(8)淫行

「いい加減にしたらどうです?」


 突然、第三者の声が割りこんできた。


「いい歳した大人が女子高生にしつこく絡んで、恥ずかしくないんですか? しかもわけわかんないことをわめいちゃって。お店のひとも迷惑そうに見てますし、通報されかねませんよ」


 声は隣のテーブルから聞こえてきた。

 清流のような冷涼な声に、赤く腫れあがった殺意が潮のように引いてゆく。

 私はフォークをゆっくりと下ろし、声の主を見やった。


「月瀬さん……」


 そこにいたのは、思った通りの人物だった。

 月瀬さんは食事の最中だったのか、デザートスプーン片手に直立していた。私には目もくれず、冷え切った視線を斉木さんに投げかけている。


「手をはなしたらどうですか? 嫌がる女の子に触り続けてたら、犯罪扱いされてもおかしくないわ」


 台詞とは裏腹に、屈託のない笑みを浮かべた。紅いくちびるからのぞく歯はわざとらしいまでに白くて、清潔感よりも挑発的な雰囲気が勝っている。


「そっか。おにいさん、そもそも犯罪者でしたか」


 嘲りの色を隠さない言いざまに、ようやく斉木さんの両手が私からはなれた。


「だ、だれが犯罪者だって? 言いがかりはやめてくれ!」


 斉木さんの怒りの矛先が月瀬さんに移る。

 月瀬さんは鼻で笑った。


「だって、女子高生とセックスするのは犯罪でしょ?」


 なんの気負いもなく吐き出された言葉に、私は胸を射抜かれたような衝撃に襲われた。


 ――セックス。


 直球すぎる物言いにきまり悪さを覚える。けれど、月瀬さんはなんとも思っていないようだ。


 月瀬さんはスプーンを斉木さんに突きつけた。


「ねえ、セックスしたんですよね?愛しの仲原さんと」

「も、もちろん合意の上で……」


「へえ」と月瀬さんがおもしろがるような声を漏らした。


「残念ながら、それでも淫行になりますよ」


 月瀬さんの笑みが毒を帯びる。なまじ顔立ちがきれいだから、軽くあごを引いただけでまなざしに凄みが出た。


「ファミレスに入ったら、クラスメイトが男のひとに絡まれていて。犯罪に巻きこまれてたらまずいなぁって、ずっとおにいさんの話に聞き耳を立てていたんです。そしたら気になることがたくさんあって」


 月瀬さんは首をひねった。さらさらとした髪が肩から流れ落ちる。


「なんでおにいさんは、仲原さんのクラウドにログインできたんですか?」


 斉木さんは「い、いや、それは」と言いよどむ。


「もちろん、乃亜にパスワードを教えてもらって……」

「仲原さんにクラウドの概念が理解できていたかあやしいどころです。波多野さんを盗撮した写真が、クラウド上にアップロードされちゃってましたし。常識的に考えたら、おにいさんに見られたらまずい写真ですよね。もし奇行に走っている知人がいたとしても、普通なら盗撮なんてしないはず」


 月瀬さんはいったん言葉を切ったけれど、斉木さんからの反論はなかった。

 数秒経ってから、月瀬さんは再び言葉を発する。


「ひょっとして、クラウドのパスワードもおにいさんが設定したんじゃないんですか? そのスマホ、おにいさんが仲原さんに買ってあげたものなんでしょ?」

「な、なんでそれを」

「仲原さんの日記に書いてありましたよ。そういえば、おにいさんとキスしてる写真も上がってましたね。無防備もいいところです。淫行の証拠写真をばらまいているようなものだから」


 斉木さんは荒い息を続けるばかりで、なにも言ってこなかった。

 月瀬さんは小首をかしげる。


「おにいさん、仲原さんのことを探しているんですよね? でも、警察に相談しに行くのはやめておいたほうがいいと思いますよ。逆におにいさんが淫行で逮捕されかねませんし」

「な……」


 斉木さんが息をのむ。彼に視線を向けると、真っ白を通り越して土気色の顔をしていた。


「それとも、今ここでわたしがおにいさんを通報しますか? 変質者が女子高生に絡んでますって。警察の取り調べを受けることになったら、おにいさんの淫行が発覚しちゃいますね」


 月瀬さんは死体を蹴るような言葉を続けた。

 斉木さんの顔面が真っ赤になる。握りしめた拳がぶるぶると震えていた。


「ぼ、僕は……」


 鞄とスマホをひっつかむ。


「変質者なんかじゃ、ない!」


 短く吠えると、客席から飛び出していった。そのまま店外へと走り去ってゆく。


「コーヒー代、置いていってくれなかったね」


 立ち尽くす私に、月瀬さんが楽しそうに耳打ちした。


 しばらくすると、ウェイターさんがこぼれたコーヒーを拭きにきてくれた。騒いでしまって申し訳ないから、カフェオレのおかわりを頼んでおく。


「もうフォークを握ってなくても大丈夫だよ」


 月瀬さんは私の右手を取ると、フォークを抜き取った。

 過度の興奮でほてった手指に、月瀬さんの低い体温がしみる。安心感が押し寄せてきて、倒れこむように椅子に座った。

月瀬さんは自分の席にあったパフェと伝票を持って、私の隣に移動してきた。


「波多野さん、どうしてあんなひとの話を聞いてあげちゃったの?」

「なんだか断りきれなくて……」

「ひとがよすぎない? 危なかったよ」


 月瀬さんはスマホのメモアプリに文字を打ちこんで、私に見せた。


『あのひとの推理、妄想のくせに変に当たってたし。ヒヤヒヤした』

「ごめん。月瀬さんのおかげで助かった」

「気をつけて。今回はたまたま道端で波多野さんがあのひとに話しかけられてい

るのを見かけたから、私もなんとかできたけど」

「うん、ありがとう」


 それっぽい台詞を続ける月瀬さんに、私は引っかかりを覚えた。月瀬さんの家は、ひとつ先の駅が最寄りのはず。どうして、彼女はこの町にいたのだろうか。


「それにしても、仲原さん、無事だといいね」


 月瀬さんの白々しすぎる発言に、私は苦笑いした。


「仲原さんのことだし、家出なんじゃないかな」

「その可能性が高そうだね。親と仲が悪かったみたいだし」

『捜索願、出してなかったりして』


 月瀬さんがスマホに打ちなおした文字列を見て、私はうなずく。『だったらいいいんだけど』と返すために、自分のスマホを手に取った。


「……あ」


 画面を見て、アプリで斉木さんとの会話を録音していたことを思い出した。スマホの電池残量が少ないから、ひとまずレコーダーを停止しておく。


「どうしたの?」


 月瀬さんが私のスマホの画面をのぞきこんできた。長い髪の先っぽが私の腕をくすぐる。

 私は変な声を漏らしそうになりながらも、「さっきの会話、念のため録音しておいたんだ」と返した。


「意外と抜け目ないのね」


 月瀬さんは指についたパフェのクリームを舐める。私の肩に身体を寄せ、魔性めいた目つきで見上げてきた。

 月瀬さんの身体はやわらかくて、少し冷えていた。生きもの特有の湿りけを帯びた肌。その下にある、とろけるような脂肪の感触。まるでこっくりとした生クリームのようだ。


 脳幹がしびれ、私のなかのばけものに火がついた。激しい動悸に、呼吸がまま

ならなくなる。下半身がむずむずとして落ち着かなかった。


 動揺をごまかすように、二杯目のカフェオレを口に含む。むせた。

 月瀬さんが「大丈夫?」と紙ナプキンを手渡してくれた。

 私が口をぬぐいながらうなずくと、月瀬さんはテーブルに頬杖をついた。


「会話の録音データを使えば、『もう二度と近づくな』ってさっきのおにいさんに釘を刺せるかもしれない。仲原さんとヤッたこと、会話のなかで認めちゃったし」


 月瀬さんはパフェに刺さっていたクッキーをつまんで口に入れる。


「あの調子なら、自分から警察に行くこともなさそうね。あとは私たちの前に現れないでくれれば、それでいいかな」

「でも、どうやって斉木さんと連絡をとるの?」

「SNS。知り合い同士じゃなくてもメッセージを送れる機能がついてるの。音声データをくれれば、あとはわたしがぜんぶ処理しておくわ」


 月瀬さんはやけに生き生きとしていた。学校での取り澄ました姿とは別人のようだ。


「……どうして月瀬さんは私のためにいろいろしてくれるの?」


 私はカフェオレのグラスに両手を添えながら、あの夜からずっと気になっていたことを訊いてみた。


 月瀬さんは目をぱちくりさせる。


「言ってなかったっけ? 波多野さんに恩があるって」

「恩って言われても、月瀬さんになにかしてあげた記憶はないよ」


 私が首を横に振ると、月瀬さんは「じゃあ、教えてあげる」と笑った。勝手に私のカフェオレを飲んで、懐かしむように目を伏せた。


「中一の五月のことだったかな。波多野さんはゴミ捨て場にあったわたしの靴を回収して、靴箱に戻しておいてくれたの。それがすべてのきっかけ」


 大事に隠してきた宝物を愛しむような声音。ありていに言えば、大げさ。だからこそ、うさんくさい。


「……それだけ?」


 私は訊かずにはいられなかった。

 月瀬さんは「うん」と力強くうなずいた。

 嘘もはぐらかしも感じられない態度に、私は当惑する。

 その程度の親切なら、今までに何度となく行ってきた。困っているひとがいたら、良識の範囲内で助ける。それが私にとって絶対のルールで、お母さんとの約束だったから。


 月瀬さんはスプーンでパフェをすくい取って、私の口につっこんできた。


「私、波多野さんのそういうところが好きで、嫌いかな」


 パフェは舌が溶けそうなほど甘くて、わずかに腐臭を帯びていた。


「昨日だって、どうでもいいひとのどうでもいいお願いを軽率に引き受けてたし。あまりの八方美人っぷりに腹が立って、いやみ言っちゃった」


 月瀬さんはスプーンを抜き取ると、溶けかけたパフェをぐるぐるかき混ぜた。スプーンに絡みついたクリームを舐め取って、うっとりと目を細める。


「波多野さんにとっては、大したことじゃなかったのかもしれないけど。それでも、あのときのわたしには救いそのものだった」


 とうとうと語る月瀬さんの虹彩が、より黒さを増した。


「助けてくれるひとがいるってことは、生きていていいってことなんだって。そんなふうに思えたの」


 むせ返るほど濃い闇の気配。


「だから、波多野さんはわたしにとっての特別」


 月瀬さんはスプーンをテーブルに置いた。嫣然と笑み、闇をたたえた瞳で私をとらえる。


「あなたを手に入れるためなら、わたしはなんでもするわ」

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