(2)密談

「波多野さん」


 湿った夜風に乗って、だれかの声が聞こえた。

 とっさに仲原の顔を見た。

 相変わらず仲原は微動だにしなかった。紗をかぶったような薄黒い顔をして、茫洋と空を眺めている。


 私はそろそろと仲原に接近し、かたわらに両膝をついた。仲原の手首をつかんでみる。

 なまぬるい感触。残照のような体温が皮膚の下にこもっている。

 私は首をひねる。

 おかしい。死体は冷たいはず。もしや、仲原はまだ生きている?

 そういえば、心臓が止まってから数分以内なら生き返ることもあると聞いたことがあるような……。


「大丈夫?」


 私が必死に仲原を揺さぶっていると、もう一度呼ばれた。

 女子の声だけれど、仲原にしては涼やかな気がした。つまり、私と仲原以外の人間が、この場にいる。

 私は仲原から手をはなした。腰をひねってあたりを見回すと、右手側の道端にだれかがたたずんでいた。


 美しい少女だった。

 夕暮れに浮かび上がる白い顔面。瞳は星のない夜のように黒く、くちびるは鮮血を塗ったかのように紅い。つくりもののような顔を縁取るのは、まっすぐな黒髪だった。

 日本人形のようでありながら西洋人形の面影もある、とらえどころのない美貌が私に向けられていた。


月瀬つきせ 、さん?」


 私はかすれた声で問う。

 語尾が揺れてしまったけれど、彼女がクラスメイトの月瀬さんだという確信はあった。月瀬さんレベルの美少女なんて滅多にいるわけないし、私とおそろいの制服を着ているから間違いない。


 月瀬さんは宙を滑るように、私へと歩み寄った。


「よかった、正気みたいね」


 目もとを和らげながら、手を伸ばせば互いに触れることのできる距離で立ち止まる。

 近い。でも、いやな感じはしなかった。


「どうしてここに……」


 私がびくびくしていると、月瀬さんはほほ笑む。


「わたし、この辺に住んでるの。家に入ろうとしたら仲原さんが山に向かっていったから、ちょっと様子を見にきたわけ」


 こともなさ気に語る月瀬さんに、私は「そう、なんだ」と気の抜けた返事しかできなかった。


 月瀬さんは仲原を一瞥した。私に向けたまなざしとは打って変わって、冷めた目つきをしていた。露骨すぎる変化に、見てはいけないものを見たような気分になる。

 月瀬さんは首をかしげた。


「殺したの?」


 なんの気負いも感じられない問いかけ。その軽やかさに、かえって警戒心を煽られる。

 私は「いつから見てたの?」と低い声で尋ねた。

 月瀬さんは「うーん」とあごに人差し指を添える。


「仲原さんが波多野さんにスマホの画面を見せたあたりから、かな?」


 つまり、月瀬さんは私が仲原を殺す一部始終を見ていた。そのわりには落ち着きすぎているような気もするけれど。

 私の眉間に力がこもる。

 なぜ、月瀬さんは私を止めなかったのか。仲原が息絶えるまで数分はかかったから、チャンスはいくらでもあったのに。

 ひょっとして、月瀬さんも仲原に死んでほしかった?

 それとも、仲原殺しをネタに金を強請ゆすろうとしている?

 際限なく疑念が噴き出してきて、頭のなかが泥まみれになった。


「波多野さん、困ってる?」


 私が混乱していると、月瀬さんはさらに半歩ほど距離を詰めてきた。目を伏せ気味にしても月瀬さんの顔が視界の端に入りこむせいで、ついつい相手の挙動に意識を奪われる。

 私は戸惑いながらも「……すごく」とうなずいた。


「仲原さんを殺しちゃったこと、隠したい?」


 私がもう一度うなずくと、月瀬さんの目が半月型から三日月型になった。


「それじゃあ、わたしが助けてあげようか?」


 月瀬さんはねっとりと尋ねてきた。


「仲原さんの死体、わたしがいっしょに隠してあげる」


 それはあまりにも魅力的で、罠としか思えない台詞だった。

 私は初めて月瀬さんの顔を真正面から見た。

 涼しげな顔ばせに、砂糖と毒を混ぜ合わせたような口もと。強い芳香をかいだかのような甘いしびれが脳の芯に、それから全身へと広がってゆく。


 月瀬さんは一歩退がって、私に手を差し出してきた。

 私は花柱めいた月瀬さんのてのひらを見下ろす。

 蜜に誘われる虫のように、この指にしゃぶりつきたい。そうしたらすべての痛みが消えて、楽になれるのではないだろうか。麻酔を、あるいは、麻薬を打ったかのように。


「どうして月瀬さんが私を助けてくれるの?」


 それでも、私はなけなしの理性にしがみついた。なにもわからないまま月瀬さんに取りすがったら、二度と後戻りできなくなってしまいそうな気がした。


「それはね」


 月瀬さんは口もとに笑みをにじませながら、私の顔をのぞきこんできた。長いまつげに縁取られたアーモンド型の瞳は、胸騒ぎがするほど澄んでいた。

 

 風の流れが変わる。

 鳴きやむ虫たち。

 濃度を増した草木のにおい。

 湿気が濡れた布のように肌にまとわりつく。


「恩返し」


 月瀬さんは焦らすように何度かまばたきを繰り返してから、呼気とともに吐き出した。

 私は目を見開く。


「なんのこと?」

「覚えてないの?」

「知らない、というか ……」


 私は月瀬さんにまつわる記憶を、手当たり次第あさってみる。でも、なにひとつ思い当たる出来事はない。

 当然だ。月瀬さんとは今まで接点がなかったのだから。

 中学から同じ学校に通っているけれど、いっしょのクラスになったのは今年が初めてだった。どちらもずっと帰宅部だったから、共通の友だちもいない。

 そもそも、月瀬さんに友だちはいるのだろうか。彼女がだれかといっしょにいるところを、一度も見たことがなかった。


 月瀬さんは「そっかぁ」と肩を落とした。


「波多野さん、だれに対してもやさしいもんね。他人にしてあげたことなんて、いちいち覚えてなんていないよね」


 口調も表情も穏やかなのに、微細な棘を感じた。

 どう応えるべきか考えあぐねていると、月瀬さんはまなじりを下げる。


「でも、問題ない」


 次の瞬間には、月瀬さんの顔から笑みが消えた。怖気を覚えるほど真摯な面差し。表情の丸さに隠れていた、硬質な素顔があらわになっている。


「波多野さんが気まぐれで垂らした蜘蛛くもの糸。あなたが私を奈落の底から引き上げてくれたのは、紛れもない事実」


 謳うように、月瀬さんは語った。

 私は首をひねる。蜘蛛の糸。そんな大層なことをした記憶はなかった。


 月瀬さんは「ええ」とうなずく。


「私はあなたに救われたの」


 透明な糸を手繰るように、私に向けた手を握りこんだ。


「波多野さんは、私の恩人」


 下まぶたがうるんで、滴るような熱を帯びる。


「たったひとり、特別なひと」


 清冽なのに粘ついた視線が、私に絡みついてきた。はらわたが内側から凍りつくような悪寒に襲われる。

 これは人喰いの目だ。不自然なほどに紅いくちびるは、ひとの生き血をすすった証で――。

 私は妄想をさえぎるように「よくわからないけど」と首を左右に振った。


「そんなこと言われたって、納得できるわけがない」


 死体遺棄の手助け。それは、ささやかな善行の報いにしては重すぎる。


「それに、月瀬さんは死体遺棄の方法を知ってるの?」


 私が疑いをぶつけても、月瀬さんは揺らがなかった。それどころか「任せて」と胸を張る。


「大丈夫。波多野さんを助けられるのは、この世界で私だけなんだもの」


 傲慢ささえ感じるほど、自信に満ちた断言。月瀬さんは結んでいたてのひらを開いて、私に差し伸べてくる。

 月瀬さんは手指までも美しかった。

 青黒い水底で、白い花がこぼれたかのような錯覚を抱く。さながら夜道に置かれた道しるべだ。

 月瀬さんに導かれれば、光の届かない海溝でも迷ったりしないだろう。


 それは啓示だった。根拠なんてなにもなかった。だからこそ、信じてもいいと思えた。

 私はおそるおそる片手を持ち上げる。月瀬さんの指先に触れようとした途端、お母さんの顔が脳裏をよぎった。たったそれだけで胃がすくみ上がる。

 怒りと悲しみを宿した、冷然とした瞳。感情を頭蓋の下に押し隠した、のっぺりとした面持ち。


 もしかして、私はいけないことをしようとしているのではないか。ひとを殺す以上に許されざることに、手を伸ばそうとしているのではないか。

 焦りと怖れがわき上がる。それでも、お母さんの影を乱暴に振り払った。

 たとえ過ちだろうと構わない。今の私には、月瀬さんの手を取る以外の道はないのだから。お母さんを失望させないためには、この得体の知れない同級生を頼るしかなかった。


「月瀬さん」


 私はついに月瀬さんの手をつかんだ。


「お願い、助けて」

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