ニド・ユーイルの奮戦
大陸暦4273年1月18日
1
騎士ニド・ユーイルは、自分がまだ生きているのに気が付いた。
しばらく気を失っていたようだ。
物音がひどく遠い。
おかしい。もしかして、皆死に絶えてしまったのか。ロードヴァン城は魔獣たちに支配され、自分は生きている最後の人間になってしまったのか。
そうではなかった。
人の声が聞こえる。生きている怪我人を探しているようだ。見込みのある者には手当もしているようだ。
そんなことをするゆとりがあるということは、城の中に入り込んできた魔獣たちは撃退できた、ということだ。
ニドは体を動かそうとしたが、体は言うことを聞かない。しばらく無駄な努力をしたあと、あがくのをやめた。
耳はまともに聞こえないし、体は少しも動かない。ところが不思議なことに、痛みはまったく感じない。すべての感覚はぼうっとして、奇妙なぬくもりさえ感じる。
これはおかしなことである。なぜなら、ニドは全身に傷を負っている。背骨は折れ、内臓はつぶれているはずなのだ。
——これが話に聞くヤンエロの恩寵か。
人が死ぬとき、その功罪を取り調べて処遇を決めるあいだ、正義と真実の神ヤンエロはすべての苦痛を取り去るという。苦しみから解放された自由さのなかで、人はおのれの一生を振り返るのだ。
——悪くない死に方だ。
〈鼻曲がり〉ニドは、そう思った。
2
ユーイル家は、ゼンブルジ伯爵家の子家の中でも、ごく小さい規模の家だ。領地はなく、財産も家臣も少ない。
しかし代々のユーイル家当主は、武勇と忠誠で王国に名を轟かしてきた。ニドの父も祖父も王直々の褒詞を受けたことがある。それはユーイル家の名誉の歴史の中でもことさらに輝かしい一幕だ。
ニドも幼少のころから武芸と学問をたたき込まれた。
当初ニドはバリアンクィズガルに仕えるのだと思っていた。しかしバリアンクィズガルが家を出たため、その弟であるサワリンクィズガルがトード家の当主となってゼンブルジ伯爵を嗣ぎ、騎士に叙任されたニドは伯爵に仕えることとなった。
伯爵は、才気煥発というわけではなかった。しかし身近に接してみると、思慮深いあるじであり、必要なことを怠りなく進めてゆく、模範的な領主だった。
ニドはこのあるじに仕えることを誇りに思い、あらゆる災厄からあるじを守れる働きができるよう、神々の中の神コーラマに毎夜祈った。
パルザム王国は、歴代の英邁な王のもと、いささかの危難を経つつも、順調に領土を拡大し、ますます繁栄してきていた。
ニド自身も、何度か他国との戦いに参戦し、手柄を上げた。
宿敵カリザウ国を平らげたウェンデルラントが王位に就いたとき、ニドは快哉を叫んだ。
それは、ウェンデルラント王が名君の香りをただよわせていたからばかりではない。与党というものをほとんど持たなかったウェンデルラント王子を陰に日なたに扶助しつづけた数少ない勢力の一つがトード家であったことは、隠れもない事実であったからである。
——これからトード家が日のあたる場所に出る。
ニドを始め、トード家の子家や家臣はみな喜びに沸き立った。
ニドは引退した父に代わり、当主の側仕えとなった。
側仕えはもう一人いる。子爵家の跡取り、フスバン・ティエルタである。豪放なニドと几帳面なフスバンは、不思議とうまがあった。フスバンは、爵位持ちの家であることを鼻に掛けることもなく、二歳年長のニドを年長者として立てた。
ある日あるじは、ニドとフスバンを驚喜させる知らせをもたらした。
「今日、王陛下からご内示があった。王子殿下の〈
なんという名誉か。
王の賓客の宿を命じられるとは。
しかもその賓客とは王子殿下の傅であるという。傅というのは、王太子ないしそれに準じる人に王がつける教育係であり、後ろ盾でもある。多くの場合、傅に任じられた騎士は、その王太子が即位したのちも、助言役として重用される。
かつては正式の役職であったのだが、有力な王子にそれぞれ傅が付けられ、傅同志のあいだで凄惨な権力争いが起きるという事態が続いたため、制度としては廃止された。しかし傅と呼ばれるような立場の騎士が軽く扱われるわけはない。
何より、間違いなく王太子となられ、王となられるであろうかたの恩師にあたる人物が王都に足を踏み入れるに際し、その世話役がトード家に任されたということは、王家の信頼の深さを物語っている。そのことを満天下が知ることになるのである。
ニドとフスバンは、屋敷を訪れたバリアンクィズガルに、バルド・ローエン卿をもてなすについての心得を訊いた。
「バルド殿は、一見いかめしくみえるが、その実まことに気の置けないかたでな。従者はないか、いても少数だと思う。あまり格式張ったお迎えはせず、ありのままのところで、こじんまりとおもてなしするのがよいな」
ありのままでと言われたが、王の賓客をおもてなしする最低限の準備はしなくてはならない。
ニドとフスバンは、侍従長と相談を重ね、別棟を改造し、庭の造作に手を入れ、調度などはすっかり入れ替え、使用人を選抜し、準備を進めた。
やがてロードヴァン城におもむいた王子から使者が発せられ、バルド・ローエン卿の到着予定が知らされた。トード家では準備万端を調えて、この賓客を迎えたのである。
——これは、武人だ。
それがバルド・ローエンに対する第一印象である。
ニドも食事を共にする機会があったが、バリアンクィズガルのいう通り、飾らない気質の持ち主であり、子どものように無邪気に食事を楽しんでいた。
歴戦の武人の風格と天真爛漫な表情が同居する不思議な人物であり、陰湿さをまったく感じさせないところにニドは安心した。
バルドが到着して数日たったある日、ニドはあるじから衝撃的な言葉を聞かされた。
「今夜、ジュールラント王子がこの屋敷にみえられる。その場で王子を殺せ」
3
聞き間違いかと思った。
だが、そうではなかった。
ニドもフスバンも、まったく理解ができず、王子弑逆という凶行のわけを問いただした。
だが伯爵は、熱に浮かされたような目つきで、
「殺さねばならんのだ。王子を殺さねばならんのだ」
と言うばかりだった。
いったいどんな恨みが王子に、あるいは王家にあるというのか。
王子を殺したあと、誰が王の後継者となるのだろう。
この家はどうなってしまうのだろう。
「伯爵様。王子殿下を弑し奉ったのち、この家はどうなりましょうか」
「分からん。罰せられるだろう。だが、王子を殺さねばならんのだ」
ニドは一瞬、自分の子を次の王にしたい王族とあるじは手を組んだのではないか、と思った。
だが、かりにそうであるとしても、自邸を訪れた王子を暗殺などしようものなら、どんな高位の貴族にもかばいようがない。主立った者は極刑に処せられ、家は取りつぶされる。どう考えてもこの凶行がトード家のためになるとは思えない。
つまり、利益のためではなく、それどころか恐ろしい懲罰が待っていることを承知で、あえて伯爵は王子を殺そうとしているのである。
——それほどの恨みを、いったいいつのまにわがあるじは心に抱くようになったのか。
気付かなかった。知らなかった。
だがトード家当主の側近として、知らなかったでは済まされない。知ることを怠った責めが、今まさに降りかかっている。
「お前たちも協力してくれるであろうな」
何と答えればよいのか。
肯定すれば、待っているのは地獄だ。
ニドは死ぬことになる。家族も汚辱の中で処刑されることになる。
だが、しかし。
大恩あるトード家当主にこの秘密を明かされ、それに背を向ければ、祖先たちの名誉を踏みにじることになる。
どうすればよいのか。
何と返事すればよいのか。
いや。
考えるまでもない。
始めから返事は決まっている。
「どこまでも、お供つかまつります」
崖から飛び降りるような心持ちで、そう口にした。
「私も同じです」
隣で頭を下げているフスバンの言葉が、ひどく乾いて聞こえた。
あとは伯爵を信じるしかない。この暗殺に何らかの大義があることを。自分たちの死後その大義が明らかになって、おのれと家族の名誉が取り戻せることを。
あわただしく、秘密裏に、王子暗殺の準備は進められた。
秘事は知る者が少なければ少ないほどよい。結局、計画の全貌を知る者は、伯爵と、ニドと、フスバンの三人だけとし、九人の子飼いの兵士には隠し部屋にクロスボウを持って待機させ、仕切りの壁が落ちたら正面の貴人を射殺すよう命じた。
侍従長は、密談の間に王子を案内するようにという指示に驚いた。何しろ椅子さえない部屋なのだ。椅子を置きましょうかと訊いてきたが、そんなものがあれば邪魔になる。
「ローエン卿と秘密の談義をする短い時間だけ、密談の間をお使いいただく。椅子は置かぬほうがよい。これはご当主からの指示だ」
侍従長は納得はしていないようだったが、命令にはうなずいた。
そしていよいよ王子が到着した。打ち合わせの通り、密談の間に案内させる。
ニドとフスバンは案内役に回らなかった。王子の護衛には凡庸な騎士は選ばれない。この身にまとう殺気を感知されないとも限らない。ぎりぎりの瞬間まで、顔は見せないほうがよい。これは伯爵にもいえることである。
いっそ王子が部屋に入るなりクロスボウを射掛けさせてもよいのだが、残念ながら仕切りの壁を落とすための仕掛けは、部屋の中に入らないと操作できない。それにクロスボウでし損じたときには剣でとどめを刺さなくてはならないから、やはりニドもフスバンも部屋の中に入っておかなくてはならない。
「伯爵は部屋の外でお待ちください」
と提案はしてみた。
「馬鹿な。わしが首尾を見届けずにどうするのか。それに、わしが部屋に入らずお前たちだけが剣を持って部屋に入るのは不自然すぎる」
という答えが返ってきた。
もっともな答えであり、勇気ある答えである。
さて、王子と重鎧の護衛二人が密談の間に入った。すかさず伯爵とニドとフスバンも部屋に入ろうとしたが、扉の外に残った護衛に止められた。
「バルド・ローエン卿のご到着を待って部屋に案内し、そのあとでご入室ください」
それでは部屋の中に邪魔者が増えてしまう。だがはっきりと指示された以上、従わないわけにもいかない。
バルドと息子のカーズがやって来た。カーズは見るからに手練れだ。できればこの場にいてほしくなかったが、致し方ない。
カーズは帯剣のまま入室しようとしたので、伯爵がこれをとがめた。だが部屋の中にいた王子が騒ぎを聞きつけ、カーズに帯剣の許可を与えた。
まずい。
部屋の中の護衛は厚い鎧を着て帯剣している。カーズも帯剣するとなれば、腕利きの敵三人が帯剣していることになる。
バルドとカーズのあとに続いて伯爵とニドとフスバンも入室しようとした。するとニドとフスバンの帯剣を扉の前に立っていた護衛がとがめた。
伯爵は猛然と抗議してみせた。
「無礼であろう!
わが家にお越しの貴顕をお守りするのに、わが家の騎士が剣を持たずになんとする!」
必死の抗議である。その必死さが功を奏したのか、一名だけ帯剣が許された。
ニドとフスバンは目線を交わした。フスバンがニドにうなずきかけ、自分の腰の剣を外す。ニドは帯剣したまま入室した。そしてフスバンが扉にかんぬきをかけた。
「何をする!」
護衛の騎士が声を上げ、部屋は一気に緊張した。
「殺せ!」
伯爵の命を受け、フスバンは扉横のろうそく立てを思い切り押し込んだ。すると仕切り壁が掛けた絵ごと落ちて、クロスボウを構える九人の兵士の姿が現れた。
ニドは、ぴたりと壁に寄り添った。伯爵もフスバンも同じようにしている。
九人の兵士は矢を放った。その矢は王子に殺到し、その命を奪うはずである。
視線を転じたニドは信じがたいものを見た。
王子の正面にバルドが後ろ向きに立ち、体を大きく広げて飛び来る矢を背中で受け止めているではないか。
そして王子の両脇に立つ重鎧の護衛騎士二人が剣を振り上げ、王子に振り下ろそうとしている。
——何だ? 何が起こっている?
そのとまどいが、ニドの行動をわずかににぶらせた。
カーズが走り込んでジュールラントを蹴り飛ばし、二人の護衛騎士を斬った。
重鎧ごと切り裂いたのである。信じられないような腕であり、剣だ。
蹴り飛ばされた王子はといえば、正面の壁に激突するかと思いきや、タペストリーが大きく両側に分け広げられ、その奧の空間に飛び込んだ。
——いかん! 王子に逃げられてしまう。
ニドは剣を抜いて王子に走り寄った。そのニドの行く手をふさぐ者がある。
バルドだ。
すさまじい威圧感を放っている。しかし丸腰である。
——どけ!
ニドは振り上げた剣をバルドにたたき付けた。
すると、あろうことか、バルドはニドの剣を左手で受け止めた。
——馬鹿な!
驚愕するニドの鼻面に、バルドの右こぶしが炸裂した。
そしてそのままニドは気を失ってしまった。
4
目が覚めたときには拘束されていた。
鼻から垂れ落ちる血に応急手当がなされ、ニドは尋問された。
「なぜ王子殿下のお命を縮め奉らんとした」
伯爵の命だと正直に答えた。それ以上のことはしゃべりようもなかった。
ニドは目隠しをされて移動させられた。
連れて行かれた場所は、おそらく、いや間違いなく王宮の牢だ。
何度も尋問されたが、伯爵の命だということ以外、何も話すことはなかった。
鼻の治療はみずから断った。鼻は右に折れ曲がったまま固まってしまうだろう。それでよかった。
伯爵はどうなったのだろう。フスバンはどうなったのだろう。家族はどうなったのだろう。
伯爵とフスバンは生きているかもしれないが、間違いなく死刑に処せられる。もちろんニド自身も極刑を免れない。
こうなってみると、王子を殺し損ねたのが残念でならない。
なぜ王子が死なねばならないのかは知らない。
だが、伯爵は、命と名誉と家とを捨ててまで王子の命を狙った。そうしなければならない何かがあの王子にはある。
近衛騎士までが王子の命を狙った。これは尋常な事態ではない。
忠義厚い近衛騎士が命を狙うような何かが、あの王子にあるのだ。この国に災いをもたらすような何かの秘密が、あの王子にあるのだ。
憎んでも憎みたりないのは、バルド・ローエンである。
バルドが邪魔をしなければ、王子の命は奪えていたはずなのだ。
バルドのせいで、伯爵もニドもフスバンも、無念のうちに死なねばならない。王子を討ち果たすという使命を果たせずに死んでいかねばならない。
ニドは薄暗い牢獄の中で、来る日も来る日もバルドを呪った。
そうして数か月がたったある日、ニドは審問官に呼び出された。
王陛下が身罷られ、ジュールラント王子が即位するため、大赦が発せられることになるという。大赦にともない、ニドは死刑から労働刑に減じられると審問官が告げた。
だがニドはそれを固辞した。
今のニドには極刑をあえて受ける以外、身の処し方はない。
何度か説得を受けたが、ニドはただ死刑のみを望んだ。
ある日、ニドはまたも尋問室に呼び出された。
そこに待っていたのは審問官ではなかった。
フスバンがそこにいた。
この同僚の顔を見るのは、あの夜以来初めてである。
そして忘れようはずもない老人がそこにいた。
バルド・ローエンである。
5
驚いたことにバルドは審問官や牢番を顎で使っている。彼らの態度は至極丁寧であり、バルドが高位の身分を得たことを感じさせた。
いったい何が起きたのか。
その答えは、バルド自身から明かされた。
「わしは中軍正将に任じられた」
中軍正将!
その座は軍人の最高峰といってよい。どうしてこの老人が、そのような高位にのぼったのか。
「ニド殿。フスバン殿。死刑を望んでおるそうじゃな。じゃが、それは命の捨て所を間違っておる」
——貴様に何が分かる! 貴様こそ俺の命の捨て場を奪った人間ではないか!
ニドは憤怒の目でバルドをにらんだ。目線で人が射殺せるなら、このときニドはバルドを殺していたろう。
「今、未曾有の危機がパルザムを襲おうとしておる。ニド殿。フスバン殿。わしに従え。わしに従い強大な敵と戦って死ね。パルザムの民衆を守って死ね。しかしてトード家の名誉に花を添えよ」
この言葉はハンマーのようにニドの脳髄を打ち据えた。
戦って死ね。
強大な敵と戦って死ね。
パルザムの民衆を守って死ね。
トード家の名誉に花を添えよ。
それは何という強烈な言葉か。
——戦って死ぬことが許されるのか。しかもそれはパルザムの民衆を守る戦いなのか。しかも、しかも。もはや地に落ち泥にまみれたと思ったトード家の名誉を、わずかでも回復させることができるというのか。
その言葉には逆らいようのない魅力があった。
思わずニドは床に片足を突き、バルドに跪拝し、
「あなたのもとで命を捨てます」
と誓ったのである。
フスバンも同じように跪き、
「その死に場所に私をお連れください」
と言った。
「ではついてまいれ」
「お待ちください」
ニドとフスバンを連れ出そうとしたバルドを審問官が止めた。二人は軍役刑に切り替えればバルド将軍に引き渡せるが、即位式はまだ先のことであり、実際に大赦が発せられ手続きが済むまでは牢から連れ出してもらうわけにはいかない、というのである。
「人形でも入れておけ!」
バルド将軍のたんかは心地よかった。
それからしばらくニドとフスバンは、バルドの秘書を務め王宮内を走り回った。
居心地のよい役割とはいえなかった。王宮の者たちにはニドとフスバンの罪状を知っている者もいて、陰で噂を立てた。ニドとフスバンには冷たい視線が突き立った。
だがやがてアーゴライド家のナッツ・カジュネルがニドとフスバンに代わってくれた。ニドでさえ名を知るこの騎士を、どうやってバルドはアーゴライド家から借り受けたのだろう。
それからはニドとフスバンは、資料のまとめや物品の管理にあたった。
ずっと王宮の部屋で過ごせるよう、バルドが計らってくれた。
トード家に帰るか、とは一度も聞かれなかった。そのことがありがたかった。
やがて準備の時間は終わり、ニドとフスバンはバルドについてロードヴァン城に向かったのである。
6
ロードヴァン城では数々の驚きがニドを待っていた。
最初の驚きは、バルドとジョグ・ウォードの決闘である。
このときニドは心の中でバルドを応援した。
バルドに対する憎しみが収まったわけではない。その憎しみは消えない炎となって、今でもニドの胸の奥で燃えている。
だが、それとこれとは別である。
三国協同部隊の指揮権は、パルザム王国王直轄軍中軍正将たるバルド・ローエン卿が務めることに決まっているのである。
ガイネリアごときの将軍がその座を狙い、指揮権を賭けて決闘を挑むなど、許されざる横槍である。
ただし実際に武器を持って戦うとなれば、バルド将軍には分が悪いといわねばならない。指揮官としての能力はともかく、バルドはもう老人である。若く見るからに精強なジョグ将軍と戦って勝ち目があるとは思えない。
それにしても、バルド将軍の武器は異常である。その大剣を王宮の武器庫で発見したのはニド自身なのだが、正直、ニド一人では引きずらずに持ち運ぶことも難しい重量であり長さだ。
——あの老齢では、この剣を持ち上げることもできまい。いや、バルド将軍が若かったとしても、とてもこの剣を振るって戦うことなどできはしない。これは実際に戦いに使うような剣ではないのだ。
バルドの従卒のジュルチャガとともにバルドに鎧を着せ付けながら、ニドははらはらしていた。
果たして鎧を着け終えたバルドは愛馬にまたがった。
——お?
バルドの馬であるユエイタンは巨馬である。
ユエイタンにまたがる姿はこれまでもさんざん見てきている。
しかしながら、闘気をまとい全身鎧に身を包んでユエイタンの背で堂々と敵手と相対した姿は、また別物であった。
——なんという、なんという風格か!
フスバンが大剣をバルドに渡そうとしたが、あまりに重すぎ、一人では馬に乗ったバルドの手が届く高さに持ち上げられない。すかさずニドが手を貸した。
そしてニドとフスバンは鞘を引いた。引いたのはよいが、完全に鞘が抜けたとき、バルドは一人でこの剣を持つことができるのだろうか。
鞘が抜けた。
バルドは剣を取り落とさなかった。取り落とすどころか、こともなげに持ち上げ、肩の上に担ぎ上げてしまった。
——おお! おお!
ここにきて初めて、バルドが尋常ならざる武威の持ち主であることをニドは知った。
あの失敗に終わった暗殺の夜、飛び交う矢を背に受け、ニドの渾身の一撃を防いだバルドを見たときから、ただ者でないことは分かっていた。
分かってはいたが、これほどのものとは思わなかったのである。
だが尋常でない武威を持つのは、相手のジョグ将軍も同じだった。
バルド将軍の大剣にも負けないほどの黒い長大な剣を振り回してジョグ将軍は襲いかかってきた。
あとになってニドは、ジョグ・ウォードが〈暴風将軍〉というあだ名を持つことを知るのだが、このときのジョグはまさに暴風そのものだった。放つ闘気のすさまじさは、歴戦の騎士であるニドをして震え上がらせるほどのものだったのである。
そのときのバルド将軍とジョグ将軍の激突は、この世のものとも思えない激しさだった。
かくしてニドは、いやそこにいたすべての騎士たちは、バルド将軍とジョグ将軍という辺境出身の二人の騎士が、ともに不世出の武人であることを知ったのだ。
7
勝負はバルド将軍の勝利に終わり、指揮官の座はゆるぎないものとなった。
あきれるばかりの大力と技と人馬一体の呼吸を、この老騎士は持っている。
それからニドとフスバンはバルドの側近として、というより秘書官として走り回った。
なかには騎士のするような役割ではない伝令もあったが、体を動かしているほうがよかった。
バルドは不思議なことに、荒くれ者ぞろいの辺境騎士団の騎士たちから慕われており、また、ゴリオラから来た騎士たちの指揮官である、ひどく身分の高い騎士からも尊敬を受けていた。ジョグ将軍も、敗北のあとはバルド将軍に逆らわなかった。
かくしてバルド将軍は全軍を見事に掌握し、襲いかかる敵への備えを固めていった。
だが、実際に魔獣の襲撃があるまでは、ニドは正直敵をなめていた。
これだけの騎士がそろっていて、これだけの堅固な城で戦うのなら、どう考えても負けるわけがなかった。
いや、むしろ打って出て敵を見つけ出し、一刻も早く殲滅するべきではないかと考えた。
このときのニドは、魔獣といえどたかが獣ではないか、としか考えていなかった。
だがいざ魔獣の襲撃が起きると、自分の考えの甘さを知った。
どのような攻撃を加えようと、やつらはひるむことを知らない。
突いても切っても強力な弓で射ても、やつらは死ぬどころか、ほとんど傷も受けない。
そしてやつらの一撃は、鎧をまとう騎士を簡単に殺してしまう。
こんな理不尽な敵は初めてだった。
しかもその数たるや、津波のごとくである。
だが、それでこそよかった。
この敵を放置すれば、確かに中原の民衆は殺し尽くされてしまう。
たとえ命と引き換えにしてもこの敵を殺すことこそ名誉である。
騎士の園で神々に賞されるにふさわしい手柄である。
強大な敵と戦える幸せに、ニドは奮い立った。
しかしその歓喜はやがて恐れとみじめさにとって代わられた。
通用しないのである、ニドの攻撃は。
どうすれば、この魔獣どもを殺せるのか。
そんなとき、バルドの戦いぶりを見た。
一撃で魔獣を葬り去る戦いぶりを見た。
——バルド将軍を生かすのだ。それが魔獣を殺す道だ。
バルドは攻撃力は高いが、防御は普通の騎士である。
ニドはバルドの背中を守り、四方に目をやって魔獣の攻撃からバルドを守った。
いつのまにかフスバンも同じことをしている。
だが戦いは混戦の様相を来たし、いつ果てるともない戦いに、ニドの集中力も切れてきた。
そんなとき、シロヅノの魔獣がバルドの背後から突きかかるのを見た。
——もう魔獣の注意をそらすのは間に合わない!
ニドはバルドを突き飛ばし、自らが魔獣の正面に立とうとした。
だが魔獣の突進はとてつもなく速く、一歩間に合わない。
そのときフスバンが魔獣に突進した。
そのままフスバンは魔獣の頭から突き出したハンマーのごとき角により地に打ち付けられ、踏みつぶされたが、一瞬の時間をかせいでくれた。
その一瞬を利用してニドはバルドを突き飛ばすことができた。
そのままニドは魔獣の角に吹き飛ばされた。
鎧が砕け、内臓がつぶれ、背骨が折れるのを感じた。
意識を失う寸前、カーズ・ローエンが飛び込んできてシロヅノの首を落とすのを見たような気がする。
8
「おい、ニド殿! 〈鼻曲がり〉殿! しっかりしろ。勝利だ。俺たちは勝ったのだ」
誰かがニドを揺さぶっている。
ニドは薄く目を開けたが、揺さぶっている者の顔は判別できなかった。
だが、声は聞こえた。
〈鼻曲がり〉というのは、ロードヴァン城に来てから、辺境騎士団の騎士たちから奉られた名前だ。
バルドになぐられて折れ曲がった鼻を、ニドはそのままにした。
牢にいたとき手当をしてやろうと審問官は言い、医者を連れてきたのだが、治療は断ったのだ。
意地になっていたのかもしれない。
折れ曲がった鼻は、ニドが自分で自分に付けた反逆者の焼き印だったのかもしれない。
いつのまに、〈鼻曲がり〉というあだ名が気に入ったのだろう。
今はなぜかその呼び名が誇らしい。
誇らしいだけでなく、その呼び名を呼ぶ者たちが、親しみとなにがしかの畏敬を込めてそう呼んでくれているのが感じられ、うれしい呼び名だと感じるようになった自分がいる。
にやりと笑って、ニドは死んだ。
(おわり)2014.5.23
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