(4)魔法
月瀬さんが濡れた身体に制服を着こんでから、いっしょに山道を下った。
「あの沼の底にはね、細長い茎の水草が生い茂っているの。それこそ森のように。だから、沼に沈められた死体は水草に絡め取られて、二度と浮かんでこれないんだって」
前を歩く月瀬さんが、どこか楽しげに教えてくれた。
私は「ふぅん」と冴えない返事しながらも、背筋に冷たいものを覚えた。なんで月瀬さんはそんなことを知っているのだろうか。まるで過去に死体を沈めたことがあるような口ぶりだ。
まさか、死体遺棄は今回が初めてではない ……?
引っかかりを覚えたけれど、疲れもあって追及する気にはなれなかった。
それに、うすうすと感じ取っていた。月瀬さんに深入りしてはいけない、と。死体を沈めた沼以上に深くて
思索にふけっていたら、足がずるっと前に滑った。結果的には転ばなかったけれど、冷や汗がどわっと噴き出してきた。
どくどくと脈打つ胸を押さえながら、足もとを見る。ヘッドライトに照らされた土の道に、私の滑った跡が刻まれていた。
不安になって、足を速める。月瀬さんに追いつくや否や、相手のブレザーの裾を引っぱった。
月瀬さんは立ち止まり、「どうしたの?」と振り返った。
私は足もとを指さしながら訴える。
「もしかして、私たちの足跡、この道に残ってない ……? 仲原さんを沼まで運んだときも、リュックで地面をえぐっちゃったし……」
月瀬さんは私の人差し指の先を見ると、「ああ」と納得したようにうなずいた。視線を私に戻し、小さな子どもをあやすような温かい笑みを浮かべる。
「大丈夫。ぜんぶぜんぶ、うまくいくから。波多野さんはなにも怖がらなくていいの」
それはこの世のどんな蜜よりも甘い言葉だった。私にとって都合のよすぎる台詞。けれど、この声にあらがうなんて私にはできなかった。
山を降りたらすぐにウサギの死体を回収して、月瀬さんの家の庭に埋めた。
できたての土塚のそばには、水仙を八重にしたような紫色の花が咲いていた。
よくよく観察してみると、星型の花びらの上に筒状の花びらが重なっている。変わった形の花だ。
「これ、なんて花?」
「オダマキ。愚か者の花」
私がなんとはなしに訊いてみると、月瀬さんはさらりと教えてくれた。どんな意図があって、花の異名を口にしたのかは計り知れない。
「きれいな花だね」
私が当たりさわりのない感想を述べると、月瀬さんは笑みの色を濃くした。
「私の好きな花なの。さっき埋めたウサギが養分になって、来年はもっときれいに咲くはず」
「多年草なの?」
「ええ。冬には枯れてしまうけれど、根は土のなかで生き続ける」
月瀬さんが地面に置いた私の手の甲に、てのひらを重ねてきた。
「だから、来年も波多野さんといっしょに見たいな」
黒い瞳がきらめく。心なしか頬が上気しているようだったけれど、青白い庭園灯の下でははっきりとはわからなかった。
私たちはつつがなくウサギの死体遺棄を終え、最後に殺害現場に戻った。人殺しの証拠になり得るものがなにも残っていないことを確認してから、私はようやく家路につくことになる。
ブレザーを羽織ってリュックを背負い、
「今日は本当にありがとう」
心をこめ、ていねいなお辞儀をしたときだった。頭頂部で冷たいものが弾けた。
「雨?」
上を向くと、水滴が頬や眼鏡に次々とぶつかってきた。
「とうとう降ってきたね」
月瀬さんの声音はうれしそうだった。
濡れた眼鏡のレンズ越しに彼女を見ると、雨粒を集めるようにてのひらを上に向けていた。月瀬さんはまだ髪も身体も湿っているから、多少の雨なんてどうと言うこともないのだろう。
月瀬さんに見とれているうちに、雨脚はどんどん強まってきた。髪が雨水を含みきれなくなり、ブレザーが濡れてごわごわとする。
私は風雨をしのげる場所を探してあたりを見回した。一番近い建物は月瀬さんの家で、ここから二〇メートルくらいはなれている。
「ねえ、月瀬さん、雨宿りしたいんだけど……」
月瀬さんは私の申し出を無視して、街灯の下にまろびでた。
「慈雨だわ」
夢見るように浮ついた声。
水と光のカーテンのなかに立つ月瀬さんの姿は、映画の一シーンのように幻想的だった。
「この雨で、わたしたちが残した痕跡はきれいさっぱり流れ去るはず」
詩を読むような月瀬さんの台詞に、私は彼女があらかじめ雨の気配を読んでいたことに気づく。
場所、天候、時間帯。条件がそろっていたからこそ、月瀬さんは私に「恩返し」を申し出たのだ。
「月瀬さんはすごいね」
私はつぶやきながら、手の甲の爪痕をなでた。
もし、仲原を殺したときに、私の血が地面にこぼれ落ちていたとしても。きっと、この雨で流れ消えてくれる。
そう信じなければ、とてもではないけれど日常に戻れそうになかった。学校でも、家でも、お母さんの病室でも、私は素知らぬ顔をして過ごさなければならないのだ。
――お母さんのお見舞い。
思い出した瞬間、頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。なによりも大事な日課を忘れていたことに愕然とする。
もしかして、病院の面会時間を過ぎてしまったのではないか。いや、確実に過ぎている。でも、ひょっとしたらまだ間に合うかもしれない。
私がリュックからスマホを出そうとおたおたしていると、月瀬さんが「どうしたの?」と訊いてきた。
「な、なんでもない!」
私はリュックを背負いなおしながら首を横に振った。家庭の事情を明かす気にはなれなかった。
「ちょっと約束を思い出しただけ」
勇気を振り絞って「別に大した用事じゃないから」と付け足すと、案の定、猛烈な罪悪感が襲いかかってきた。仲原を殺したときよりも、何千、何万倍も強い後悔の念。
嘘とはいえ、お母さんを軽んじるような発言をしてしまった。お見舞いをすっぽかすだけでも、ひどい裏切りなのに。明日、病院に行ったら、お母さんになんて言われるのだろう。
胃のあたりをさする私に、月瀬さんが首をかしげる。
「だれかと約束してたの?」
「えっと、お母さんと……」
私がしどろもどろになりながら返すと、月瀬さんは「ふぅん」と興味なさそうな顔をした。
「だったら、探りを入れられたときのための言い訳を考えておいたほうがいいよ」
「先生に頼まれて科学準備室の片づけを手伝ってた、とか……?」
「波多野さんらしいね」
月瀬さんは納得したのか、それとも呆れたのか、薄く笑った。
「もちろん、わたしといっしょにいたことはだれにも言ってはだめ」
しゃべりながら私との距離を縮め、両手を私の肩にかけた。月瀬さんに身体を引き寄せられる。
「今日のことは、ふたりだけの秘密にしておきたいでしょ?」
目と鼻の先に、相手の顔があった。
私のほうが背は高いけれども、微々たる差だ。目線がほぼ同じだから、正面を向いていると月瀬さんの目を直視することになってしまう。どうにも気まずくて、私はこそこそと視線を下方にずらした。
今度は月瀬さんのくちびるが視界の真ん中に飛びこんできた。誘うような紅色が、網膜を刺激する。本能が危険だと叫んでいるのに、目をそらせない。
追い打ちをかけるように、月瀬さんの濡れた両手が私の頬を包みこんだ。軽く背伸びをしたのか、くちびるがますます近づいてくる。
「秘密に鍵をかけてあげる」
月瀬さんは内緒話をするようにささやいた。
視線を上げると、月瀬さんと目が合った。
輝くような黒。ありとあらゆる渇望を秘めた色。見つめ合っただけで魂を抜き取られそうになる。
互いの鼻先が触れ合った。くちびるが重なる。それは、親愛の情を表す軽いキスではなかった。汚くてえぐい、欲望にまみれたキスだった。
月瀬さんは私の下くちびるを執拗に吸ったあと、上下の歯のあいだに強引に熱い舌をつっこんできた。
私は驚きとくすぐったさに腰を抜かしそうになる。わけがわからないまま口を開いて、月瀬さんの舌を迎え入れた。キスはそうするものなのだと、本能が知っていた。
慣れない感覚に身をよじると、じっとしていろ言わんばかりに背中に腕を回されていた。やわらかな胸が私の胸にぴったりと重なり、どこまでが自分の身体で、どこからが月瀬さんの身体なのかあいまいになる。
上昇を続ける体温にくらくらしていると、熱い塊が私の舌に絡みついてきた。
舌がバターのように溶け落ちる。
ふと、互いの尾を相食む二匹の蛇の姿が脳裏をよぎった。死と再生の象徴。月瀬さんとキスしたことで、私は別の存在へと生まれ変わってゆくのだろうか。
私が現実とまぼろしのあわいを漂っていると、相手の舌がそっと抜き取られた。くちびるがはなれてゆく。
長い
月瀬さんの口の端から、蜘蛛の糸がどろりとこぼれ落ちる。くちびるよりもなお紅い舌が、唾液を器用に舐め取った。
「今日のことは絶対にだれにも言わない。波多野さんとわたしだけの約束ね」
月瀬さんは乱れた息の合間に言い放った。
私はよくわからないまま、小さくうなずいた。
熟れすぎた果実のような、あるいは腐りかけの花のような残り香が、口のなかを満たしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます