(10)嘔吐

 七月最初の水曜日。


 放課後、私は教室にひとり残って修学旅行のしおりを製本していた。

 A4のプリントを半分に折って重ねてゆく。簡単なわりに量は多いから、とっくに飽きていた。


 ――殺してしまいたい。


 淡々と作業を続けていると、ばけものが胃の内壁に爪を立てた。

 今、目の前に怒りの対象はない。でも、鬱憤がたまっていた。私に仕事を押しつける担任やクラスメイトに。仕事を断れないいい子の私に。

 学校に爆弾を投げこんで、銃を乱射できたらさぞかし楽しいだろう。弾が最後の一発になったら、自分のこめかみをぶち抜いて、すべて終わりにするのだ。そうしたら、いい子の私はありとあらゆる意味で死ぬ。


 そんな益体のないことを考えているうちに、紙を折る作業が終わった。

 今度は紙の束を綴じて、冊子にする。ホチキスで留める位置を慎重に見極めて、針を打ちこんだ。それをひたすら繰り返す。

 作業にのめり込むうちに、感覚が研ぎ澄まされてゆくのがわかった。


 ホチキスを打つ音。

 吹奏楽部の演奏。

 校舎内で基礎練習をする運動部のかけ声。

 そして、雨樋あまどいを伝う水音。


 雑音に身を委ねながら、再び考えごとの海へと潜ってゆく。

 明日はお母さんの手術だった。

 しおりの製本作業が終わったら、私はまっすぐに病室へと向かい、お母さんと最後の会話を交わす。それがたまらなくいやだった。死にゆくひとに、いったいなにを話せばいいのか。いつも通りいい子の顔をして、手向けの言葉でもかければいいのだろうか。想像しただけで虫唾が走った。


 手元から紙の束がこぼれ落ちてゆく。なにかが落ちる音がして、意識が現実に引き戻された。

 足もとを見ると、まだ綴じていない紙が散乱していた。


「なにやってるんだろ……」


 ため息がこぼれた。

 私は椅子から降りて、紙を拾い集める。

 湿度が高いからか、ワックスがけされた床がやけにぬめっていた。紙をうまくつまめず端が折れてしまって、むしゃくしゃする。いっそのこと、床に落ちている紙すべてをぐしゃぐしゃに丸めて捨ててやりたいくらいだった。


 行き場のない怒りを噛み殺していると、ふと、視線を感じた。

 顔を上げて、周囲を見渡した。

 閉ざされた薄暗い教室には私しかいない。でも、確実になにかが息づいている。


 私は直感的に真正面にある黒板に目を向けた。

 きれいに掃除された黒板は、いつもに増して深みのある暗緑色をしている。まるで、水草が繁茂した沼のよう。

 非常ベルのような耳鳴りがした。

 気圧が下がりはじめたのか、頭が重たくなってゆく。


 なにも書かれていない黒板を、墨色の影が横切った。無数の腐乱死体が寄り集まった、今にも溶け崩れそうな幻影。


 影がばけものだと認識した瞬間、腹に痛みが走った。内臓で火薬が爆ぜたかのような激痛。

 とっさに眼鏡をはずし、その場にうずくまった。

 まなうらで白い光が明滅する。胃袋がめりめりと音を立てながらひっくり返った。胃からこぼれた熱い酸が、筋肉を、脂肪を、骨を灼きつくす。

 引きつけを起こしたように身を反らしてから、床に額をすりつけた。頭の位置が低くなった途端、嘔吐感がせり上がってきた。


 私は床をのたうち回る。

 ばけものが私という殻を破って、外界へとけ出そうとしているのだ。未分化のどろどろした身体のままで。

 片腕で胃を押さえながら、もう片方の手を伸ばした。椅子でも、机でも、なんでもいい。なにかにつかまりたかった。このままだと、汚泥のような吐き気に飲みこまれ、なにもかも見失ってしまう。

 指先が椅子か机の脚をかすめた。探るように片腕を動かしたけれど、なにもつ

かめなかった。

 私はひたすら溺れゆくばかり。このままだと、意識すべてが昏い淵へと沈んでしまう――。


 突然、伸ばした手をつかまれた。

 やわらかなてのひらの感触。

 肌にしみる体温。


「波多野さん」


 そして、聞き慣れた声。


 吐き気をこらえながら面を上げると、ぼやけた視界に女子生徒が映りこんだ。

 白いブラウス、黒い髪、紅いくちびる。

 こんなに鮮やかなコントラストの持ち主は、月瀬さんしかいない。


 私は月瀬さんの膝にしがみついた。少しでも頭を高い位置で固定しようと、相手の腿に額を押し当てる。


「具合、悪いの?」


 しっとりとした手つきで背中をさすられた。

 羽毛の束でなでられているような感触に、気がゆるむ。こぽ、と食道の奥で音がした。胃の中身が猛烈な勢いで逆流してくる。

 両手で口を押さえた。吐いたらだめだ、と気を張れば張るほど、胃が締めつけられる。


「気持ち悪いなら、吐いたほうがいいよ」


 月瀬さんがそっと耳打ちした。


「わたしが受け止めてあげるから」


 口を覆っていた手が、強引に引き剥がされる。

 目の前にあったのは、グレーのチェックの布地。月瀬さんのスカートだ。

 把握した瞬間、私は吐いた。苦くて、すっぱくて、えぐい液体を。

 一回では吐き出しきれなくて、何度も何度もえずいた。胃酸が気道に入りかけて、激しく咳きこむ。喉がずたずたに切り裂かれたかのようにうずいた。


 泡立った吐瀉物は黒くて、わずかに赤みがかっていた。よく見るとお昼に食べた肉が溶け残って浮かんでいた。

 ――これは腐汁だ。私が殺して、遺棄してきたものの成れの果て。蝶になれずに死んでいったさなぎの体液。

 私は自分の内側からほとばしったものを、見据えるしかできなかった。


 いったん吐き出してしまえば、回復は早かった。


「……ごめんなさい」


 私は持っていたハンカチとティッシュをすべて使って、床に座った月瀬さんのスカートを拭いた。脂が繊維の奥まで染み込んでしまったのか、なかなか汚れが落ちてくれない。

 やっきになってしみを抜こうとしていると、月瀬さんにハンカチを取りあげられてしまう。


「気にしないで、クリーニングに出せばきれいになるから。……普段の波多野さんならそう言うでしょ? たとえはらわたが煮えくり返っていたとしても」


 心臓が軋んだ音を立てた。


「さすがにそれくらいじゃかっとしないよ……」


 否定したものの、最近の私は他人に服を汚されただけで腹を立てかねない。ばけものが勢いづいているらしく、怒りの沸点は日に日に低くなっていた。今だって、月瀬さんにいい子の真似をされただけで心がささくれだった。


「それよりも、波多野さん大丈夫?」

「うん、吐いたら楽になった」

「本当に?」


 月瀬さんは間髪入れずに訊いてきた。くちびるはなだらかな弧を描いているけれど、目つきは真剣だ。

 私は月瀬さんがなにを言いたいのかわからず、まばたきを繰り返す。


 月瀬さんはしばらく私の顔を見澄ましてから、「吐いただけで、楽になれるわけがないでしょ」と静かに首を横に降った。


「だって、波多野さんはずっと我慢してたんだから」

「なにを?」

「痛みを」


 鋭く問い返した私に、月瀬さんは間髪入れずに答えた。


「……ううん、それだけじゃない。怒ったり、拒んだり、ほしがったりすることも、波多野さんは我慢し続けてきた」

「それが普通でしょ?」

「違う」


 月瀬さんは珍しく語調を強めた。


「みんな怒るべきところで怒って、いやだったら断るの。毎回それができるとはかぎらないけど。でも、ぜんぶ飲みこんじゃうひとはあんまりいないよ」


 私が眉間にしわを寄せると、月瀬さんの声が切実な色を帯びる。


「怒りも拒絶も欲求も、人間らしい熱い感情なの。なのに、波多野さんはそれをないものとしてきた。だから、血を吐くほど苦しいの」


 あばらの隙間に、氷でできたナイフを差しこまれたかのような感覚に襲われた。

 苦しい、苦しいと、胃のなかでばけものがざわめいている。


 ――私は苦しいのだろうか?


 自分の胸に手を当て、心の声に耳をかたむけてみた。おそらく、生まれて初めての行為。

 目をつむって自分の心音を聞いていると、どろり、と胸に刺さったナイフから熱い液体がこぼれ落ちてゆくのがわかった。


「……あ」


 なにかがすとんと腹の底に落ちていった。そして理解する。

 ばけものの正体は、私が殺してきた感情の成れの果てだ、と。

 呼応するように、ばけものがほのかな熱を帯びた。

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