ばけもののささやき
(5)欲情
仲原の死体を沼に沈めてから、半月が経った。
私の日常はなにひとつ変わっていない。警察が訊きこみに来ることはなかったし、町のお巡りさんでさえ派出所でしか見かけなかった。
うわさ話に詳しいおばあちゃんにそれとなく訊いてみても、市内で死体が見つかったという話はないらしい。
私は帰りのホームルームがはじまるのを待ちながら、真新しいリュックに教科書とノートを詰める。
ウサギの毛だらけになった古いリュックは燃えるゴミに出して、まったく同じものに買い替えた。制服も処分してしまいたかったけれど、買いなおすお金がないから夏服に交換した。
チャイムが鳴って、担任が入ってきた。梅雨時は雨で視界が悪いから車に気をつけろ、と当たりさわりのない話をしている。
今夜も雨が降るのかな、と窓の外を見た。灰色の空は薄暗く、なんだか気が滅入った。寝不足に加えて低気圧のせいか、鈍い頭痛もする。
あの夜以来、私はあまり眠れていなかった。部屋を暗くすると、不安がよみがえってくるのだ。仲原の死体が見つかってしまったらどうしよう、と。
警察に行って洗いざらい話せば、楽になれるかもしれない。もちろん、そんなことできやしないから、月瀬さんにすがりついたのだけれど。
私は窓際の一番前の席に座っている月瀬さんに、視線を移してみる。
月瀬さんは月瀬さんのままだ。毎朝、本令が鳴る直前に教室に現れ、休み時間のたびに姿を消し、放課後はさっさと帰ってしまう。相変わらずクラスのだれとも話していないようだった。
もちろん、私から月瀬さんに話しかけることもなかった。変化に敏感なひとびとにただならぬ出来事があったと勘付かれてしまいかねないから。
月瀬さんが長い髪を掻き上げる。しなやかなうなじが剥き出しになった。
脳裏によみがえる、月瀬さんの白い裸体。心臓がきゅっと収縮して、熱い血液が吐き出される。血気は胸の底でわだかまっていた澱と混ざり合って、赤黒く輝く熔岩へと変容した。
あのきれいすぎる身体をぐちゃぐちゃのどろどろにしてみたい。溶け合ってひとつになって、なにもかもわからなくなってしまいたい。
私の口からうめき声が漏れた。それが呼び水となって、意識が現実に戻ってくる。
頭がはっきりするに従って、強酸のような自己嫌悪がこみ上げてきた。月瀬さんに対する後ろめたさに、胸が焼けただれる。
同性の裸を思い出して興奮するなんてどうかしている。まるで、欲情しているみたいだ。
――欲情。
私とは無縁だと思っていた単語が飛び出してきて、胸がかき乱れる。
周囲の酸素が消失してしまったかのように、息ができない。
腹のなかでばけものが暴れている。歓喜している。妄想のなかで犯してしまえと笑っている。
私は机の上で拳を握った。てのひらに爪が食いこむ痛みで、理性をつなぎとめる。歯を食いしばって、ばけものを身体の奥底に押しこめた。
あの夜以来、私はおかしくなってしまった。おとなしくて臆病な私が、だれかを犯そうだなんて、そんなおそろしいことを考えられるはずがなかった。
必死に自分の劣情を否定していると、日直が帰りの号令をかけた。
私は立ち上がりながら、額を押さえた。
◇◇◇
「波多野さん、ちょっといい?」
放課後。廊下の床をほうきで掃いていたら、同じクラスの女子に話しかけられた。吹奏楽部の子だ。普段は颯爽としているのに、今は弱りきった目つきで私の顔色をうかがっている。
「ごめん、私の代わりに図書委員の集まりに出られる ……? 今日の三時からはじまるんだけど」
おずおずと訊いてきたかと思うと、今度はまくし立てるように理由を説明する。
「いきなり外部から先生が来ることが決まって、うちの部の練習を指導してくれることになって。それで、できるかぎり早めに音楽室に来いって通達があったの。あの、だめだったら他のひとに頼むから、断ってもくれてもいいからね!?」
よっぽど切羽詰まっているらしく、気をつかっているのか脅しているのかわからない口調になっていた。もし私が拒否したら、発狂しかねない。
私は相手を落ち着かせるために「わかったよ」と笑ってみせた。
「私が委員会に出るね。司書の先生に『代理で来ました』って伝えておくから」
穏やかな物言いの裏に、「なんで私が」と不満を覚えている自分がいた。
やはり最近の私はおかしい。今まではなんの疑問も抱かずに、ひとからの頼まれごとを受けていたのに。承諾することがほとんどだから、表面上は変わりないように見えるかもしれないけれど。
「ありがとう、助かるよ!」
吹奏楽部の子はほっとしたように頬をゆるめた。ぺこぺこと頭を下げてくる。
「ほんと毎度毎度ごめんね。波多野さんが親切だからって、いつもいろいろ頼んじゃって」
口のなかが苦くなった。本気で申し訳ないと思っているなら、私に頼まなければいいのに。もちろん、相手に対する不満を表に出したりはしないけれど。
私が「気にしないでいいよ」と相手をなだめていると、月瀬さんが教室から出てきた。息をのんだ私の視線を冷たく受け流して、こちらに向かって歩いてくる。
「――いつもいい子ちゃんでご苦労なことね」
すれ違いざま、月瀬さんが低くささやいた。そのまま歩調をゆるめることも早めることもなく、なにごともなかったかのように去っていった。
私は唖然としながら月瀬さんの背中を見送る。
いい子ちゃん。
たったそれだけの言葉が、耳にこびりついてはなれない。なじられたわけではないのに、息が苦しかった。胃がずきずきする。
「波多野さん、あの」
吹奏楽部の子の気まずそうな声に、はっとする。
「いったいなんだったんだろうね」
私はむりやり笑みを作った。鏡を見なくても、自分の口もとが引きつっているのがわかってしまった。
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