ヴェン・ウリルとジュルチャガ

 1

 

 ヴェン・ウリルは門の前で愛馬サトラから降りた。

 この時点で小姓か下働きの者が馬を受け取りに来なくてはならないのに、その気配がない。つまり何か異常が起きている。

 もちろん、ヴェン・ウリルの鋭敏な五感は、宏大なリンツ伯邸の敷地内が、ひどくざわついていることを、とうの昔に感知していた。だが、何が起きているのかはわからない。

 自分でうまやまでサトラを連れて行き、馬つなぎにつなぐと、騒ぎが起きている場所に足を運んだ。

「あ。ヴェン・ウリル様だ」

「ヴェン・ウリル様が帰って来られた」

 館の使用人たちが道をあけたので、ヴェン・ウリルは前に進んだ。

 客棟の一つの玄関横で、ひどく薄汚い格好をした男が、小間使いの少女を後ろから押さえつけている。男の右手にはナイフが握られ、興奮した様子で少女の首から胸にかけてを、ぺたぺたとたたいている。

 使用人たちが説明してくれたところでは、男は借金を重ねて、そのかたに商売道具の馬と荷車を取り上げられたのだという。

 酒に酔って館に乗り込み、商売道具を返してくれと談判しようとしたが、応対に出た執事は、当主のサイモン・エピバレスは留守だし、馬と馬車の返却はできないと断った。

 男は激高して、近くにいた小間使いの少女をさらって、刃物を突きつけて商売道具を返せと要求しているのだという。

 要するに男を取り押さえればよいのだが、もともと酔って手元の危ない男が、激しく興奮しているのであるから、下手な手出しをすれば、人質になった少女の身が危ない。だから誰も近寄れないでいるのだ。

 ヴェン・ウリルは男との間合いを計った。

 この位置から一呼吸のうちに飛び込んで、あのナイフをはじき飛ばすことはできる。だが、その一呼吸のうちにナイフが少女を傷つけないという保証はない。十のうち九は少女を傷つけずに助け出せる。だが残りの一が、ヴェン・ウリルを躊躇させる。

 あのナイフが、もうほんの少し少女から離れれば、飛び込んで事態を解決できるのだが。

 

 2

 

 ヴェン・ウリルは流れの騎士である。

 実はある国の君主の血を引く者なのだが、そのことを知る者は、ほぼいない。

 いや。

 この男の正体を知る者は、この男がヴェン・ウリルと名乗っていることを知らないから、ヴェン・ウリルの出自を知る者は誰もいないといってよい。

 故国は滅びた。

 理不尽な侵略によって滅び去ってしまった。

 だが、ごく一部の民が、指導者に率いられ、オーヴァの流れを東に渡った辺境で、街を築いた。

 その街は、ヴェン・ウリルにとって、絶望のなかでのわずかな慰めである。

 民のいくばくかが中原で奴隷同然の生活をしていると知り、ヴェン・ウリルは長い年月をかけて民を捜して解放し、金を与えて辺境の街へと送った。

 金を得るためにずいぶん無茶もしたし、刺客のようなこともした。

 いつしか彼は、〈赤鴉ロロ・スピア〉という、不吉なあだ名で呼ばれるようになった。

 散り散りになった民を捜し尽くしたとき、ヴェン・ウリルは、ひそかに姪が生まれていたことを知った。

 その姪に会いに城に忍び込んだヴェン・ウリルは、姪が問題を抱えて困っていることを知る。その問題を解決するには金がいる。

 オーヴァの東で金になる仕事を探したが、うまくゆかなかった。

 もう約束の日まであまりない。

 ヴェン・ウリルは、おのれの運命を神々に委ねた。

 みずからを売りに出したのである。

 なんと買い手が現れた。

 その買い手は必要な金額の十分の一ほどしか持っていなかったが、その金額が精いっぱいのものだということはわかった。

 期限が迫っていたため、その金を持ってヴェン・ウリルは姪のもとに急いだ。そうしたところ、その金額が、ちょうど姪の危急を救う金額だった。

 これは運命なのだ。

 ヴェン・ウリルは、そう思った。

 やるべきことをやり終えてしまい、生きてゆく目的も意味も失った自分に、神々が道を指し示したのだと思った。

 だからヴェン・ウリルはおのれを委ねることに決めた。

 自分を買い取った男、バルド・ローエンに。

 

 3

 

 バルドと合流すべく、再びオーヴァの東に渡ったヴェン・ウリルは、リンツ伯サイモン・エピバレスのもとで、バルドの使いを待つことになった。

 世話になる礼にと、サイモンの仕事を手伝った。

 今も隊商の護衛の旅から帰ったところだ。この次にもう一つの護衛を請け負っている。ヴェン・ウリルが護衛に付くという条件で、安い金額で南部の香辛料を買う交渉がまとまったのだ。

 だが今は、とにかく、小間使いを人質に取った犯人を取り押さえなくてはならない。

 犯人が隙をみせるのを、ヴェン・ウリルはじっと待った。

 そのうち、二階のベランダに誰かがいるのに気付いた。

 うまく身を隠し、気配を殺している。ヴェン・ウリルでなければ気付かなかったろう。

 二階の誰かは、ヴェン・ウリルが気付いたことに気付いた。

 そして目で合図を送ってきた。

 ヴェン・ウリルは、わずかにうなずいた。

 二階のその男は急に身を現し、ベランダから飛び降りた。

 見守る人々が驚きの声を上げる。

 何が起きたのか、と犯人も後ろを振り返って上をみあげる。だがそのときには、飛び降りた男は犯人の視界の下側におり、くるりと身をひるがえすと、まっすぐにヴェン・ウリルのほうに駆け寄ってくる。

 その手には犯人が持っていたナイフが握られている。一瞬のうちにすり盗ったのだ。

 このときヴェン・ウリルは、自分と同じほどの速さで走れる人間がこの世に存在することを知った。

 もちろん、すでにヴェン・ウリルも駆け出している。犯人の懐に飛び込むまでは、ほんの一呼吸である。

 犯人が再び前を向いたときには、そのみぞおちに深々と、魔剣〈ヴァン・フルール〉の柄頭つかがしらが突き込まれていた。

 二階から飛び降りた男は、使用人たちが押し寄せて犯人を捕縛し、小間使いの少女を介抱しているのを、にこにことみつめながら、ヴェン・ウリルにあいさつした。

「やあやあ。おいら、ジュルチャガっていうんだ。あんた、誰?」

「ヴェン・ウリルという。ジュルチャガだと? ではおぬしは、あるじ殿の使いか」

 このときなぜかジュルチャガは、一瞬、むっとした顔をした。ヴェン・ウリルはその表情の変化をみのがさなかったが、そのことの意味に気が付くのは、ずっとのちのことである。

「あるじだって? おいらはバルドの旦那の身内さ。あんたはいったい何なのさ」

「俺はあるじ殿に買われた男だ」

「か、買われた? 待てよ……ヴェン・ウリル? あっ。あんた、〈赤鴉〉かい?」

「ふむ。いつのまにか、そういうあだ名がついたようだ。お前は、〈腐肉あさりゴーラ・チェーザラ〉と呼ばれているそうだな」

〈腐肉あさり〉とは貴族が食べ残した肉をひそかに平民が食べることであり、転じて平民のくせに肉を喰らうことをいう。

「そうさ。おいらはグルメなのさ」

 このとき、騒ぎの渦中に帰宅していたサイモンが会話に加わった。

「おお! ジュルチャガ。来たか。ヴェン・ウリル殿とはもう会ったようじゃな」

 このあと、ヴェン・ウリルとジュルチャガは、サイモンの紹介を受けてお互いのことを知る。そしてヴェン・ウリルは隊商の護衛の仕事が済んでからジュルチャガを追いかける約束をして、二人は別れるのであるが、まさに絶妙のタイミングでバルド一行に合流することになるのである。


〈おわり〉2016.1.1

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