花と死体
捺
それはまるで蜘蛛の糸
(1)殺害
学校帰り。
私は近所の小学校に忍びこんで、飼育小屋からウサギを盗んだ。
裏山へと続く未舗装の道を駆け抜ける。
民家が途切れたあたりで、リュックに閉じこめていたウサギを取り出した。
首根っこをつかんで地面に下ろし、ふわふわした背中を両手で押さえつける。片手をはなしてもウサギが反撃できないことを確認し、右手を小さな首にかけた。左手も首に回して、一気に絞め上げる。
ウサギは私の手のなかでもがき苦しんだ。後ろ足で地面を激しく叩き、短い前足で土を掻く。キーキーと鳴く声が耳についた。
私はウサギの悲鳴を封じこめるように、両腕にますます力をこめた。
顔が熱くなって、脳内の血管が弾けそうになる。
細い骨の砕ける感触がした。
ウサギの身体が大きく引きつって、それを境に抵抗が弱まってゆく。鳴き声もやんだ。そして小刻みに痙攣したのち、動かなくなった。
私はようやくウサギから手をはなした。湿りけを帯びたぬくもりが、まだ指先に残っていた。
中指の腹にくちづける。命を奪い去ったばかりの指は、くちびるがとろけそうなほど熱かった。
満たされた気持ちでウサギの死体を見下ろしながら、喉に詰まっていた息を吐き出す。胸のなかで石のように凝り固まっていた衝動が、じんわり溶けていった。
ブラウスの袖で、額ににじんだ汗をぬぐった。
ブレザーのポケットからスマホを取り出して、現在時刻を確認する。
一八時四五分。
思ったよりも遅い時間だった。
さっさとウサギを片づけて、お母さんのお見舞いに行かなければ。平日の面会時間は二〇時まで。ここから病院まで三〇分近くかかるから、満足感にひたっている余裕なんてない。
せっかく気分がいいのにもったいない、と思いながらも腰を上げる。地面に放り出したリュックを拾うために振り返った。
そして、凍りつく。
薄闇のなかに人間がひとり立っていた。
地元の私立高校のセーラー服に紺色のカーディガンを羽織った、背の低い女子。さらさらの茶髪に小さな頭、着せ替え人形のようなかわいらしい顔立ち。なのに、笑みはドブくさい。
私は彼女を知っている。同じ中学出身の
頭上で枝葉がさざめいた。共鳴するように、胸のざわめきが大きくなる。
「
仲原は気安くて嘘くさい挨拶をしてきた。
私はなにも応えられなかった。ほてった身体からどんどん熱が失せてゆく。頭に血が回らないせいで、思考がままならなかった。なのに、心拍はウサギを殺したときよりも激しい。
仲原は満面の笑みを浮かべた。
「今、すごくいい写真が撮れたんだよ」
朗らかに話しながら、スマホの画面を私に見せつけてきた。
――見たくない。
猛烈な拒否感が胃の底から這い上がってくる。けれど、想いとは裏腹に、私は仲原にふらふらと歩み寄っていた。おぼつかない手つきでずり落ちた眼鏡をなおし、目を細めて画面を見据える。
画面には一枚の写真が表示されていた。地面にうずくまって、ウサギに両手をかけている女子高生の後ろ姿。この地域では珍しいモスグリーンのブレザーを着て、三つ編みを背中に流している。
写真は斜め後ろから撮影されていた。そのため、被写体の横顔が少し写りこんでいる。
黒縁の眼鏡。少し上を向いた鼻先。なだらかな頬。わずかに見える口角は、明らかにつり上がっていた。
被写体の表情に気づいた瞬間、汗ばんだ肌が一斉に粟立つ。
ウサギを殺すとき、私は笑っていたのだ。普段の私とは似ても似つかない獰猛な顔で。人違いだ、と思いたかった。けれど、今でも脳にこびりついている快感が、これは間違いなく私の笑みだと物語っていた。
「どう? 暗いわりにはきれいに撮れたと思わない?」
私の顔色の変化を見届けて、仲原はスマホを持つ手を引っこめた。
「すっごくかわいいよね。ウサギさんも、波多野さんも」
仲原の弾んだ声に意識が揺さぶられる。目は見えているはずなのに脳内で像を結ばず、ありとあらゆる音が思考に割りこんできた。
もはやなにがなんだかわからない。ただ、吐き気だけはたしかな感覚で、内臓の痛みが毒々しい色彩となって網膜にへばりついている。
痛みはぐるぐると混ざり合い、いつしか赤黒いまぼろしへと変わっていた。
霊安室の冷気を凝縮したかのような石碑がそびえ立っていた。腐りかけた卵の白身のような粘液にまみれ、不潔な光沢をはなっている。
拝石が音もなくずれた。下から穴が現れる。のぞきこんでみても、墓のなかにあるべき棺や骨壺は見当たらなかった。ただ、底なしの闇だけがわだかまっている。
穴のなかで水の跳ねる音がした。きーんと耳鳴りがして、なにかの気配が近づいてくる。びちゃ、と穴のふちにヘドロのような液体がついたかと思うと、なにかがずるりと穴から這い出してきた。
それはばけものだった。風呂のなかで溶けかけた人間の死体のような、おぞましい姿をしている。身体を支える骨はなく、ゆるいゼリー状になった身を引きずることしかできない。
あわれなばけものは呻いた。助けを求めるように、剥がれかけた爪で私の胃袋を引っかきまわす。
「ねえ、波多野さん、高校でも相変わらずみんなにモテモテなの? 先生にも愛されまくってるんでしょ?」
私が吐き気をこらえていると、仲原の嘲るような声が脳に突き刺さった。
「私ね、波多野さんのこと神さまみたいだなぁって思ってたの。だって、みんなのお願いをぜんぶ聞いてくれるんだもん。普通の人間には無理だよそんなこと。だから、波多野さんは神さま」
私は脂汗を流しながら眉をひそめる。仲原がなにを言っているのか、理解できなかった。
「波多野さんが同じ人間なんだってわかってうれしかった。波多野さんみたいなひとも小動物を殺すんだなぁって」
仲原はスマホをあごに当て、媚びるように首をかしげた。
「だからね、波多野さんが楽しそうにしてる写真を送ったら、みんな大よろこびすると思わない?」
悪意のにじんだ問。視界の揺れがやんだ。
――そういうことか。
私は思考を取り戻す。
仲原は写真を使って、私を脅迫しようとしているのだ。これから「写真をばらまかれたくなかったら……」という常套句が飛び出してくるはず。
相手の意図を把握した瞬間、身体の底から熱がこみ上げてきた。熔けた鉄のような激情に、全身の血液が沸き立つ。
「……思わない」
怒りを押し殺して答えた私に、仲原はいやらしく口もとを歪めた。
「あれぇ、なんで怖い顔をしてるの? さっきの写真をみんなに見せるだけじゃ不満?」
にやにやしながら私の顔を眺め回し、唐突に「そうだ!」と手を叩いた。
「波多野さんは私と違って、お母さんのことすごく大事にしてるんだよね」
――お母さん。
ばけものがぞろりとうごめいた。
「だったらこの写真、お母さんにも見せてあげようよ」
ばけものがぶくぶくと膨らんでゆく。
「波多野さん、こんなにきらきらしてるんだもん」
黒い膿のようなばけものは腹に氾濫して、胸腔を満たし、心臓へと達して――。
「きっとお母さんもよろこ……」
視界が赤黒く染まり、私は仲原に飛びかかった。
相手を地面に押し倒し、腹の上に馬乗りになる。
仲原が叫ぼうとしたから、平手で頬を張ってやった。空砲を撃つような打撃音が、薄暮に響きわたる。
仲原は両目と口を大きく開いた。
「は、波多野さん?」
おびえきった声だった。
私は返事の代わりに、仲原のがら空きの喉に両手を添えた。人間の首は、実際に触れてみると思っていた以上に細かった。
大きく息を吸って、両手に体重を乗せる。地面に両膝をつき、尻を浮かせ、相手の喉骨をへし折るつもりで首を絞めた。
仲原が潰れた悲鳴を上げた。暴れながら長い爪で首を掻きむしり、私の左手の甲をえぐる。
鋭い痛みに刺激され、衝動が加速した。五感が遠ざかり、自分の血液がごうごうと流れる音しか聞こえなくなる。これはきっと、火葬場で焼かれるときの音と同じだ。
――壊せ。壊してしまえ。
頭のなかで響く声に、私は無心で従った。
私の下でばたつく身体。ひしゃげたうめき声。飛び出しそうな眼球。
ぬるぬるとした汗に手が滑りそうになる。力みすぎて頭がぐらぐらとした。首筋から肩にかけての筋肉がぱんぱんに腫れている。上半身の疲労が鈍痛へと変わってきた。
それでも奥歯が割れそうなほど歯を食いしばり、力をこめ続ける。
仲原の顔がどす黒くなってきた。白目が濁りはじめる。
押し寄せ来る死の気配に、私のなかで凶暴な歓喜が吹き荒れた。
殺意の解放。すべてを破壊しつくす暴力。
ずっと求めていたものが、ここにある。
笑い声のような泣き声のような喘ぎが私の口から漏れた。気が昂ぶりすぎて涙がこぼれる。
殺してやる。私をおびやかすものを。
仲原なんかにいい子の顔を奪われてしまったら、私は――。
いったい何秒、いや、何分経ったのだろうか。
がくん、と仲原の身体からなにかが抜けた。開かれたままの目から光が消える。
私は肩で息をしながら、ゆっくりと仲原の首から手をはなした。
仲原は動かない。数分前までの愛らしさはすっかり消え失せ、開きっぱなしの口からは泡立った唾液がこぼれていた。
仲原の首筋に手を伸ばしてみる。熱く湿った皮下の肉はやけにぐんにゃりとしていた。気色悪さに耐えながら脈を探してみるものの、一向に見つからなかった。
念のため、仲原の口もとに耳を寄せてみる。呼吸音は聞こえない。大きく開いた口の上に頬をかざしてみても、やはり呼気は感じられなかった。
「……終わった」
私は頭をもたげ、肺の底から息を吐き出した。
緊張が解け、世界に音が戻ってくる。
枝葉の鳴る音。低い虫の音。遠くで改造車が走る音。
乱れた息を整えていると、ゆるやかな風が首筋をなで、体表にまとわりついた熱気を洗い流していく。
「よかった……」
これで、お母さんに写真を見られることはない。病院に行けば、今日も変わらず「いい子ね」と言ってもらえるはずだ。あとは変わらぬ日々に戻るだけ――。
――本当に?
頭のなかで声がした。
重大なことを見落としているかのような焦燥感。耳の奥でチリチリと音がする。
なにが不安だというのだろうか。殺意は消えた、衝動は燃えつきた。ばけものは眠った。仲原だって――。
私は下を向く。
そして気づいた。
自分が死体の上に座っていることに。
声にならない絶叫がほとばしった。
私は仲原の腹から転がり落ちる。膝を擦りむきながら、這いつくばってその場をはなれた。
道端の草むらに差しかかろうとしたとき、急に逃げるのが怖くなった。
仲原の死体を放っておくわけにはいかない。だれか来る前に隠さなければ。
ふらつきながら立ち上がり、嫌がる身体をなんとか仲原に向けた。
地面に転がった仲原はぴくりとも動かない。
だって、死んでいるから。私が殺したから。この手で仲原を。ウサギではなくて、人間を。
脳内で事実を反芻しているうちに、全身が小刻みに震えだす。貧血になったかのように、目の前が暗くなった。
どうしよう。このままだと殺人罪で捕まってしまう。学校に通えなくなる。お母さんのお見舞いにも行けなくなる。
どうすればいいのかわからない。
もう、どうしようもないのかもしれなかった。
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