(11)生死
「ねえ、月瀬さん」
私は月瀬さんを見た。
「私のなかにはばけものがいるんだ」
思い浮かんだ言葉を、そのまま口にしてみる。
「月瀬さんが言ったとおり、私はいい子にふさわしくない感情を、ずっと押し殺してきた。そして何年も放置したら、腐ってばけものになっていた」
居住まいを正した月瀬さんは、神妙な面持ちで私の話を聞いていた。まるで、神の声を聞く巫女のように。
「初めてばけものが目覚めたのは、ウサギを殺したとき。殺さないと壊れてしまうって、ばけものが私にささやいたんだ」
私はウサギを殺すことに疑問を抱かなかった。生きるために必要な暴力なのだと、最初から知っていた。それは、仲原を殺したときも同じだった。
「ウサギを殺したその日から、ばけものが私のなかで暴れはじめた。ちょっとしたことで怒ったり、嫌悪感を抱いたり。そしてたまに殺したくなった。ぐちゃぐちゃにしたくなることもあった。とにかく、私には縁がないと思っていた感情が、次から次に浮かび上がってきたんだ。すごくショックだった。でもちょっとだけ安心もした」
淡々と話しているつもりなのに、ときどき胸が詰まった。けれど、別に泣きたいわけではない。ただ、息が苦しいだけだった。
「どんどん私が私じゃなくなって、いい子でいるのがつらくなって……。それでも私、いい子をやめられなかった」
だんだんうまくしゃべれなくなってきて、いったん言葉を切った。月瀬さんに見守られながら、呼吸を整える。胸に手を置いて、今もっとも語りたいことはなんなのか自分自身に問いかけた。
「――ばけものは殺したがってる。いい子の私を」
飛び出してきたのは、やはり殺意だった。どんな感情も、最終的には暴力に収斂してしまう。いや、もう一種類、自分のなかにある強烈な衝動を知ってはいるけれど。
いずれにしても、激しい情動を持て余したまま暮らしていくことに限界を感じていた。
月瀬さんは、私を手に入れるためならなんでもすると言った。
私もいい子を消すために、ありとあらゆる手を使うべきなのかもしれない。
ならば、私が利用できるものはただひとつ。
「月瀬さん」
私は床に両手両膝をついて、月瀬さんににじり寄った。
「お母さんが死んだら、仲原を殺したこと、警察に言っていい? そうすれば、私はいい子の顔をしていられなくなるから」
試すように小声で問うと、月瀬さんは「いいよ」とうなずいた。私に向かって腕を伸ばし、産毛に触れるように指先で私の両頬をなぞる。
「あなたが望むなら、なにをしてもいいよ」
月瀬さんは笑わない。表情という装飾の一切ない顔は、今までに見たどんな彼女よりも美しくて、それゆえにぞっとした。
果たして月瀬さんは私と同じ人間なのか。ガラス細工のように透明なのに、胸のうちに宿っているはずの感情が見えてこない。
肉体という容器を壊せば、真意がわかったりするのだろうか。香水瓶を割ると、なかの透明な水のかおりをかげるように。
「……冗談だよ」
私は首を大きく横に振ってから、肩をすくめた。
「自白なんておそろしいこと、私にはできない」
だから、私は月瀬さんを利用する。
◇◇◇
翌日はお母さんの手術に付き添った。
おばあちゃんだけではなくて、単身赴任中のお父さんも会社を休んで病院に来たから、私がいる意味なんてまったくない。でも、「薄情な娘」と思われるのがいやで、学校をさぼってしまった。
この調子だと、お母さんが死んだところで、そう簡単にいい子はやめられそうにない。もちろん、そんなことはとっくにわかりきっていたけれど。
私はまっとうな方法でいい子を消そうとは考えていない。ばけものの衝動に身を委ねることで、いい子を殺そうとしているのだ。
問題はどうやってばけものを私の望む方向へ焚きつけるか、だ。
考えあぐねていると、お父さんが看護師さんに呼ばれて席を立った。それを見たおばあちゃんも、お父さんに続けて廊下へと飛び出してゆく。
待合室が慌ただしくなったのは一瞬で、すぐに静けさが戻ってきた。
私はひとり、病院の真っ白な壁を眺めた。
◇◇◇
お母さんの手術は奇跡的に成功した。
◇◇◇
日付が変わる直前の、夜の病室。
私は学校をお昼で早退し、それからずっと病院にいる。朝からお母さんに付き添っていたお父さんは、今は車で仮眠を取っていた。面会時間はとっくにすぎているけれど、病院側から「手術直後だし、個室だから気にしなくてもいい」と言われている。
ひとり残った私は、死んだように眠るお母さんを見下ろしていた。
手術から丸一日経った。お母さんは一度だけ目を覚まし、私の顔を見て薄く笑った。まるで、勝ちほこるかのように。
そう、お母さんは勝ったのだ。私に秘密を打ち明けて、強引に結んだ絆にしがみついて、死に向かう流れにさからった。
お母さんはしたたかだ。意地悪な母親を殺して、のうのうと生き続ける程度には。だからこそ、私は簡単にはいい子の呪縛から逃げられないのだろう。
私はベッドのフレームにかけた手に力をこめる。金属の軋む音がした。
だったら、力ずくで呪いを解くだけだ。私は非力な子どもではないし、今までのように従順でもないのだ。
私は腰を折って、お母さんに顔を近づける。死臭はすっかり消え失せていた。
病衣の襟元をなおすと酸化した皮脂のにおいが立ちのぼってきて、なまなましい生を感じた。
慣れた手つきでお母さんの喉に両手をかける。
お母さんは目を覚まさない。深く深く眠っている。
にわかに濃度を増した暴力の気配に、ばけものが胃のなかでぐるぐると
「お母さん」
指に少しだけ力を入れてみる。しなびた花の茎のような感触だった。
「私、いい子をやめるね」
一息置いてから、両手に体重を乗せ――。
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