トリーシャの歌(書籍第2巻エビテンほか特典付録)
------------------------------------------------------------------------------------------------------------
本作品は、2014年10月3日に株式会社KADOKAWA様より刊行された『辺境の老騎士』第2巻(企画・製作:エンターブレイン)の、エビテン様ほかでの販売用特典付録として刊行されたものです。すでに相当の時間も経過したことであり、webで公開させていただきます。(2019.1.12著者)
------------------------------------------------------------------------------------------------------------
[トリーシャの歌]
1
オーヴァのほとりで、一人の少女がザルバッタをつま弾きながら歌を歌っている。
〈大いなるオーヴァの岸辺〉
〈乙女ヒュヒテは歌を歌えり〉
〈帰り来たらぬ想い人に寄せ歌を歌えり〉
〈来る日も来る日も歌を歌えり〉
〈されど恋人は帰らじ〉
〈ある日乙女はソイ笹を折りて鳥となし〉
〈かの人を戻したまえとつぶやきたり〉
〈たちまちソイ笹は白き鳥となり〉
〈しばし川の流れにたゆたいしが〉
〈やがて深き淵に沈みゆきぬ〉
〈昏き水底を進みし白鳥が〉
〈たどり着きたるは混沌の国〉
〈乙女の想い人はいましぬ〉
〈うち続く戦いのなか混沌の国に迷い入りて〉
〈羅刹に囲まれ剣をふるいてありしなり〉
〈若者は白鳥に乗り舞い上がりぬ〉
〈高く高く舞い上がりぬ〉
〈窮地を脱したる若者が〉
〈天の果てを超えたれば〉
〈そはオーヴァの水面なり〉
〈岸辺に降り立ちし若者は〉
〈愛しきひとの名を呼ばわりぬ〉
〈乙女はいませり〉
〈乙女ヒュヒテは川岸にいませり〉
〈されどヒュヒテのいらえはあらず〉
〈そが魂魄は混沌の国への道行きに〉
〈力尽きたればなり〉
〈若者は乙女を抱きしめぬ〉
〈物言わぬむくろを抱きしめぬ〉
〈死せる乙女は笑みを浮かべたり〉
歌い終わると少女の背中から声がかかった。
「悲しい歌だね」
騎士見習いの青年だ。
もちろん、そこにいるのは分かっていた。この青年の足音を少女が聞き逃すはずはない。けれど少女はぷいと横を向いて、青年のほうを見ようとしない。
「トリーシャ。かわいいトリーシャ。こちらを向いておくれ」
少女はさらに首をねじった。
ぷっくりと頬が膨らんでいるのが後ろからも見えるだろう。
「怒らないでくれないか。任務でしかたなかったのだ」
そんなことはトリーシャにも分かっている。分かっているけれども、こんなにも待たせた怒りをぶつけずにはいられなかったのだ。
けれどぷりぷりと怒りながらも、トリーシャの指はザルバッタを愛おしそうになでている。青年からの贈り物であるザルバッタを。
2
トリーシャの本当の両親は、とうに死んでしまった。
幸運にもトリーシャは親戚であったこの地の領主の養女となり、何不自由のない生活をしている。養父も養母も優しくしてくれる。そのことにはいくら感謝してもしきれない。感謝のしるしに、トリーシャは一生懸命働いている。
けれどトリーシャの胸の中には、ぽっかりとあいた穴がある。埋め尽くせない寂しさがある。なぜそんな寂しさを感じるのかは分からない。分からないけれどその寂しさは、トリーシャの胸の奧に住み着いて、出て行こうとしない。
両親と兄姉が死に、この地に迎えられたのは八歳のときのことだ。八歳というのは、世の中のことを理解するには小さいが、母や父の愛を知るほどには大きい。
たぶん心の大きさというのは、おとなも子どもも変わらない。八歳の子どもの心には、世の中の常識や生きていくための知識が入っていないだけ、たっぷりと大切なものが入っているのだ。
可愛がっていた人形のこと。
大好きなお菓子のこと。
お気に入りの服。
ふかふかのベッド。
ただよってくる朝ご飯の匂い。
そして母と父の数え切れない思い出。
一緒に寝た姉の手と足のあたたかさ。
そうしたものを、トリーシャは丸ごと失ってしまった。はやり病と火事で。
どうして自分だけが生き残ってしまったのだろう、と時々トリーシャは考える。生きるということは、こんなにも寂しいのに。
3
青年は、トリーシャがここに来たときには、もういた。他領から騎士修業に来ていたのだ。トリーシャの目には、青年がずいぶんおとなに映ったけれど、考えてみればあのとき青年は十二歳に過ぎなかった。
それからいくつもの春を、夏を、秋を、冬を、トリーシャは青年と過ごした。
青年は内気で物静かなたちであったが、トリーシャには優しくしてくれた。
「あなたは騎士様になって、領主になられるのでしょう」
「そうだよ」
「では、そんなに内気ではだめ。もっとほがらかにならなくては」
「そうかな」
「そうよ。ほら、笑って」
「いや、そんなに急には笑えないよ」
「あのね。領主様が明るく豪快に笑っていると、それだけで領民は安心するの。たとえ今が苦しくても、領主様についてゆけば幸せが待っていると、そう信じられるの」
そうだ。
青年が笑ってくれれば、トリーシャも寂しさを忘れることができた。
この青年こそが自分のふるさとだ、といつしかトリーシャは思うようになった。
今やトリーシャは十五歳である。
青年は十九歳で、騎士叙任を受ける日も近い。
いまだ求婚はされていないけれど、いつかこの人と結ばれる、とトリーシャは信じている。青年の心にも、きっと同じ思いがあると信じている。
青年は、〈乙女ヒュヒテの歌〉を悲しい歌だという。
けれどトリーシャはそうは思わない。これは素晴らしい歌だ。
恋人がどことも知れぬ場所で苦難に陥っていたのを、乙女ヒュヒテは祈りによって救った。自らの命を引き換えにして救った。それはなんと素晴らしいことだろう。
もしも青年が戦で死んで、再び一人で取り残さたらと思うと、トリーシャは不安でたまらない。そんなことになったら、今度こそ耐えられないだろう。
そんなときに自分の祈りで青年を救うことができたらどうだろう。魂魄となって青年のもとに駆け付けられたらどうだろう。自分の命と引き換えに青年を無事に帰還させることができたらどうだろう。
それほど素晴らしいことはない、とトリーシャは思うのだ。
4
「明日また旅立たねばならない」
「え?」
トリーシャは振り返った。
そこには愛しい人の、少し困ったような笑顔があった。
「山賊との戦いで伯父上がけがをなされた。伯父上は無事に帰還なされたが、山賊たちを討たないと、被害が広がってしまう」
「あなたが行かなくてはいけないの?」
「伯父上の命なのだ。だがこれは好機でもある。手柄を立てれば騎士に叙される日が近づく。そうすれば」
そうすれば、どうなのか。
トリーシャはその続きが聞きたかった。
だが青年は口をつむいで、優しい目つきでトリーシャを見るばかりだった。
「しかたないわね。では、無事に帰れるようにおまじないをあげるわ」
トリーシャはそう言って、騎士見習いの青年ゴドン・ザルコスに、キスをした。
それは遠い遠い日の出来事である。
(おわり)2014.10.3
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます