エトナの祈り(書籍第1巻特典付録)

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本作品は、2014年3月26日に株式会社KADOKAWA様より刊行された『辺境の老騎士』第1巻(企画・製作:エンターブレイン)の特典付録として刊行されたものです。すでに相当の時間も経過したことであり、webで公開させていただきます。(2019.1.4著者)

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[エトナの祈り]



 エトナは祈る。

 毎日二度、朝起きたときと夜寝る前に、許しと癒しの女神スウェン=コ=エルに、エトナは祈りを捧げる。

 夫と子どもたちと、父の健康を、その日その日の出来事を祈る。お店のパンが大勢の人に喜んでもらえますようにと祈る。

 そしてさらに、エトナは祈る。

 〈どうかあのおじいさんにもう一度会わせてください。そしてお礼を言わせてください〉


 1


 エトナは、辺境の小さな街に生まれた。両親とは早くに死に別れ、伯父に育てられた。

 伯父は腕のよい料理人で、その街のガンツ(宿兼食堂)で働いていた。エトナも小さいころから、掃除をしたり、料理を運んで仕事を手伝った。つらいと思ったことなどない。お客さんの笑顔を見るのが大好きだったからである。

 「学校に行きたいか?」

 と、伯父に訊かれたとき、初めは冗談かと思った。

 ううん、とエトナは首を振った。

 本当は学校に行きたかった。けれどもそれはとてもお金のかかることだ。辺境には学校などないのだから、オーヴァ川を渡ってパルザム王国の街に行くことになる。そんなことは夢のまた夢だ。

 だから半年後に届いた入学許可証を見せられたときは、うれしくて泣いた。

 〈いったい伯父さんは、いつから貯金してくれてたんだろう〉

 それは分からない。分からないほど昔から、伯父さんはエトナのことを思い、エトナのことを考えて、一生懸命働いて、貯金をしてくれていたのだ。

 そしていよいよ出発の日が来た。

 ところが、なんということだろう。

 あのならず者どもがやって来たのだ。学校に行く前に半年ブランドー家で奉公しろといって。エトナは家の出口で、ケイネン・ブランドーに手をつかまれてしまった。

 〈だめ。連れていかれたら、ひどい目にあわさせる。ううん。それはいい。でも、伯父さんがせっかく手に入れてくれた入学許可証がむだになってしまう〉

 だが、どうにもならない。エトナは絶望した。

 そのときだった。

 その人は現れた。昨日から泊まっていた老人だ。革鎧を着て剣を持っていた。老人は、ブランドー一家の三人のならず者をまったく恐れていないようだった。老人がならず者たちを何とかしてくれるかもしれない。そう期待したとき、ジェロニムス・ブランドーが、老人の後ろから短剣を投げつけた。

 〈いけない!〉

 ところが、なんということか。老人は振り向きざまに剣を抜き、飛んで来た短剣を打ち落としてしまったのだ。

 これにはならず者たちもあっけにとられた。

 老人は、目でエトナの伯父に合図をした。エトナを連れて逃げるようにと。

 エトナは夢見心地のまま、伯父に手を引かれてガンツを出た。そして、馬車に乗って出発した。手を振る伯父に、エトナも泣きながら手を振り替えした。

 リンツから船に乗ってオーヴァを渡り、ミスラの街に着いた。見る物聞くこと新しいことばかりで、夢中になった。

 十三歳のエトナにとって、それは生涯最初で最後の大旅行であり、大冒険だった。

 そしてミスラで落ち着いてから、思い出した。

 〈なんてこと! あたし、あのおじいさんにお礼を言ってない〉


 2


 エトナはジェル叔父の家に住ませてもらった。ジェル叔父は、エトナの死んだ父の従兄弟だ。住ませてもらっているぶん、家事を手伝う。当然のことだ。ジェル叔父の子どもたちだって、いろいろと家の仕事を手伝っているのだ。

 学校は楽しかった。エトナは学校で文字の読み書きを教わり、計算を教わり、国々の古い物語を教わった。詩や歌も少し覚えた。音感がよいと先生に褒められた。

 学校へ行きながらパン屋で働いた。家事と学校とパン屋の仕事を全部するのは大変だったけれど、苦しいとは思わなかった。努力できることがうれしくてならなかった。辺境には、こんな努力をしたいと思ってもできない子がいくらでもいるのだ。辺境だけではない。このミスラにも貧しい人々はいる。ぼろぎれをまとった小さな子が古くなったパンの切れ端をもらいに来るのを見ると、エトナはとてもせつない気持ちになる。エトナは自分が恵まれていることへの感謝を忘れたことはない。今の幸せは、自分の力で生み出したものではないのだ。

 パン屋にしょっちゅう買い物に来る男の子がいる。エトナはその子が買って帰るパンに、こっそり端切れのパンを入れて上げるようになった。不思議といつもいつも、都合のいいときにパンの端切れがあった。親方がそのようにしてくれているのだということは、ずっとあとになって知った。

 男の子はヴードという名前だった。やがてヴードとエトナは、家族の話や将来の話をするようになっていった。

 エトナがミスラに来て二年目のある日、ヴードはエトナに言った。

 「お、俺。騎士様の従者になった。騎士様はコルポス砦に行くんだ。俺、すごく高い給金で雇われたんだ。だから、その」

 ヴードが言いよどんでいる言葉を察して、エトナは真っ赤になった。

 〈け、結婚? この人、あたしに結婚を申し込もうとしてるの?〉

 ヴードはコルポス砦に出かけた。帰って来たらまとまった金が入るという。その金が入ったら、ヴードはエトナに結婚を申し込むのだろうか。確かな言葉はもらえなかったけれど、エトナはそうだと思った。

 そんなエトナを絶望に落とし込む知らせが、ある日届いた。

 コルポス砦から救援の知らせが届き、援軍が派遣されたけれど誰一人戻ってこない、というのだ。

 〈嘘よ。そんな、そんな。そんなの、嘘よ)

 コルポス砦の守備隊は魔獣の群れに襲われて全滅したというような話も飛びかった。エトナはそんな噂は信じなかったけれど、一日も早くヴードに帰って来てほしかった。

 ああ。

 そして。

 そして、ヴードは無事に帰って来た。部隊のみなも無事だ。彼らは魔獣を退け、ミスラの街を守ったのだ。

 彼らは街の英雄になった。その詳しい武勇伝が広まったとき、街は一人の英雄の名を知った。

 パルザム王直轄軍中軍正将バルド・ローエン卿。

 その人は絶望のふちにあったコルポス砦守備隊に勇気を与え、自ら魔獣と戦ってみせ、戦いを勝利に導いたのだという。その人こそ、ヴードの命を助け、エトナの幸せを守ってくれ人だ。

 エトナの祈りは増えた。

 〈いつかバルド・ローエン将軍様にお礼を言わせてください〉


 3


 報奨金は約束以上だった。ヴードはその金を持参金にエトナに結婚を申し込んだ。ジェル叔父は言った。

 「そいつぁあ結構なことだ。だがエトナの親父さんは俺じゃねえ。待ってな。もうすぐ親父さんはオーヴァを渡ってこっちに来るからよう」

 その年の暮れにエトナは学校を卒業した。

 ヴードは領主邸で従卒の仕事を得た。ヴードはエトナに真っ白なパンを持ってきてくれた。領主邸でもらったパンをこっそり持ちだしたのだ。

 それを食べたエトナは衝撃を受けた。世の中にはこんなおいしいパンがあったのか。エトナはヴードを通じて頼み込み、領主邸の厨房に仕事を得た。

 その次の年、エトナの伯父がミスラに出てきた。ヴードは結婚を申し込んだ。伯父のためた金とヴードのためた金を合わせて、パンと簡単な料理を食べさせる店を出した。それから子どもたちが生まれた。

 エトナが辺境を出て八年後、二十一歳になったある日のことである。バルド・ローエン卿がミスラお見えになったという知らせがあった。エトナは領主邸に駆け付けた。

 〈あの人は!〉

 それは懐かしいあの日、ブランドー兄弟からエトナを守ってくれた、あの老人だった。あの老人こそが、バルド・ローエン将軍だったのだ。

 エトナはバルド・ローエン卿にひと言お礼が言いたかったが、熱狂する群衆に囲まれたその英雄に近づくことはできなかった。

 だから今もエトナは朝夕に祈る。

 〈いつかバルド・ローエン卿様に会わせてください、お礼を言わせてください〉

 その願いがかなう日は、遠くない。






(おわり)2014.3.26 

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