テンペルエイドの航海

大陸暦4307年のある日






1


「起きろ、こら」


 テンペルエイドが太ももを蹴飛ばすと、ガルクス・ラゴラスは目を覚ました。

 船縁ふなべりに背を預けてうたた寝していたのだ。


「眠ってなどおりません。

 いささか思案をしていたのです」


 そう言いながらガルクスが立ち上がろうとした瞬間、船が大きく揺れた。

 テンペルエイドは難なくバランスを取ったが、ガルクスは足をもつれさせた。

 それでも倒れるようなぶざまなまねはせず、二、三歩足を送って踏みとどまった。

 腰に吊った剣が大きく揺れる。

 二十年前、テンペルエイドが剣匠ゼンダッタに頼み込んで鍛えてもらった逸品だ。

 以来ガルクスはどこに行くにもこの剣を手放さない。

 先週の河賊退治では、親玉の頭を唐竹割にしていた。

 兜ごとである。

 並の剣と腕でできるわざではない。

 それでも十年前なら少々疲れたからといって居眠りなどしなかったし、わずかな揺れでふらつくこともなかった。


——この男も年を取った。


 ふいにテンペルエイドは思った。

 今こそ南征を行うべきではないかと。

 そのことは、この二十年いつも頭にあった。

 だが、そのたびに、まだ機が熟していないと思いとどまってきたのだ。


——だが、今行かねば、もう行くことはできぬかもしれん。


 テンペルエイドは今年四十八歳になった。

 ということは、ガルクスは五十七歳であり、もうとうに引退していてよい年なのだ。

 南征は、おそらく一年や二年ではできない。

 五年、あるいは十年もかかる旅になるかもしれない。

 そういう無謀な冒険に船と人と食料を出すだけの豊かさが、今のアギスにはある。


——生きているうちに世界の果てを見たい。

 そのとき俺の供をする者は、こいつ以外に考えられん。


「おやじ。

 進路はアギスに向けたぜ。

 それでいいんだな」


 後ろでハストエイドが言った。


「うむ」


 振り返って返事をしながら、ハストエイドを見た。

 その横には、クラムエイドとタベルエイドがいる。


——問題は三人の息子たちのうち、誰を連れて行くかだな。


 いよいよ南征に乗り出すなどといえば、三人とも絶対について行くというに決まっている。

 だが帰って来れないかもしれない旅なのだ。

 跡継ぎ全員を連れて行くわけにはいかない。

 長男のハストエイドを残すのが順当であり、最も安心なのだが、この男は置いていくなどといえば、剣を取って反抗しかねない。

 荒々しい気性であり、冒険にはこれ以上なく向いた性質をしている。

 悪いことに、本人もそれをよく知っている。


 ノーラが留守を守ってくれるのだから、クラムエイドとタベルエイドを残していっても、さほど心配はないだろう。

 クラムは十八歳、タベルは十六歳であり、未熟ではあるが、逆に未来は長い。

 第二世代の家臣たちも育ってきているから、ここらで責任を持たせるのもよいかもしれない。

 ガルクスの二人の息子、アルダとスクーザが支えてくれるだろう。


 ただしアルダもスクーザも、留守番はもうこりごりだと言っていた。

 この航海が終わったら、親父が館に残って俺たちが船に乗る、と決め込んでいたから、留守番をさせるには、相当強く言い含めなければならない。


 そもそも、ノーラがどう出るか、心配だ。

 おとなしく留守番をしてくれるだろうか。

 私を連れて行かなければ金は出さない、などと言い出しはしないだろうか。


 困ったことに、誰も彼もが冒険好きだ。

 〈冒険伯〉テンペルエイドの家族や家臣としては、これ以上なくふさわしいのかもしれないが。


 自分では〈冒険伯〉などと名乗った覚えはないのだが、自領の民も、リンツやパデリアやトライの人々も、なぜかテンペルエイドをそう呼ぶ。

 伯爵を自称するようになったのが十年前のことだ。

 そのときから〈冒険伯〉と呼ばれている。

 いったい誰が考えた呼び名なのだろう。

 今や〈冒険伯〉の名はオーヴァの守り神のように口にされ、商船は〈冒険伯〉の旗を掲げる。

 そうすれば賊も恐れをなすと信じられているのだ。





 2


 ノーラフリザ姫を妻に迎えたのは、大陸暦四千二百八十七年のことだ。

 バルドに妻の世話を頼んだのだが、まさかゴリオラ皇国の伯爵の姫などが輿入れしてくるとは、夢にも思わなかった。

 だが、ノーラは素晴らしい妃だった。

 美しく聡明であることももちろんだが、小国が買えるほどの持参金と、三百人におよぶ家臣団を引き連れて嫁入りする姫など、ほかのどこにいるだろう。

 ノーラはやり手だった。

 やり手すぎてゴリオラの貴族たちの利権を鼻先でかすめ取るようなまねをしたからこそ、アギスなどという辺鄙な土地の素性も分からない貴族のもとに嫁いでくることになったのであるが。

 テンペルエイドは妻と同志を同時に手に入れたようなものだった。 

 しかもノーラはドリアテッサの従妹であり、二人はフューザリオンとアギスが互いに発展するため、絶妙の呼吸をみせた。

 ガルクスも、ノーラの侍女の一人と結婚したのである。


 アギスはオーヴァのほとりにみなとを築いた。

 フューザリオンはアギスまで広い道路を作り、また、リンツから中型船を購入した。

 それをアギスに貸し与え、貿易をはじめさせたのである。

 テンペルエイドとガルクスは、押し出されるように船でオーヴァに乗り出した。


 それは素晴らしい世界だった。

 船の冒険は、テンペルエイドの気質に合っていた。

 ありがたいことに、ノーラの連れて来た家臣団の中には船大工がいた。

 皇都近辺の湖を走らせる小型船しか作ったことはなく、時に暴風が吹き荒れるオーヴァを渡る船を作るには研究が必要だったが、リンツから買い入れた船が教科書となった。


 ノーラは大型船を作りたがったが、テンペルエイドは違う意見だった。

 やたらに多くの荷を積めても、船足の遅い船では役に立たない。

 とにかく高速の船を作ることをテンペルエイドは求めた。

 十年後、それが正しかったことが証明される。

 フューザリオンが貿易に乗り出すと、リンツもパデリアも競い合うように多くの貿易を求めた。

 ゴリオラ皇国も新たにみなとを築いた。

 そうすると、商船を襲う河賊がはびこるようになった。

 彼らに対抗するには、高速船こそが有効だったのである。

 もっともそうなるまでには少なからぬ苦労があった。

 アギスとリンツのあいだの広大なオーヴァは、まったく未知の世界であった。

 見たこともないような亜人の住みかもあったし、巨大な水棲の獣にも襲われた。

 その冒険を経て、アギスはオーヴァに君臨する水の上の帝国を築いていったのだ。


 そうして名を上げ財をなした今、テンペルエイドの心には、あることが引っ掛かっている。

 それは、オーヴァの南には何があるのか、ということである。

 オーヴァの南には、三つの大領主領がある。

 大陸中央側にもいくつもの国がある。

 それらの地方で採れる香辛料は大陸中央では非常に高価であり、リンツを経由して売買することで、アギスも莫大な利益を得てきた。

 だが、確認されているのはそこまでだ。

 ずっと南には、人が踏み入ることのできない密林があるといわれている。

 では、その向こうには何があるのだろう。

 踏み込めない密林といっても、それは陸地の話であり、水路を進むならどうか。

 それをいつの日か確かめたいと、ずっとテンペルエイドは思っていた。

 いつの日か、南征を。

 それはテンペルエイドの悲願であるといってもよい。


 なぜテンペルエイドは南征にあこがれるのか。

 かつてバルドから、こっそり教えられたことがあるのだ。

 〈大障壁ジャン・デッサ・ロー〉の外に何があるのかを。

 飛竜に乗って大障壁の外を見たのだと、バルドは言った。

 テンペルエイドの心には、バルドが語る外の世界が焼き付いた。


 大海ユーグよ!


 見渡す限りどこまでも続く塩辛く青い水の世界。

 その感動は見た者にしか味わえないという。


 ああ!

 ああ!

 ユーグよ。


 テンペルエイドは、ユーグをその目で見たいと思った。

 しかし飛竜を呼び寄せることも、その背に乗って飛ぶことも、人間にはできない。

 では、人間は決してユーグを見ることはできないのか。

 バルドがぽそりとこう言うのを、テンペルエイドは聞き逃さなかった。


「オーヴァの南の果てには、何があるのかのう」


 考えたこともない問いだった。

 オーヴァの南の果て。

 オーヴァはどこまでもオーヴァなのではないか。

 いや。

 そうではないかもしれない。

 オーヴァを流れる水の量はまことに想像を絶するほどの量である。

 その膨大な水は、すべて下流に流れている。

 下流にいくほど、いくつもの支流が流れ込み、オーヴァは太る。

 下流にいくほどオーヴァは広大さを増すのである。

 では、その水はどこに行くのか。


 そして、大障壁。

 大障壁は、陸地をくまなく取り巻いている。

 だが、オーヴァの上は、どうか。

 はるか下流の恐ろしく広大なオーヴァの上を、支えるものもなく大障壁が走るというような、そんな理に合わない話があるだろうか。

 また、大障壁がオーヴァをさえぎっているならば、流れ着く水はそこでせき止められ、世界は水浸しになっているはずではないか。


 もしかすると。

 もしかすると、オーヴァの上では大障壁は途切れているかもしれない。

 だとすれば。

 だとすれば。

 オーヴァを下ってゆけば、ユーグに出られるのではないか。

 ユーグに出られたならば、その向こうにある果てしない世界を冒険できる。

 他の大陸にさえ、行き着くことができるかもしれない。

 その思いはテンペルエイドの胸に住み着き、離れることがない。

 南征こそ、テンペルエイドの最後にして最高の冒険となるだろう。





 3


——今、シェサ領は、どうなっているだろうかなあ。


 四千二百七十八年に、フューザリオンの西側に移住してきて以来、振り返ることのなかったふるさとのことを、最近時々想うようになった。


 シェサ領はボーバードのずっと南側にある小さな領地だ。

 街というより大きな村というのがふさわしい。

 だが幼いころには、それが世界のすべてだと思っていた。

 テンペルエイドはその領地の領主の長男であった。

 だが、テンペルエイドの実母は、テンペルエイドの弟に領主を継がせたがった。

 だからテンペルエイドは死んだふりをしてシェサ領を捨てたのである。

 偽装を見破りテンペルエイドについてシェサを捨てた物好きな騎士が、ガルクス・ラゴラスである。

 その出奔を助けてくれたのがバルドだった。


 テンペルエイドは霧の谷の東北にあるアギスという小さな村にたどり着き、妙なことにその領主となった。

 だがテンペルエイドの生存は母の知るところとなり、母は刺客を差し向けた。

 領主としての責任と、母への孝とのあいだで煩悶するテンペルエイドに道を示してくれたのは、またもバルドだった。

 バルドの勧めに従い、アギスの村人を連れて、はるか北方の現在地に新生アギスを築いたのである。

 そこは別天地というべき豊かな土地で、テンペルエイドは忙しく厳しい開拓生活に明け暮れながらも、心からの安心を覚えた。


 アギスとテンペルエイドの転機となったノーラ姫との結婚も、バルドの世話によるものである。

 考えてみれば、いや、考えなくても、バルドには恩がある。

 厚く果てしない恩がある。

 できれば結婚式には出てほしかったのだが、あいにくバルドは旅に出ていた。

 旅先で、また誰かを助けているのだろうか。

 テンペルエイドや、ほかの人々を助けてきたように。


 結婚から二十年が過ぎた。

 最後にバルドと会ってから二十年が過ぎたということでもある。

 今度の旅はずいぶん長い旅のようだ。

 今もバルドは、カーズとジュルチャガを連れ、北部辺境を旅しているに違いない。


 そうだ。

 今もきっと、バルドは旅を続けているのだ。


 バルドは北に行った。

 テンペルエイドは南に行く。

 その二つの旅は、新しい世界を切り開くものとなるだろう。


——バルド殿。

 よい旅を。


 はるかフューザに向かって、テンペルエイドは祈った。






(おわり)2014.5.21

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