第2話 ムッシュ・カサンドラと1ぴきのねこ
ムッシュ・カサンドラと1ぴきのねこ(前編)
ムッシュ・カサンドラの連れている1ぴきのねこには、名前がない。
でもねこはムッシュ・カサンドラと話しをすることができる。
「だんな、今日のごきげんはどうですか」とか「市場に行きましょうよ、だんな。今日はとうもろこしのスープが食べたいですね」なんて、他愛のないことをしゃべる、ムッシュ・カサンドラの1ぴきのねこだ。
「でもおまえさんは熱いスープが食べられないじゃないか。なんといってもおまえさんは猫舌なんだからね」
「だけどだんなの焼いてくれるふかふかのパンに甘いとうもろこしのスープをつければ、あたしだってあつあつの奴が食べられるんですよ」
それでムッシュ・カサンドラは1ぴきのねこを連れて、市場へ行くことにした。
●
「ムッシュ・カサンドラの家は町外れの湖のほとりにあったから、市場へ行くには黒い森を抜けていかなくちゃならない。
冬の森は音もなく眠ったようにしん、として、ムッシュ・カサンドラの靴が落ち葉を踏む音だけが聞こえてくる。1ぴきのねこはいつでも音を立てずに歩くから、ねこと話をしていないと、ムッシュ・カサンドラはひとりぽっちになってしまった気がするんだよ」
「だからムッシュはねことおしゃべりするのね」
「それだけじゃないよ」、と彼は言った。「ムッシュ・カサンドラは口をきける1ぴきのねこの気持ちがよくわかったんだ」
「どうしてねこの気持ちが分かると、おしゃべりするの?」
よく判らないことがあった時いつもそうするように、須美は小首を傾げて、その小さな下唇を噛んだ。
まだ5つの彼女の下唇は、その小さな歯に押されてみずみずしく変形した。
「だって、話しかけてあげないと、ねこだって淋しいじゃないか。神様がせっかくふたりを一緒にしてくれたんだもの。おしゃべりは人と人とをつなぐ、毎日の小さな魔法なんだよ」
「シュウちゃんも須見とおしゃべりするの?」
シュウちゃん、と呼ばれた彼は、小さな須見の身体を抱きかかえて、頭の上に持ち上げた。
須見も足を開いて、いつものように、彼に肩車をしてもらった。
年も押し迫った12月の防波堤は、小春の日より。波も穏やかで、ひらひらと午後の日差しをふたりに照り返した。
「そうだよ。須美のおしゃべりは、いつでもちっちゃな魔法なんだ」
「須美の魔法で、なにが叶うの?」
「ぼくと須美が、すこしずつ仲よしさんになるっていう魔法なんだよ」
フフ、と須美は可笑しそうに笑った。
「ねぇ、ムッシュ・カサンドラのつづきをお話しして」
●
「だんな」と、1ぴきのねこが言った。
森の中は相変わらずの静けさで、風ひとつ吹かない固い固い沈黙の中にあった。
「どうしたね?」
「なにか聞こえませんか?」
ねこは、ぴくぴくとひげをふるわせて、あたりの様子を伺った。
「おまえさんはあたしよりずっとずっと耳がいいからね。きっとあたしに聞こえないかすかな森のため息が聞こえるんだろうよ」
ムッシュ・カサンドラはそう言って、ねこの頭を一度なでると、変わらず歩き続けた。ねこは頭をなでられるときいつも一瞬いやな顔をするのだけど、それはムッシュ・カサンドラの手が大きくて、あまり触られたくない耳に触れられるせいだ。
でも、1ぴきのねこに聞こえるのは、決して森のため息なんかじゃなかった。
人間のムッシュ・カサンドラには聞こえない音も、確かにねこには聞くことができた。樹齢500年のクスノキの漏らす、ながいながぁぁいあくびや、やかましいカケスの、朝一番に歌われる聖歌も、たしかにムッシュには聞こえない音だ。
でもそうじゃないんだ、ってねこは思った。
ずんずん森の中に入って行くと、その小さな音はどんどん大きくなっていった。
「ねぇ、だんな」と、我慢できなくなって、ねこは言った。「やっぱり何か聞こえますよ」
ムッシュ・カサンドラはその大きな歩みを止めると、一度ねこの顔つきを見た。それはうそを言っていない顔だった。
ムッシュは・カサンドラはねこを抱き上げると、言った。
「どんな音が聞こえるんだい?」
ねこは両脇にムッシュの大きな手を感じながら、大きく息を吸い込んで、そして、耳を澄ませた。
●
彼は、肩車の須美をもう一度抱き上げると、頭の上で彼女の向きを変え、自分の目の前の高さにおろした。
須美の顔を、自分と同じにすると、その目をまっすぐ見て、ムッシュ・カサンドラの声をまねて、彼は言った。
「どんな音が聞こえるんだい?」
「おじさんたちが5人いるの」と、須美は言った。
それで彼には須美の言いたいことがすぐに判った。
「おじさんたちは揃いのチョッキを着ているんだね?」
「そうよ」
「おじさんたちは、楽器なしで、お歌を歌っているんだね?」
「そうよ!」
須美は、自分のアイディアを察してもらったことが嬉しくて、元気よく答えた。
「おじさんたちは、こんなお歌を歌っているんだね」
といって彼は、もう一度須美を肩車すると、ア・カペラで歌い始めた。
グルックの主題によるア・カペラ『愛するイエスよ、我々はここにいる』。
はじめは野太い声で導入のベースを、やがて静かな中音のメロディを交えて、歌詞なしのコーラスで、彼は歌った。
それにあわせるように、彼の頭上で須美がハイ・ノートの裏メロディを合わせて、ふたりは歌いながら歩いた。
それは先週の日曜日に街で見かけたアマチュアの、中年ア・カペラバンドが演奏していた楽曲だった。
―――彼は、正確に言うと須美の父親ではない。
しかし、諸般の事情で須美の母親と結婚し、現実的には須美の父親を肩代わりしている。須美の母親が彼を「シュウちゃん」と呼ぶせいで、須美も彼のことをそう呼ぶようになった。
須美は実の父親と同じように彼に接し、彼もまた、実の親子のように須美に接することができるようになった。彼と須美の母親と、そのかつての配偶者との間にあったゴタゴタが落ち着いて、それまで体の不調を訴えていた須美の様子がすっかり良くなって、やっと1年。須美と、その母と、彼が初めて迎える静かなクリスマスだ。
妻が家でクリスマスのケーキを焼いて、彼が密かに買っておいたクリスマスプレゼントを車のラゲッジ・ルームから部屋の中へ移すあいだ、彼は須美を連れて、散歩にでた。
行き先はいつもの通り、町内の坂を下りきったところにある、小さな漁港だ。
釣りをするでもなく、マリン・スポーツをするわけでもないのに、須美は小さな頃からここがお気に入りの場所なのだ。須美につられて、この漁港の小さな防波堤を、年に何往復したことだろう?
水ぬるむ春先の、軽やかに光る海。真夏の灼けるようなコンクリート、秋の穏やかな日差し、そして人気ない冬の午後3時にここをふたりきりで歩くとき、彼は言いようのない幸福感に充たされることを知った。
それはいままで経験したことのない感情だった。長い独身時代には、湯水のように金を使って遊び呆けた晩もあったが、こんな風にこころの底から喜びがふつふつと湧き上がってくることは、ついぞ知らないままだった。
彼が口からでまかせで話す、童話ともおとぎ話とも言えないストーリーは、言葉になる端から消えていってしまうけれど、そのひとつひとつが須美との距離を埋めてゆく魔法なんだと、いま彼は静かに思う。
●
その歌声に導かれるように、ムッシュ・カサンドラと1ぴきのねこがたどり着いた先は、森の中の小さな庭だった。
そこだけぽっかりと穴があいたように巨木たちが身を引き合い、透明な日の光が薄暗い森の中に垂直に射し込んでいた。
そこではみどり色の下草が、日の光を受けてあざやかに生い茂り、冬のさなかだというのにまるで春のようにあたたかな空気に充ちていた。
そこで揃いのタータンチェックのベストを着込んだ8人のこびと達が、コーラスの練習をしていたのだ。
ムッシュ・カサンドラと1ぴきのねこは、その森の庭の練習場にだしぬけに現れた。
こびと達は目をまん丸にして、その突然のお客さんの来訪に驚いた様子だったけど、でも一度始まったコーラスは、途中でやめることができない。1人のこびとのメロディに、もう1人のこびとのメロディが重なり、ふたりのこびとのメロディにはもうふたりのこびとの裏メロディがかぶさって、それを後ろから4人のリズム・セクションのこびとが奏でるビートが支えているからだ。
それはえもいわれぬくらい美しいメロディだった。
こびと達の驚きも、そのメロディの美しさにうっとりと我を忘れたムッシュ・カサンドラと1ぴきのねこの顔色を見るにつけ、静かに溶けていった。
こびと達はメロディを奏でつづけ、ムッシュ・カサンドラと1ぴきのねこは目を閉じて、暗い森の中で静かに陽光を浴びながら、その楽しげな音楽に聴き入った。
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