(6)母親
「今日はね、図書委員の蔵書点検を手伝ったんだ。そのまま一時間くらい図書室で自習してから、お母さんのところに来たの」
私は病室のベッド脇の椅子に座って、「いい子」としてどんなふうに一日を過ごしたのか、お母さんに報告した。
これはお母さんが入院した二月の頭から続いている日課。お見舞いに行かなかったのは、仲原を殺したあの日だけだった。
ベッドに寝かされたお母さんはむつかしい顔をしている。
「今日はなんの勉強をしたの?」
尋問するような口調。この声を聞くたびに胸を引っかきまわされて、いまだに耳をふさぎたくなる。それでも、口をきいてくれないよりはましだった。お見舞いをすっぽかしてから一週間くらいは、私の言葉に反応すらしてくれなかった。
私はお母さんの意にそぐわない発言をしないよう、慎重に答える。
「数学。そろそろテスト勉強をはじめたほうがいいかなぁって」
「やっぱり二年生になってからのほうがたいへん?」
「うん、数学は特に。だからがんばらないと」
お母さんは骸骨みたいに痩せている上に顔色も黄黒くて、正直、顔を合わせているだけで気が重い。ふとした拍子に、仲原の死に顔が脳裏をよぎるのだ。
けれど、なにごともないふうに装う。お母さんの前では、私はいい子で在り続けなければならなかった。
「最近、なにか変わったことはない?」
お母さんに問われてぎくりとする。正直、この半月で変わってしまったことばかりだった。
「うーん、特にはないかなぁ。六月って、一年で一番なにもない時期だし」
私のとぼけた返事に、お母さんは納得したようだった。「そうね、たしかにね」とあっさりとあごを引く。
「おばあちゃんの家での生活はどう?だいぶ慣れた?」
「二ヶ月経つし、それなりには」
おじいちゃんもおばあちゃんもやさしすぎて逆に居心地が悪い、とは言えなかった。
「おばあちゃんの家には昔からよく行ってたし、土日はお父さんも帰ってくるし。お母さんがいない以外は、そこまで変わらないかな」
「お母さんが家にいなくてさみしい?」
「うん」
うなずくしかなかった。本当はそんなにさみしくない。
「またお父さんとお母さんと元の家で暮らしたい?」
「うん」
うなずかないわけにはいかなかった。実際はおばあちゃんの家のほうが駅に近くて好きだったけれど。
それ以上、お母さんが問いかけてくることはなかった。私の受け答えを吟味するように、黙りこんでしまう。
お母さんの反応を待つこの時間が、他のなによりも苦手だった。お母さんが家にいたころは、夕食の時間に一日の報告をしていたから、緊張のあまり食事が喉を通らない日もあった。ごはんを残すとお母さんがいやな顔をするから、無理をして胃に詰めこんだけれど。
私が膝の上で汗ばんだ手を握りしめていると、お母さんは人心地がついたように目を細めた。点滴のつながっていないほうの腕を持ち上げようとする。でも、指先が震えるばかりでほとんど動かない。おそらく、昔のように私の頭をなでようとしたのだろう。
お母さんは日に日に弱りつつある。このままだと、蝉たちの死体が地面に転がるころには死んでしまいそうだ。
私は腐った息を吐き出す。
早く夏が終わってしまえばいいのに。お母さんがいなくなれば、仲原の死体が見つかることを今ほど恐れずに済むのだから。
「どうしたの?」
お母さんの怪訝そうな声が耳を打った。
私は「なんでもない」と首を横に振った。追及を避けるために、お母さんの手を握る。
むくんでぱんぱんに膨らんだ冷たい手。私の胸裏から這い出てきた、あのばけものによく似た感触。
お母さんは目を閉じる。
「いい子ね」
力なく吐き出されたのは、いつもの私なら望んでやまなかった一言。私の「今日の親切」をお母さんが認めた証。張り詰めていた神経を解きほぐす魔法の言葉。
なのに、今日は違った。「いい子」の響きが引き金となって、猛烈に胃が痛みだした。胃袋のなかでばけものが騒ぎだしたのだ。
――いつもいい子ちゃんでご苦労なことね。
月瀬さんの台詞が耳の奥で再生された。
いい子。
今までに何度も言われてきた言葉。お母さんからも、お父さんからも、おじいちゃんからも、おばあちゃんからも、学校の先生からも、同級生からも。それは私の誇りで、私を私たらしめるものだった。
――本当にそう思ってるの?
頭のなかで声が響く。
だって、いい子にしがみついていたせいで、私は仲原を ――。
私は思考を断ち切るように激しく頭を横に振った。今さらそんなことを考えたって、どうしようもない。
逃げ場を探すように周囲を見渡す。
かたわらのテーブルに、昨日まではなかったガラスの花瓶が置かれていた。
無造作に活けられているのは、ラッパ型の赤い花。月瀬さんの家の庭で見た花によく似ている。
「……オダマキ」
花の名前をつぶやくと、お母さんが「よく知ってるわね」と反応した。
「おばあちゃんがご近所さんにもらったからって、持ってきてくれたの」
おばあちゃんはお嫁さんであるお母さんにやさしい。天涯孤独だったお母さんに同情しているからだ、とお父さんが言っていた。
たぶん、おばあちゃんは私の親族のなかで一番いいひとなのだろう。入院生活に必要な生活用品を補充するだけじゃなく、殺風景な病室に花を活けてくれたりもする。だからといって、よりにもよってあの夜を思い出させる花を持ってくるだなんて――。
「おまえは逃げられない」と釘を刺されているような気がして、私は頭を垂れた。
◇◇◇
翌日。
いつも通りお母さんのお見舞いに行って、おばあちゃんの家に帰る。その途中のことだった。
「すみません。少しいいですか?」
突然、見知らぬサラリーマンに声をかけられた。
背が高くて細身の男性。暗いグレーのスーツをきちんと着ていて、まともそうな印象だ。清潔感のある肌はぴしっとしているし、黒髪がふさふさとしているから、まだ三〇歳にはなっていない ……と思う。時折きょどきょどと左右に視線を走らせるのが、不審といえば不審だろうか。
「僕は
サラリーマン――斉木さんは緊張した面持ちで問いかけてきた。
私は後ずさる。
なぜ、このひとは私の名前を知っているのだろうか。今までに一度も会ったこともないのに。
もしかして、刑事?
もっともありえそうな答がひらめく。
気づいたときには、私は「そうですけど」とうなずいていた。刑事に怪しまれてはいけない、と本能が私の口を動かしていた。
斉木さんの目尻が下がった。
「よかった、合ってた」
顔面のこわばりが消えると同時に、輪郭に幼さが浮かび上がる。実は第一印象よりも若いのかもしれない。
「僕、ひとを探しているんですけど」
刑事にしてはとろんとしていて覇気のない、よく言えばやさしそうなしゃべり方で、斉木さんは切り出す。
「
二度と聞きたくなかった名前が、いきなり飛び出してきた。
心臓が止まるかと思った。呼吸が荒くなるのを隠しながら、「中学は同じでしたけど」となんとか返した。
斉木さんは神妙な顔でうなずいた。
「その乃亜さんからの連絡が、数日前から途切れていまして」
私の緊張を知ってか知らずでか、話を進めてゆく。
「だから、彼女のことを知ってそうなひとに、片っ端から当たってるんです」
私はうっかり「なんで」とこぼしてしまった。斉木さんが仲原と交友のなかった私に声をかけた理由が、さっぱりわからなかった。
「どうして斉木さんは仲原さんを探してるんですか?」
苦しまぎれにそれっぽい問をひねり出して続けると、斉木さんはにわかにあたふたしはじめた。
「ぼ、僕のこと変質者だと思ってる?いや、断じてストーカーとかではないから!」
必死すぎてかえって怪しい。言われてみればたしかに、サラリーマンが女子高生の行方を追っているのは変だ。
相手を変態と決めつけて、この場から逃げ出してしまったほうがいいかもしれない。下手に会話を続けても、ぼろを出してしまいかねなかった。
でも。
私は相手の顔を上目でうかがう。
斉木さんが根拠ありきで私に話しかけたのだとしたら。その根拠を確認しておかないと、後々面倒なことになるかもしれない。
私が黙考しているあいだに、斉木さんは落ち着きを取り戻したようだった。
「僕、乃亜さんとお付き合いさせてもらっているんです」
突然の告白に、私は言葉を失った。
お付き合い? つまり、斉木さんは仲原の恋人ということ? こんな真面目そうな大人が、女子高生と?
「最近、乃亜さんとまったく連絡がとれなくて。だから心配になって、あちこち探し回ってるんです」
「……斉木さんひとりで?」
私の声は固かった。たとえ警察ではなくても、仲原を捜索している人間が何人もいたら厄介だ。
斉木さんは斉木さんで、私が疑ってかかっていると感じたらしい。
「い、いや、一方的に付きまとってるわけじゃないんだ!」
ひときわ大きな声で主張したかと思うと、おびえた目で周囲の様子を見た。うろんげにこちらを見ている主婦が脇を通り過ぎてから、がっくりと肩を落とす。
「話が長くなりそうだし、ここだと人目があるから。ファミレスで話してもいいですか? 当然、お金は僕が出すから」
斉木さんは五十メートルほど先にあるファミレスの看板を指さした。
私は思わず「えっ」と声を漏らしてしまった。初対面の成人男性と地元のファミレスに行く。近所のひとに見られて、お母さんの耳にでも入ったら最悪だ。家での夕飯を食べられなくなるような行為を、お母さんはひどく嫌っていた。
「波多野さん、どうかお願いします。乃亜を見つける手がかりが少しでもほしいんです」
私が逡巡していると、斉木さんが食い下がった。
「彼女のいない生活に、もう耐えられそうにないんです ……!」
苦しげな顔をされると、弱ってしまう。お母さんに何度となく言い聞かせられた「ひとには親切に」に忠実だったせいで、私は断ることが苦手だった。
結局、私は「三〇分くらいなら」とうなずいてしまった。
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