カムラーの贈り物

大陸暦4287年2月1日






1


 バルドはもうすぐ旅に出る。最後の旅に。

 そして再びこのフューザリオンには戻って来ない。

 カムラーにはそういう予感があった。

 カムラーの予感はたいてい当たる。

——わしは何をバルド様への餞別にできるだろうか。

 何ができるかといっても、料理のほかにカムラーにできることなどない。

 いや。

 本当にそうだろうか。

 このフューザリオンの未来の姿を。輝かしき希望を。その一端を。

 バルド・ローエンに垣間見せることができるのではないか。

 それは何よりのはなむけとなるだろう。

 カムラーは、にやりと笑った。


2


 カムラーの父は貴族だった。

 母は正式の妻ではなかった。

 母が病気になったとき、父は見捨てた。家にいた使用人たちは、すべて引き上げられ、援助は打ち切られた。

 母が死にかけるころ、家には金も食べ物もほとんどなかった。

 いよいよ母の命が尽きようとするとき、何か欲しい物はないかと訊いた。

 コルコルドゥルの卵を牛の乳の油ブイユ・ウーで焼いた料理が食べたいと母は言った。

 カムラーはなけなしの金で卵と油を買って、見よう見まねで料理した。

「おいしい」

 母は笑った。

「カムラー。人を思いやる心を、いつまでもなくさないでね」

 そのひと言を残して母は死んだ。

 素人のカムラーが作った料理など、本当においしいはずもない。

 それでも母は死ぬ前に幸せを味わったのだと、カムラーは感じた。

——死ぬ寸前にある人間を、食べ物は幸せにできる。なんて素晴らしいことだろう。

 そう感じたカムラーは、そのときすでに料理人としての道を歩き始めていたのだろう。


3


 カムラーはとある貴族家の使用人として雇われることができた。

 その家でカムラーは師匠に出会った。

 師匠は偏屈でわがままな厨頭くりやがしらだったが、カムラーの味覚が鋭いことを見抜き、弟子として育ててくれた。

 師匠の指導は厳しかったが、カムラーはその教えを熱心に吸収していった。

「いいか、カムラー。天地のあいだにある食べ物はみんな、神様のおめぐみだ。考えてもみろ。ちっぽけな若葉が大木に育って木の実を落としてくれるんだ。不思議なことじゃねえか。山には木の実が生り、森には獣が生まれ、川には魚が泳いでいる。それを人間が取って売り、金さえあれば何でも好きな物を買って食べることができる。ありがたいことじゃないか。たった一個の木の実でも、食べられるようになるまでには、神様が大変な手間暇をかけておられるんだ。食べ物を粗末にするくらいもったいないことはないぞ。それは神様と人間の骨折りを無駄にすることだ。分かるな」

 カムラーは、その通りだと思った。

 食べ物はすべて神々の恵みだ。まずく料理してその価値を損なうなど、あってはならないことだ。人間はどんな食べ物も、最高の状態に料理して食べる義務がある。

「いいか、カムラー。人間には三つの幸せがある。一つは、たくさんの財産を手に入れることだ。財産がたっぷりあれば、何でも買えるからな。二つは、健康で長生きすることだ。いくら財産があっても病気で何にも食べられないんじゃしかたがないし、早死にしたんじゃ人生を楽しめない。それから三つは、立派な人間になって人様のお役に立てることだ。分かるな」

 よく分からなかったが、カムラーはうなずいた。

「ところが世の中には勘違いしているやつらがいる。ため込んだ財産を守るのに必死になって、金の使い所を知らねえやつ。病気やけがが怖くて屋敷に閉じこもっているやつ。身分が高くなればそれが偉いんだと勘違いしているやつ。そうじゃねえ。人間の価値は身分で決まるんじゃねえ。その身分の中で何をしたかで決まるんだ。分かるな」

 まったく分からなかったが、カムラーはうなずいた。

「だからな。財産を得たら、料理にこそ費やすべきなんだ。そうだろう? いい料理を食えば機嫌もよくなるし、体の調子もよくなって長生きできる。それにいい料理を人に振る舞えば、それだけでも世の中にいいことをしたことになる。分かるな」

 少し違うのではと思ったが、カムラーはうなずいた。

「本当にいい料理ってのは、体にいい料理なんだ。うまいことはうまいけれど体にはよくないってのは、本当にいい料理じゃあない。それは舌先のうまさに過ぎん。本当のうまさは体全体で味わうものなんだ。分かるな」

 これは本当にそうだと思ってうなずいた。

「食べる人間の体調や心の状態によっても、感じるうまさは違うし、元気づける料理を作るのか、心のなぐさめになるような料理を作るのかで味付けも違ってくるんだ。分かるな」

 分からなかったが分かりたいと思ってカムラーはうなずいた。

「要するに料理ってのは思いやりよ。相手を思いやる心が深ければ深いほど、いい料理人になれる。食べる人間に今必要なものは何かを見抜いて素材と料理法を瞬時に組み立てできるやつこそ、本当の料理人よ。料理を食べた人間の心と体の調子を調えるのが、本当の料理人なんだぜ」

 この厨頭のどこに他人への思いやりがあるんだと疑問に思ったが、カムラーはうなずいた。

 その後段々と、厨頭の言葉の意味が分かるようになった。

 そうだ。

 本当の思いやりを持つ者にしか、本当にうまい料理を作ることはできない。

 本当にうまい料理とは、その人の命の調子を調え、その人が最大限の力を発揮できるようにするものなのだから。

 ということはである。

 本当にうまい料理を作れる料理人とは、すなわち最高に深い思いやりを持った人間だということである。

 こうしてカムラーの精進が始まった。


4


 いつしかカムラーは厨頭として名を知られる存在になっていた。

 いくつもの貴族家を渡り歩いた。

 これは普通のことではない。

 腕のいい料理人なら雇った貴族家は手放しはしないし、他の貴族家を追い出されるような料理人なら、自家に雇い入れようとはしないものだからだ。

 ところがカムラーは特別だった。

 一つにはその料理の腕と知識において。一つには、わがままさにおいて。

 もっともカムラーにいわせれば、それは少しもわがままさなどではない。よい料理を作るにはよい素材が必要だし、よい器具が必要だし、よい食器が必要だ。

 そうしたものは、調えるのは大変だが、いったん調えてしまえば長く良好に使える。むしろいっときの金を惜しんで安く間に合わせの物で済ませれば、何度も何度も同じような手間をかけることになって、結局高くつくのだ。

「そうはいうがな、カムラー。わざわざお前の言う通りの条件で牛を育てろなどというのは、いかにも無理だ。それに銀のナイフにフォークだと。そんな物をそろえるのに、どれだけ金がかかると思う。そのほかにも、南方のありとあらゆる香辛料をそろえろなどと。わが家の府庫が傾いてしまうわ」

 それでも、食材や食器については、ある程度無理も聞いてもらえた。

 うまい料理を出せるということは、何といっても外交の上で最大の武器であったからである。

 だが、料理の出し方については、どこの貴族家でも伝統を固守することを強制した。

「一皿ずつ盛りつけて料理を出すだと! 馬鹿者っ。何を考えているのか。そんな庶民のようなもてなしができるものか。豪勢なもてなしは、皿数も決まっている。その皿数の料理をテーブル狭しと並べ立ててこそのもてなしではないか」

 そんな守旧的な方法では温かい料理を温かく、冷たい料理を冷たく供するという、基本中の基本のもてなしができない。

 不思議なことに、親しい身内が集まる会食では一皿ずつ料理を出しても何の文句も言われない。そしてそれを食べたからには、料理を最上の状態で食べるという喜びを存分に味わったはずなのである。

 だというのに、大切な客が来たときには、伝統に従って見栄えばかりを重視した料理の出し方を強制される。味とは何の関係もない飾り付けにばかり力を入れた盛りつけをして。

 それは無駄だ。食材の無駄であり、神々のみわざと恵みへの冒涜だ。

 どうしてもカムラーは妥協したくなかった。

 ゆえにカムラーは解雇され続けた。解雇され続けたということは、雇い続ける者もいたということである。それほどにカムラーの料理は魅力的だった。

 だが雇ってみればカムラーは厄介な使用人だった。あまりに自分勝手な要求をしすぎる。だから自家の料理人がカムラーの技術や知識のなにがしかを学んだあとは、やはり解雇してしまうことになった。

 そんな遍歴に、カムラーはへこたれなかった。

 へこたれないどころか、各地の貴族家を回るうちに、各地の特産品や独特の味付けなども学び、南方の珍しい食材や香辛料についても一層知識を深めた。

 そしてカムラーがたどりついたのが王都のトード家だった。

 トード家は鷹揚な家風で、カムラーはいささかの自由を味わった。だがそうであるほどに、パルザム王国での料理人生活に限界を感じた。

——どこかに、もっと豊かで無限の食材に満ち、わしが思う存分腕をふるい、人々に喜んでもらえる場所があるのではないか。

 そんな思いが次第にふくらんでいった。

 バルドとの出会いは天啓的であった。

 こんなにも素直に、こんなにも繊細に、カムラーの料理を味わってくれた人はいない。

 こんなにも率直に、こんなにもあけすけに、料理人ごときと意見を戦わしてくれた人もいない。

 しかもバルドのいる所には各国の英傑たちが集まり、彼らはカムラーの料理に舌鼓を打った。

 これほど料理人であることの誇らしさを感じさせてくれた人もいない。

——やがてバルド様の行き着かれるところ。そこにこそわしの運命がある。

 カムラーはそう信じるようになった。そしてそれは正しかった。カムラーは労苦を押して長旅をし、フューザリオンにたどり着き、そここそ天地が与えたカムラーの働き場所であると確信したのである。

 フューザリオンの何もかもが素晴らしかった。

 見たこともない新鮮で素晴らしい食材の数々。

 空を飛ぶものも、地を駆けるものも、水に泳ぐものも、大地から生えるものも、カムラーにとってはすべて食材だった。

 およそ無限の食材が、カムラーを待っていたのである。

 フューザリオンの府庫を差配するドリアテッサは、カムラーに寛容だった。

 食器も貯蔵庫も氷室さえも、そのときのフューザリオンの経済と人手でかなう限りのものを、カムラーは与えられた。

 ドリアテッサの命令は簡単至極だ。

「外国のどのような使節がみえても恥ずかしくないような、いえ、目をみはり驚嘆するような食文化の花を、フューザリオンに咲かせなさい。食材も、調理法も、盛りつけも、供するその仕方も、前例にとらわれず、あなたが最高と思えるやり方を追求しなさい。フューザリオンは新たな伝統を創出し発信する場となるのです。財は惜しみません。人手も必要なだけ与えます。そしてあなたは高齢の身。いつ死ぬかも分かりません。後継者を育てなさい」

 カムラーは奮い立った。

 そしてあまたの料理を生み出し、多くの弟子を育て、フューザリオンの客の舌を満足させ、民衆の健康を増大させた。

 だがなんといっても、カムラーにとって最大の食べ手は、バルドだった。

 バルドの舌だけはごまかせない。わずかな手抜きも見抜かれてしまう。どんな客よりもバルドは手強かった。

 そしてそんなバルドがぐうの音も出せない料理を作ることこそ、カムラーの最高の喜びだったのである。

 そのバルドがもうすぐ永遠にこのフューザリオンを離れてしまう。

 気が付けばフューザリオンにカムラーがやって来て十一年目の新年を迎えていた。

 この十年間のために自分は料理の知識と技を磨いてきたのだと、今ならいえる。

 なんとも楽しい愉快な十年間だった。

 そのかけがえのない十年間を与えてくれたのは、ほかの誰でもない。バルドである。

 せめて希望を抱いて旅立ってほしかった。


5


 味見をしてほしい新料理がある、という理由でバルドを大厨おおくりやに呼び出した。

 今日は、各国からの修業者たちを、この領主家の大厨に集合させてある。

 厨に来て見慣れない顔がたくさんあるのにとまどっているバルドに、カムラーは紹介していった。

「こちらの十二人はゴリオラ皇国から修業に来ている者たちです。そちらの八人はパルザム王国から、後ろの六人はその他の中原の各国から、またその右側の五人は辺境の各大領主領から修業に来ている者たちです」

「おお、そうか。皆、ご苦労なことであるな。しっかり修業していってくれ」

 そのあと、一人一人の名を呼んで修業の進み具合を簡単に説明していった。バルドは終始機嫌よく、うむうむとうなずいていた。

 そのあと厨頭の部屋にバルドを招き入れると、びっくりしたような顔でバルドは言った。

「いや、料理修業の人間が増えておることは時々に聞いておったが、ずいぶんな人数になっておったのじゃなあ」

「はい。当家が料理修業の人間に門戸を開いていると知り、パルザム、ゴリオラ両国の王家や大貴族家から、修業の申し込みが引きも切りませぬ」

「それにしても、顔ぶれがずいぶん若いようであったが」

「はい。最初はすでに充分な経験を積んだ料理人を修業によこしたのですが、それでは短期間に修業が終わってしまい、フューザリオンにとってうまみがありませんし、わたくしも教えがいがありません」

「おお。前にもそういう話があったな」

「はい。だから、各国にはこのように伝えたのです。本当にフューザリオンの料理法を学ぶには、十年かかる。十年の修業に耐えられる若くて才能のある料理人だけを、フューザリオンは受け入れる。そして十年の修業が終わったら、一年のあいだお礼奉公をすることが条件であると。十一年のあいだは、食べる物と着る物と住む所はフューザリオンが世話すると」

「つまり給料は払わんということじゃな。ああ、それで、わりと初心の者もいれば少し修業の進んだ者もいたのじゃな。なかなか十一年は終わらんから、だんだん人数が増えるわけか。心強いのう。それはいいが、カムラー。お前いったいあと何年生きるつもりじゃ」

「わたくしが死んでも約束は残ります。つまり若くて有能な料理人たちを大勢、十一年間はただで確保できるわけです。彼らには順番にフューザリオンの各街、各村を回ってもらっております。フューザリオン全体が、彼らの恩恵を受け続けるわけですな」

「なんということじゃ。お前は骨の髄まで悪辣にできておるのう。いっぺん腹を切り開いて中の色を見てみたいわい。ところでその十一年は、十五年にはならんかのう」

「その手をわたくしも考えておりました」

 ふふふふ、とバルドとカムラーは黒い笑みをかわした。

 ここで修業をした料理人たちは、やがて自分の国に帰って活躍する。

 そしてフューザリオン式の料理とそのサービスのしかたを各国に広めるだろう。

 それは単に料理の技法にとどまらず、食材の加工法、調味料の製法、給仕の訓練のしかた、食器の形状や食事の作法にいたるまで、フューザリオンの食文化が大陸を席巻するということである。

 そうだ。

 時間と機会さえあれば、より優れたものは広まらずにはいないものなのだ。

 また、ここで修業した料理人たちは、フューザリオンの活力、無限の資源、その発展力のすさまじさをも心に焼き付けていくだろう。

 気高いもの。真に豊かで力強いもの。古き国々からは失われてしまった清冽で生き生きとした生命の息吹が、このフューザリオンにはある。そのフューザリオンの息吹を浴びて、古き国々も新たな生命を得ていくだろう。

 料理人たちの修業の様子を通じ、バルドにそんな未来図を思い描いてもらえたなら、とカムラーは思ったのである。

 そしてカムラーもすでに老齢であるが、人生の最後の一瞬まで、フューザリオンの食文化を高めるための努力を続けるつもりである。

 その覚悟のほども、示しておきたかったのである。


 その三か月後、バルドはカーズとジュルチャガを従えて最後の旅に出た。

 それを見送るのが許されたのは、身内の者だけである。

 カムラーは、こっそりとその出発を見送ったのだった。






(おわり)2014.3.23

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