あとは汚れるだけ
(9)深爪
斉木さんに詰め寄られてから一ヶ月近く経った。
月瀬さんが裏でなにをしたのかはわからないけれど、あの日以来、斉木さんからの接触はなかった。仲原の死体は相変わらず見つかっていないようだし、月瀬さんと口をきく機会もなかった。
「波多野、ちょっといいか」
私が帰ろうとしていると、教壇に残っていた担任に手招きされた。
両脇には同じクラスの男子と女子がひとりずつ。ふたりとも、後ろめたそうな目で私を見てくる。
たったそれだけで、用件がだいたい読めてしまった。
私は苛立ちを表に出さないようにしながら、担任に駆け寄る。
「旅行係の仕事を手伝ってくれないか?」
担任は反感を買わない程度に気さくな調子で、私に訊いてきた。
思ったとおりの展開に、ため息が漏れそうになる。それでも笑顔を崩さずに「私にできることだったら」と担任を見上げた。
「修学旅行のしおりを綴じてほしいんだ。っていうか波多野にできないことってあるのか?」
「いくらでもありますよ」
私を持ち上げる担任の調子のよさが神経にさわったけれど、私も負けないくらい外面がいい。考える前に、相手の意に沿った返事をしてしまう。
私が密やかに自己嫌悪を押し殺していると、担任は「なーに謙遜してるんだよ」と笑い声を上げた。縮こまっている男子の背中を軽く叩いてから、「波多野には信じられない話かもしれないけど」と切り出す。
「こいつら、このあいだの試験でまさかの全科目赤点だったんだよ。だから、来
週から補講に出なきゃならないんだ。夏休みまでみっちりな」
旅行委員のふたりはばつの悪そうな顔をしている。
「でも、七月の一週目にはしおりを仕上げておきたいんだよ。夏休みの宿題に修
学旅行の下調べが入ってるから、早めに配りたい」
そこまで一息に説明して、担任は笑みを引っこめた。真面目くさった顔で「波
多野、頼んでもいいか?」と尋ねてきた。
――断りたい。
ばけものがさざめく。
「大丈夫ですよ。私、帰宅部ですし」
それでも私は本音を無視して、二つ返事で引き受けた。
担任も旅行係の男女も、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「よかったー」
「追試は全科目満点取れよ」
「それはさすがに無理っす」
わいわいとしゃべりはじめた担任たちを眺めながら、私は体側で拳を握りしめた。今、担任に殴りかかったら、いったいどうなるのだろう?
「いつも悪いな」
「いえ、気にしないでください」
頭を下げてくる担任に、私は心のなかで舌打ちをした。本当は悪いなんて、少しも思っていないくせに。
文句を飲みこむと、胃がきりきりとした。最近、胃痛の頻度が増している。そろそろ一度病院に行ったほうがいいのかもしれない。
痛みが顔に出てしまったのか、担任は「いくら波多野とはいえ、ひとりでやるのはたいへんだよな」とあわてて付け足した。あたりをきょろきょろと見渡し、だれかを探すそぶりを見せる。私の不満を削ぐために、生贄でも差し出そうとしているようだ。
「あ、月瀬!」
だからといって、月瀬さんに声をかけるのはどうかと思う。
「月瀬、たしか部活はやってなかったよな。修学旅行のしおり作りを手伝ってほしいんだけど」
「いやです」
月瀬さんはにべもなく拒絶した。担任に視線さえ向けずに、私たちの前を横切ってゆく。足取りには迷いもおびえもない。
「まあ、細々とした作業が嫌いなやつもいるよな……」
担任のぼやきに、「私も嫌いですけど」と言いそうになる。言えなかった。
私は自分の不甲斐なさにうなだれる。
月瀬さんのように恐れず意思表示できたら、どんなに気持ちいいだろうか。
◇◇◇
放課後。
私はお母さんのベッド脇の椅子に腰かけて、スマホをいじっていた。インターネットで「淫行」という単語を検索しようとしたところで、お母さんに呼ばれる。
「どうしたの?」
努めてやさしい声を出し、いつものようにお母さんの口もとに耳を寄せた。
頭を動かす力さえなくなったお母さんは、目だけを私に向ける。落ちくぼんだ眼窩に黄ばんだ白目。ここ一ヶ月で、お母さんは急激に衰えた。
「お母さんね、たぶんもうすぐ死ぬわ」
空調の音にさえかき消されてしまいそうな声で、お母さんは告げた。
「……そう」
衝撃。不安。そして安堵。いくつもの感情が同時にひらめいて、またたく間に霧散していった。
驚きはしなかった。四人部屋から個室に移された時点で、お母さんの死が近いことはうすうすと察していた。
「七月の頭に手術を受けることになったの。高校生の娘がいるなら、たとえ数パーセントでも延命できる可能性に賭けようって」
お母さんの声はか細い上にときどき濁る。喉に痰が絡んでいるのだ。
「体力が残ってないから、手術が原因ですぐに死んでしまう可能性のほうが高いんですって。でも、手術をしなかったら確実に死んでしまうから、やるしかないそうよ」
どこか他人事のような投げやりな口ぶり。生きる気力が感じられなかった。
私はベッドのフレームに手をかけて、お母さんを見下ろす。弱った身体で生きるのはつらいのか、疲れ果てた顔をしていた。
「手術を受けるって決めたのはお母さん?」
「みんなで決めたの。先生と、お父さんと、おじいちゃんおばあちゃんと」
「みんなって、私は」
「あなたはいいのよ。だれかの生死を背負わなくても」
私の発言をさえぎるように。お母さんは早口で言い切った。
「そう」
私はみぞおちのあたりをなでた。胃のなかでばけものがうごめいている。
お母さんは私を思いやっているのか侮っているのかわからない。おそらく両方なのだろう。子どもである私は、お母さんがどんな病気で、どんな状態なのか、詳しくは教えてもらえなかった。
もやついた感情を持て余しながら、自分の手をしげしげと見つめる。右手の親指の爪先が割れていることに気づいた。
私が割れた爪を引きちぎろうとしていると、お母さんが「ねえ、なにか隠しごとしてない?」と訊いてきた。
指先に痛みが走る。爪が変な方向に裂けてしまった。
「なにも隠してないよ」
私は右手を背中に回して、深爪を隠した。
「なんでそんなこと訊くの?」
「私はしてるから。隠しごと」
お母さんが咳きこんだ。喉から粘ついた水音がしたけれど、結局、痰は取れなかったらしい。喘音混じりの呼吸を繰り返していた。
「私はひとを殺したの」
お母さんの抑揚のない一言は、予想以上にろくでもなかった。
「どういう意味?」
「そのまんまの意味よ。私はお母さん、つまりあなたのおばあちゃんを殺した。あなたくらいの歳のときにね」
枯れた声ともに吐き出される腐臭。死にゆく細胞たちのにおい。
「お母さんは意地悪だったわ。このひとと暮らしてたら、大人になる前に殺されてしまうと思った。それで、真っ暗な階段でお母さんの背中を押したら、転がり落ちて死んだの」
お母さんの声音はどこか誇らしげでさえあった。
「……そう、なんだ」
だからどうした、なんて言えなかった。お母さんの発言に水を差せるはずがなかった。
「だから、意地悪なひとは嫌い。私は親切なひとになりたかった」
お母さんは私を見ていなかった。遠い過去を望むような、茫洋とした目をしている。
「……自分の娘を親切な子に育てようとしたのは、罪滅ぼしだったのかもしれないわ」
ひとりごとだったのだろう。そのささめきは一段と低かった。
私は「はあ?」と不機嫌な声を漏らしそうになった。
――エゴを
ふつふつと怒りがわき上がってくる。
お母さんの前で感情をあらわにするのはまずいと、生まれたての情火を握りつぶそうとしたときだった。
視界がぐんにゃりと歪んだ。またたく間に、感情の揺れは殺意へと変わる。
――いい子なんて殺してやる。
お母さんの望む私なんて、この世界から永遠に消し去ってやる。
悪辣な悲鳴。猛り狂うばけもの。血液が熔岩になったかのように身体中が熱い。
「あなたはいい子だわ。だから、この話をお墓まで持っていくんでしょうね」
ぎりぎりのところで衝動を抑えこんでいると、お母さんの目がどろりと私に向けられた。眼球が腐り落ちたかのような動き。
「これはふたりだけの秘密」
お母さんはベッドの上に投げ出した手を動かした。小指を立てて、指切りのポーズを作る。
「約束しましょう」
それは命令だった。
私はすぐには動けなかった。頭のなかが疑問でいっぱいだった。
この程度の秘密で、約束?
二○年以上前の殺人を打ち明けたくらいで、私を縛れると思っているの? しかも、私自身にはなんの関係もない秘密で。
無茶にもほどがある。私が月瀬さんと共有している秘密のほうが、はるかに切実であやういというのに。
底冷えした感情を抱えつつも、私はむくんで芋虫のようになったお母さんの小指に自分の小指を絡めた。
いったい何度、お母さんに約束を強いられただろうか。
交わした約束の数はあまりに多く、幼い私にはとてもではないけれど守りきれなかった。物心つく前の記憶は、お母さんに叱られて泣いたことばかり。
私は昔からお母さんが好きではなかった。ずっと気づかないふりを続けていたけれど、いい加減認めてしまおう。どうせ、もうすぐお母さんはいなくなるのだから。
そう思うものの、私はよく飼いならされたイヌのように、手綱を引きちぎるなんてできなかった。いい子の仮面は、私の顔の皮と一体化してしまっている。
淡い絶望を感じつつ、私は小さいころのように指切りの歌を唱えた。
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