キスのかわりのエトセトラ

綿引つぐみ

キスのかわりのエトセトラ



 中二の秋にぼくらはつき合い始めた。そして四月、中三になった。

 その間に、ぼくと彼女はたくさんキスをした。

 だけど。

 彼女の誕生日は三月で、その日に最後のキスをして、それからはもうしていない。

 学校もずっと休みで、実際会うこともままならない。

 五月に久々に会ってぼくがキスをせがんだら。

「わたしんちはひいおばあちゃんがいるから」

 とマスク越しに断られた。

 彼女は神経質だ。

 家に帰るとすぐシャワーを浴びるくらい。

 でもそれが正しいのかもしれない。

 ぼくはいつでも何でも「だいたい」だ。

 東京はオリンピックが消えて、何かとまだ騒がしい。

 けれどぼくらの住む街は、今のところは比較的平穏な日々だ。

 六月。そして七月。

 はるか遠くの南の海に熱帯性低気圧が発生して。

 そして夏がやって来た。



 七月になった。毎朝寝苦しくて目が覚める。

 今日は登校日だ。

 ぼくらの学校はいま週二登校だ。授業のほとんどがオンラインかテレビの県域放送のプログラムで、登校日は実技系の科目かさもなくばテストだ。

 人気のない公園のベンチに彼女とぼくは座っている。

 テストが午前中で終わり、二週間ぶりにぼくらは会っている。

「しふぉん」

「なあに」

 彼女の名前はしふぉんという。詩風音と書いてしふぉんと読む。

「キスしたい」

「だめだよ」

 遠くから返事が届く。ベンチの両端に二人は反対を向いて座っている。話をするときはこうしていつも背中合わせだ。もちろんマスクもしている。

「まじか」

「ま。だよ」

 彼女は可笑しそうにしている。いやそんな気配がする。

「そんな?」

「え?」

「そんなにしたいの」

「したい」

 したいしたい。したいものはしたい。

 キスしたい。抱きしめたい。彼女の体温であたためられた吐息を頬に感じたい。

 彼女と付き合うまで、自分がこんなにキスしたがりだとは思わなかった。

 というか女の子自体にも全然興味なかったし。いや今だって彼女以外は全然興味ない。キスだって他の誰ともしたいとは思わない。ぼくは女の子が好きなわけじゃない。キスしたがりでもない。詩風音欲しがりだ。

 詩風音が欲しい。

 公園内には犬の散歩をしている人が一人。水道でペットボトルに水を汲んでいる。

 しばらく間を空けて彼女がいった。

「キスは出来ないけど。かわりにいいものがあるよ」

 彼女が謎めかす。

「何だよいいものって」

 ぼくは思わず彼女を見た。

「さてなんでしょう?」

 そういって彼女は振り向き、マスクのむこうで悪戯に微笑んだ。 

「なんだと思う? 今度持ってくるから。それまで考えといて」



 キスのかわりって何だ? キス、そしてエトセトラ。ぼくはいろいろと妄想する。なんだかいけないことばかり考えてしまう。くちびる、まつげ、耳たぶ、切り揃えた髪、うなじ、襟元、胸のふくらみ。彼女の体の部分が脳裏で勝手にスライドショウされる。

 闇に落ちそうだ。ぼくはそこから自分の意識を引っ張り上げる。

 遅い生まれなのにおとなな感じの彼女が甘くてまぶしい。

 実際彼女はおとなだ。

「中学くらいまでに出会った相手とじゃないと本当の家族にはなれないんだって」

 しばらく前に彼女がいっていた。

「どういうこと?」

「思春期を過ぎてから出会った人はどんなに好きになってもしょせん他人なんだって。わたしたちが両親や兄弟に感じるような『いてあたりまえ』な関係は、おとなになってからはもう作れない」

 彼女には離れて暮らす父がいて、ときどき会ってこんな話をしているらしい。

「いてあたりまえ。の関係がわたしの理想。たとえ嫌いになっても恋人同士。そんな関係。わたしたちにはその権利があるよ」

 家族以外とは触れ合えない日々。二〇二〇年の夏。

 ぼくらもいつか家族になることがあるのだろうか。

 結局何も分からないまま、テスト二日めになった。



 テストが終わって二人で学校を出ると、しばらくして彼女がいった。

「て。つなご」

 彼女は手を差し出す。

「いいの?」

「うん」

「だってひいおばあさんは…」

「だいじょうぶ。そのかわり一回つないだら離さないで。そうすればよけいなところに触らないし」

 ぼくらは手をつないだ。そしてふたたび歩き出す。彼女に触れるのは本当に久しぶりだ。

 歩きながらぼくらはひそひそ話をするようになるべく小声で会話する。

 内容はどうでもいいこと。ふたりしてあえてどうでもいいことを数珠つなぎにして、そういうゲームをしているようだ。

 そうするうちに時間はあっという間に過ぎた。

 気がつくとこの間の公園までやって来ている。すると彼女はぼくの手を引っ張ってその中へと歩き出した。

「どこにいくの」

 返事のかわりに彼女は手を固く握ってくる。

 ベンチを通り過ぎ、奥へと向かう。

 彼女がその歩みを止めたのは水道の前だった。この前誰かが水を汲んでいた公園の手洗い場だ。

「いいもの、持ってきたよ。あげる」

「あ」

 キスのかわりのもっといいもの。

 つないだ手と反対側のポケットから、彼女はピンクの何か薄くてぺらぺらしたものを取り出す。

「何それ」

「紙せっけん」

 シート状の携帯石鹼だ。

「少しのあいだ向かい合うからだまって」

 ぼくは黙った。彼女も黙る。

 それからジェスチャーで手を出せという。ぼくはいわれた通りにする。

 すると水道で自分の手を濡らして、紙石鹼を泡立てるとぼくの手を洗い始める。

 そして今度は自分の手を洗えという。石鹼を一枚もらってぼくは彼女の手を洗う。

「こうすればずっと触れてられる」

 息を出さずに、彼女がささやく。

 ぼくらは互いの手を洗い合う。

 相手の手を洗うことが、自分の手を洗うことにもなった。

 彼女の細い指の感覚が、すごくくすぐったい。くすぐったいのは手じゃなくて心のほうだ。

 普通につき合って、普段ならしないことをして、何だかとてもむずむずする。

 キスよりずっとドキドキする。

 水に濡れて冷えた手が、擦り合わせるうちにだんだん温かくなってくる。

 互いの指が、白い泡の中で絡み合ってぬるぬると滑る。

 石鹼の泡が、熱い。

 彼女を、とても近くに感じる。輪郭が重なり合うような感覚さえする。

 ずいぶん長い間、飽きずにぼくらは互いの手を洗っていた。

 指のあいだ。爪のさき。ぬるぬるの中でも指紋が擦れ合うのが分かる。

 気持ちよくて、せつなくなる。

 一言もしゃべらず、時々どちらからともなく見つめ合った。

 声のかわりにくちゅくちゅという音が響く。

 いつも以上に、彼女が愛おしく思えてきた。


「……せっけん、もう一枚追加する?」



 もしかしたらキスのOKが出るのはもうすぐかもしれない。

 でもそれまでは、ぼくらは何度でも手を洗う。



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