(3)遺棄

 夜の闇に紛れて死体を運ぶ。


 仲原の両腕を私が、両足を月瀬さんが持って山道を進んだ。月瀬さんが前で、私が後ろ。ふたりそろって、月瀬さんの家にあった軍手とヘッドライトを装着している。


 小柄とはいえ人間ひとりをかついで歩くのは骨が折れた。おまけに、地表に飛び出た木の根がうねっていて足場が悪い。

 けれど悪路であるからこそ、夜の山に踏み入ろうとする人間はいないようだった。私たちのように、死体を捨てに行く人間ならいるかもしれないけれど。


 転ばないよう気をつけながら、注意深く足を前に出してゆく。ブレザーはリュックといっしょに月瀬さんの家に置いてきたけれど、熱湯のような汗が生え際から止めどなく流れ落ちた。

 万年帰宅部の私はそんなに持久力があるほうではない。私よりもさらに細身な月瀬さんは、なおさら体力がなさそうだ。

 私たちの歩みはささやかなものだった。それでも、先に進む以外の選択肢はない。後戻りするには、あらゆる意味で手遅れだった。


 ときどき仲原を地面に下ろして休憩しながら、言葉なく暗闇の向こう側を目指し続ける。人目をはばかって黙っていたわけではない。息が上がってしまって、会話をする余力がなかっただけだ。


「雨が降るかもしれないね」


 月瀬さんがつぶやいた。足取りは頼りないのに、疲れを感じさせない声だった。


「ほら、カエルが鳴きだした」


 そう言われて初めて、カエルの合唱に気づいた。いったん意識してしまうと、今度は耳からはなれなくなる。

 のろのろと前進するにつれ、カエルの声が近くなってきた。かすかに水の流れる音がする。……と思ったら、いきなり視界がひらけた。

 カエルの鳴き声が一斉にやんだ。


 目の前には大きな池、というよりも沼が広がっていた。

 都会の灯りで赤く濁った曇天の下、地面にへばりついている黒い水たまり。鬱蒼とした木々の枝が垂れ下がり、沼を陰気くさく飾り立てている。


 月瀬さんは腰を折り、仲原の両足を地面に下ろした。私も仲原の頭と腕を地面に放り出した。

 文字通り荷が下りて、思わずほっとする。今までずっと足首を握りしめていたとはいえ、死体に触れるのは気持ち悪かった。早く帰って、薬用石けんで手を洗いたい。


 私が両手を振っててのひらの汗を乾かしていると、月瀬さんが振り返った。ヘッドライトの光が顔に当たり、私は目を細める。


「さあ、仲原さんの死体を沈めよう」


 いっしょにお昼を食べようと誘うかのように、月瀬さんはほほ笑んだ。


 私は月瀬さんの指示通り、その辺に転がっている石を仲原のリュックに詰めこんだ。

 月瀬さんは仲原のスマホをいじっている。ロックは指紋認証になっていたらしく、仲原の右手の親指でホームボタンを押したら簡単に解除できた。


「波多野さんにとって都合の悪いデータ、消しておいたから」


 月瀬さんは仲原のスマホをファスナーつきのビニール袋に入れた。おもむろにしゃがみこむと、スマホを地面に落ちていた大きめの石に叩きつける。それを何度か繰り返して、基盤まで破壊しつくした。


「もしスマホの電源を切っても、予備バッテリーとかでGPS情報とか送受信されていたら怖いから。念のため、ね?」


 月瀬さんは今しがたスマホを粉砕したとは思えないような楚々とした顔で、スマホ入りのビニール袋を仲原のリュックに放りこんだ。


「どうせ死体が引き揚げられたら、歯型とかで身元特定されちゃうし、私物もそのままでいいよね。うちの庭で燃やしてもいいけど、この時期にたき火はしないから不自然かも」


 月瀬さんは「死体が二度と浮かんでこなければ問題ない」とほのめかしながら、リュックを閉めた。


 私はためしにリュックを持ち上げてみる。十キロ入りの米袋と同じくらいの重さだろうか。底が抜けてしまわないか少し心配だけれど、さすがにこれだけ重たければ死体が腐っても浮かんだりしない ……と信じたい。


 石入りのリュックを、ふたりがかりで仲原の死体に背負わせる。月瀬さんが持参したロープで、リュックを死体の胴体にがっちりと固定した。


「パパの趣味が登山でよかった。ちょうどいい道具が家にそろってるんだもの」


 月瀬さんは道具を入れてきた鞄を私に渡すと、ヘッドライトをはずした。流れるような動作で襟元のリボンをほどき、ブラウスのボタンを開けてゆく。


「え、な、なに?」


 私はとっさに目を背けた。素肌に溶けこむような白いブラジャーが、網膜に焼きついている。


「つ、月瀬さん、なにしてるの?」


 ひっくり返った声で問いかけると、「沼に入る準備」と平然とした調子で返ってきた。


「だって、服を着てたら泳ぎにくいでしょ?」

「なんで泳ぐ必要があるの?」

「仲原さんを深いところまで運ばないといけないから」

「あ、危ないよ!」


 私は声を荒らげた。


「真っ暗だし、なにがいるのかわからないのに ……」


 下手したら月瀬さんまで死体になってしまう。同じ地域に住む女子高生がふたり同時に行方不明になったら、十中八九事件になるだろう。水面に浮かぶ月瀬さんが目印になって、沼に沈んだ仲原も見つかってしまいかねない。


「……行かないで」


 私はブラウスを脱ごうとしている月瀬さんの手首をつかんだ。予想以上に滑らかな皮膚の感触に、心臓が大きく脈打った。

 顔を上げると、月瀬さんはきょとんとしていた。「心配してくれてありがとう」と口もとをほころばせ、私の手をやんわりと引き剥がす。


「でも、多少の危険は冒さないといけないから。ちょっと手間をかけるだけで、死体が発見される可能性はだいぶ低くなるはず」


 物やわらかなのに、有無を言わせない口調だった。

 私は「そうだね」としか返せなかった。たしかに「見つからなければ儲けもの」な死体遺棄を成功させるためには、多少は身体を張る必要があるのかもしれない。

 私にその勇気はないけれど。


 月瀬さんはブラウスを脱ぎ、スカートを脱いだ。私の視線なんて気にせずに、両腕を背中に回してブラジャーをはずそうとする。

 視線をそらす間もなく、ブラジャーが胸から落ちた。しっとりと丸みを帯びた乳房があらわになる。乳輪の色はごく淡い。乳房の下にあるウエストはきゅっとくびれていて、骨盤の広がりを際立たせていた。へそ周りには脂肪の陰影があり、

やけになまめかしい。


 無意識に股へと視線を流そうとしたとき、月瀬さんが「これ、預かっていて」と地面に脱ぎ散らかしていた制服を渡してきた。

 はっと正気に返ったものの、すぐに幻惑されたかのようなめまいに襲われた。

 汗でいささか湿った制服は、摘みたての花びらに似ていた。鼻を近づけてみると、洗剤のかおりに混じってかすかな体臭がした。――甘いようなすっぱいような、若いおんなのにおいだ。


「波多野さん、どうしたの?」


 夢心地で制服に残った熱をむさぼっていると、月瀬さんが声をかけてきた。

 心臓が跳ね上がる。自分がとんでもない行為をしていたことに気づいて、耳まで熱くなった。


 もじもじしていると、月瀬さんが「仲原さんを岸まで運ぶのを手伝ってくれる?」と頼んできた。

 私は胸に抱えている月瀬さんの制服を見下ろす。

 月瀬さんは私が制服のにおいをかいでいたことに気づいていなかったのか。それとも、見なかったふりをしてくれたのか。

 気恥ずかしさに耳から蒸気が出てきそうだったけれど、とりあえず制服をどこかに置かなければならない。少し悩んでから、近くにあった木に引っかけた。

 月瀬さんは「ごめん、服、鞄にしまえばよかったね」と笑った。


私は疲労に軋む身体に鞭打って、月瀬さんとともに仲原を担ぎ上げる。死体に背負わせたリュックで地面をこすりながらも、なんとか岸まで運んだ。


「波多野さんはここで待っててね」


 月瀬さんは死体に巻きつけたロープの片端を拾い上げると、躊躇せずに沼へと足を踏み入れた。まるで、入水自殺でもするかのように。沼底は固いのか、足つきはしっかりとしている。

 月瀬さんが歩を進めるたびに、死体も水面下に潜って

いった。

 やがて、死体は完全に水没した。今、水上に見えるのは、腰まで浸かった月瀬さんの背中だけ。ヘッドライトに照らされた後ろ姿はやはり端正で、鏡のような水面に広がる波紋はドレスの裾のようだった。


 月瀬さんは静かに深みへと向かってゆく。毛先が、肩甲骨が、そして肩が、黒い水にのまれていった。

 最終的には平泳ぎに似た泳法で沼の真ん中まで進んで、ある地点で止まった。

 月瀬さんはしばらく立ち泳ぎしたのち、くるりと方向転換した。こなれた泳ぎでこちらに戻ってくる。水を掻く手には、もうロープはなかった。


 こうして、仲原は消えた。この世界から、永遠に。

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