツした石のような手をぱっと開くと、小さな四角い消しゴムがひとつ。

「なあに」

女は鼻で笑った。

「読み書きをやりなさいって? あたしを子どもだと思っているのね」

芝居がかった顔で意味ありげに、マツダは言った。

「これはインドの貧民窟で手に入れた貴重な消しゴムなんだよ。ほら、見ていてごらん」


紙と鉛筆を持ってこさせたマツダは、女の顔をじいっと見た。

「あんたの名前は?」

ふくみ笑いをしながら女が答える。

「リサ」

紙にその名を書き記した後、端から端まで丁寧に消していった。

それからふうっと息を吐いて、幻のカスを払った。

「こうすると俺の中から、消された人の記憶が失われる」

「そう。さびしいわね」

「ここをでたらもう覚えていない」

「そう……。なんだかずるいわね」


女は横を向いて、少し考えこんでいるようだった。

そして細い指を一本、顎にのせてみせた。

「だったら、あんたの名前も教えなさいよ」

マツダは新しい紙に、ゆっくり大きく自分の名前を書いた。

「ふーん」

腕を伸ばして紙を取り上げ、陽に透かして、口の中で繰り返し読み上げる。

女の唇から喉元までが、なまめかしく動いた。

「さア、消して」

マツダが促すと、振り返って女は微笑んだ。

「どうしようかな」

目の前でしばらくひらひらと振った後、眉を上げてマツダの反応を盗み見る。


その紙を名刺大になるまで折りたたみ、女は自分の胸元にしまった。

「あたしは覚えていてあげる。だからまた来年、港に寄ったら訪ねてきてね」

マツダは己自身が女の柔い懐に閉じ込められたような、人肌のぬるま湯につかったような気分になった。

突然喉が締め上げられ、自嘲するようにくっと笑いが漏れた。


ふと思いついたように問う。

「君、消しゴムは使ってくれないの?」

「そうね」

女の薄い手のひらの上に、今は角の取れた白い消しゴムがひとつ。

「自分の記憶も消せるかしら」

「たぶんね」

「じゃあつらくなった時に。あたしの名前を書いて、あたしが消すわ」

マツダはリサを抱きよせた。

「それまでには来るよ」

「ありがとう」

「必ず来るよ」

「そうなるといいわね」

身支度を終えたマツダはドアを開き、港町のきつい朝陽を浴びながら雑踏の中に紛れて消えた。


次の年、マツダは姿を現さなかった。

消しゴムの力で本当に、部屋を出たとたん忘れてしまったのかもしれない。


あれから二人は再会したのか、それは誰にもわからない。

年老いたリサが待ちくたびれて病んで、自分の名前を書いて自分で消したからだ。すべての記憶は失われた。

マツダという一人の男と、リサという一人の女が存在したのかさえ、もうわからない。

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