第8章 パタラポザ

第1話 闇の呼び声

 1


 〈試練の洞窟〉での冒険は、老いたバルドの体には大きな負担だった。

 フューザリオンに帰り着いたあと、体中から力が抜け、吐き気やめまいがして寝込むようになった。

 筋力や持久力が目に見えて衰えていくのが分かる。

 だが、それでよかった。

 あの冒険では生涯で最高の力と技をふるうことができた。

 その深い満足を味わったのだから、あとは老いに任せて衰えていけばよかった。

 フューザリオンのめまぐるしいほどの発展ぶりをみながら、バルドは養生した。


 薬師ザリアもフューザリオンに帰り着いたあと、倒れるように眠った。

 一週間ほどで起き上がれるようになったが、体中が疲労しているようだ。

 病人やけが人の世話はカーラに任せ、一日中エガルソシアの畑のほとりでぼんやりと過ごすことが多い。


 ザリアの家の隣には、ピネン老人の家がある。

 ザリアの家と同じく、ピネン老人の家にも、毎日けが人や病人が押し寄せる。

 ピネン老人は弟子で養子のトリカと、下働きの女性一人とで暮らしている。

 医薬に心得のある者が六人弟子入りしていて、毎日通って治療を助けている。

 弟子たちの指導はトリカが行っている。

 トリカはまだ若いが、その知識も技術も一級品だ。

 ピネン老人はトリカの活躍ぶりを眼を細めて見ている。


 そのピネン老人が、年も暮れた十月の二十二日に亡くなった。

 前日までは病人の世話をしていて、夕食も普通に食べたのだが、朝様子をみると死んでいたという。


 年を越え、三月四日、春の訪れを待たずして薬師ザリアが逝った。

 元気になったらカーズの舌を治すと言っていたが、結局それは実現しなかった。

 実のところバルドは、ザリアが死ぬときには、竜人エキドルキエがそうであったように、粉々の灰になってしまうのではないか、と心配してた。

 だが、そうはならなかった。

 少しばかり縮んだように見えるが、立派に生き抜いた人の姿でザリアは死んだ。

 バルドはそのことが無性にうれしかった。

 本人の遺言に従って、フューザリオンが見渡せる丘に埋葬した。

 長く孤独な旅を続けた老婆は、人生の最後に家族を得た。

 遺骸を運んだクインタ、セト、ユグル、ヌーバ、ミヤは、彼女の孫といってよい。

 先導したジュルチャガもまたそうである。

 聖句を唱えたクーリ司祭は、あなたが残したエガルソシアは人々を守り豊かさを与え続けるだろう、とザリアの魂に感謝をささげた。


 ザリアが死んでからというもの、バルドは毎日のように、あの試練の洞窟での冒険を思い出した。

 あの冒険がザリアの命を削ったのだということは疑いもない。

 あの冒険に同行しなければ、ザリアはまだ何年も、あるいは何十年も生きられただろう。

 けれどザリアは後悔はしていない、という確信がバルドにはあった。

 ザリアは、思いもかけず精霊を身に取り込んで不思議な力と長い寿命を得たが、その長い寿命は必ずしもザリアに幸せを与えたとはいえない。

 薬草などの知識を人に伝え、あるいはみずから技をふるって人助けをしながら、あの老婆は旅を続けた。

 その目的の一つはエガルソシアが育つ土地を見つけることだったという。

 それはどう考えても自分のためではない。

 人々が助かるためだ。

 多くの人々が野獣を恐れず暮らせる土地を見つけ、またエガルソシアの効能によって人々が健康を得られるように、あの老婆は旅をしていたのだ。

 その旅はつらく長く苦しいものだったに違いない。

 孤独だけを道連れにした果てしもない旅路だったに違いない。

 しかしその労苦は報われた。

 エガルソシアが育つ広大な大地を、あの老婆はついに発見し、そこにフューザリオンができたのだ。

 そしてフューザリオンからは大量のエガルソシアが各地に輸出されている。

 その様子を見守ることは、ザリアにとって大きな喜びだっただろう。


 それを思えば、バルドはザリアがうらやましい。

 ねたましい、といってもよい。

 〈人民の騎士〉などと呼ばれながら、この自分は、どれほども人々のために役立ったとはいえない。

 中途半端な人助けを重ねながら、老醜をさらしている。

 しかしそんなバルドだからこそ分かることがある。

 ザリアが、エガルソシアの育つ地を見つけることが自分の旅の目的の一つだといった意味である。

 ではザリアの旅には、ほかにどんな目的があったのだろうか。


 バルドは思う。

 それは死への花道を得ることだと。

 人生を締めくくるにふさわしい時と場所を得ることだと。

 そして願わくば、死の前に思う存分活躍することだと。


 精霊を取り込むことによって、ザリアはあれほどの力を得た。

 しかしその力を存分に発揮することなどなかったに違いない。

 だが最後に、試練の洞窟に挑み、素晴らしい仲間たちとともに戦った。

 そのときあの老婆は、いやあの女は、自らの秘された力のすべてを解き放っていたに違いない。

 目を閉じれば浮かんでくるのは老いさらばえたザリアではなく、若く美しく自信にあふれ、奇跡の力で仲間たちの傷を癒すザリアの姿だ。

 なんと力強く、誇らしげであったことか。

 そしてザリアの活躍によって、試練の洞窟の冒険は成功に導かれたのだ。

 しかもフューザリオンに帰り着き、自らを慕う若者たちに看取られてその生涯を閉じたのである。

 満足だったに違いない。


 バルド自身がそうなのだ。

 試練の洞窟に挑んだのは、なるほど、悪霊の王パタラポザとジャン王の遺産について有力な情報を得るためだった。

 それは大陸に住む人間やもとからの人々を、やがて降りかかるだろう危難から救うための試みだった。

 その意味では、遺産の正体を知ることができ、また竜人エキドルキエを倒すことができたのだから、冒険は大きな成功だったということができる。

 だがそれ以上のものが、あの冒険にはあった。

 信頼できる仲間たちと力を合わせ、強大な敵に打ち勝つということは、それ自体に意味がある。

 ましてあの闘技場で戦った戦いは、死んでからのちも永遠に誇ることができるほどのものだ。

 試練の洞窟の冒険は、それ自体がバルドの歩んできた道への褒賞であったといってもよい。

 それほど深い深い満足を、バルドはあの冒険で得た。


 きっとザリアも同じであったにちがいないとバルドは思うのだ。

 もちろん、女であるザリアの考え方は、男でありしかも騎士であるバルドとはちがっているかもしれない。

 それでも、あの洞窟での冒険は、ザリアにとってかけがえのない体験であり、生きたしるしをこの世界に刻み込む、最高の場面であったという確信は揺るがない。

 

 たとえどれほど長生きしようと、人はいずれ死ぬ。

 よい死を迎えるということは、よい生き方をするということと、ほとんど同じといってよい。

 ザリアはよい生き方をした。

 だからその死はよいものであったにちがいないのだ。

 バルドが死ぬときも、そう遠い日のことではない。

 ザリアのような死に方ができるだろうか。


 ザリアが死んでちょうど一か月後の四月四日、ジュルチャガとドリアテッサに長女が誕生した。

 通称、シルキー。

 正式の名は、シルキエワルシリンという。

 シルキーの誕生は、二人の老人の死によって明朗さを失ったフューザリオンの民人の心を大いに慰めた。


 2


 少し上向きだったバルドの体調は、ザリアの死後急激に悪化した。

 時には二、三日寝込んでしまうこともあった。

 夢うつつにまどろんでいるとき、耳に聞こえる声がある。

 それは初めぼやけたうめき声に過ぎなかったが、段々とはっきり聞こえるようになってきた。


〈バルド・ローエン〉

〈バルド・ローエン〉

〈バルド・ローエン〉


 バルドを呼ぶ声だ。

 呼んでいるのは誰なのだろう。

 暗黒神パタラポザが目を覚ましたのか。

 ロードヴァン城の防衛戦のすぐあと眠りについたとすれば、それは四千二百七十三年のことだ。

 今は四千二百八十年なのだから、七年が経過している。

 パタラポザは十年から十五年眠るということだったから、まだ起きるには早い気もする。

 だが早めに起きることもあるかもしれない。


 初めのうちは身構えていたのだが、長く続くうちに慣れてきた。

 この声は、パタラポザが夢を見てつぶやいている声なのだと思うことにした。

 いずれにしても、囚われの島の怪物が目を覚ましたら、必ず何か仕掛けてくる。

 相手はこちらの名前も知っているのだから。


 いや。

 知っているのだろうか。

 竜人エキドルキエはバルドの名を知っていた。

 密偵がその名を調べたと言っていた。

 だがパタラポザに報告したとはかぎらない。

 しかしやつはバルドの名を呼んでいるではないか。


 いや。

 本当に名を呼んだか。

 そう思い込んでいるだけではないのか。

 よく考えてみれば、名を呼ばれたかどうかあやふやだ。


 いや。

 パタラポザは目覚めたら竜人の長から聞くはずだ。

 バルド・ローエンの名を。

 どこに住んでいるかも。


 いや。

 バルド・ローエンの名を知っていることを、竜人の長は秘匿するかもしれない。

 隠しきれたらの話だが。


 待てよ。

 バルド・ローエンの名を知っても、フューザリオンの場所までは分からないのではないか。

 すると怪物は、まずパルザムの王都に現れるのではないか。

 ジュールに連絡して警戒を呼び掛けておかなくては。


 いや。

 あの怪物は自分で動くことはできないとも聞いた。

 まずは使者が発せられるだろう。

 竜人か、あるいは竜人に使役された人間か。


 エキドルキエは倒した。

 ルグルゴア・ゲスカスもだ。

 ウルドルウも死んだ。

 だが大陸には、まだまだパタラポザの傀儡とされた者が大勢いるのだろうか。


 バルドの思考は堂々巡りを繰り返し、悪夢を見て脂汗をかく日が続いた。

 食事もあまり受け付けなくなり、胸が焼けていつも吐き気がした。

 そんな状態が夏過ぎまで続いた。

 秋になって涼しい風が吹くころ、体調がよくなり、起き上がって動けるようになった。

 服を着てみると、だぶだぶだ。

 つまり骨格ごと痩せてしまったのだ。

 ほんの少し身長も縮んだかもしれない。

 だがもともと大柄なのだから、今でも体格はしっかりしている。

 痩せたといっても骨は強く太く硬い。

 十月に入ると、剣を振り回せるほどに回復した。

 十月五日、騎士キズメルトルの次男ハンガトルの騎士叙任が行われた。

 導き手はオルガザード家筆頭騎士ヘリダン・ガトーである。

 叙任のあと、ハンガトルはバルドに剣をささげた。

 その夜の祝宴で、バルドは久しぶりに酒を飲んだ。

 臓腑にしみるうまさだった。

 カムラー心づくしの料理もまた臓腑にしみた。


〈バルド・ローエン〉

〈バルド・ローエン〉


 3


 年が明けた。

 四千二百八十一年である。

 〈試練の洞窟〉の冒険から二年がたち、バルドは六十九歳になった。

 今や街の中心には巨大な領主館が建っている。

 領主館はいくつもの棟から出来ており、穀物倉庫、木材倉庫、鉱物倉庫なども置かれている。

 エガルソシアの倉庫はそれだけで八棟ある。

 生のエガルソシアを保存する倉庫もあれば、乾燥させたものを保存する倉庫もある。

 絞り汁を樽で保存する倉庫もある。


 バルドはふと厨を訪ねてみた。

 カムラーが、年齢を感じさせないきびきびした動きで元気に立ち働いている。

 部下の料理人や下働きの者たちも忙しくしている。

 それはよいのだが、二人、気になる人物がいる。

 見るからに上品でしかもなかなか年季の入った料理人と見受けられた。

 妙に辺境にそぐわない人物であるように思われた。


「ああ、あの者たちですか。

 あれはファファーレン家とヴォドレス家から修業に来ている料理人ですな」


 カムラーの説明を聞いて驚き、詳しく訊いた。

 アーフラバーンが甥の顔を見にきてカムラーの料理を食べ、ひどく感心したという。

 調理法と味付けもであるが、その配膳の仕方やコースの組み立て方など、まったく画期的なもので、ぜひ自家に取り入れたいと考えた。

 その話を聞いてヴォドレス家も同調し、一緒に料理人を送り込んできたというのだ。


「あの者たちは、すでに高い技術を持っている者たちで、あまり教えがいがありませんな。

 長く引き留められないのも、つまらないことです。

 本当は修業の名目でこきつかってやりたいのですがな。

 あの者たちが帰るときには言ってやるつもりです。

 次に修業の者をよこすなら、最低十年は学べる若い料理人をよこすようにと」


 カムラーの説明を聞いて、バルドは大笑いした。

 それはよい。

 大陸の各地からフューザリオンに料理修業のため料理人が集まり、それをカムラーがこきつかって料理を作るさまが目に浮かんだ。

 いつだったかそんな光景を夢に見たことがあったような気がする。


〈バルド・ローエン〉

〈バルド・ローエン〉

〈バルド・ローエン〉


 4


 三月に入ったある日、カーラがバルドの所にやって来た。

 用事も言わず、うろうろしていたが、最後にこう言った。


「あのね。

 あたし、カーズと結婚することになった」


 それだけ言って逃げるように去った。

 その言葉の意味をバルドが理解するのには、かなりの時間がかかった。

 そのカーズはといえば、ずっとバルドと同じ部屋に控えているのである。

 あれは本当か、とカーズに訊けば、黙って一つうなずいた。

 いや、舌を失っているからしゃべりたくてもしゃべれないのだが、どうもカーズの場合沈黙が似合いすぎる。


 三月の二十日に、こじんまりとした結婚式を挙げた。

 といっても、ローエン家とオルガザード家の家族直臣が集うのだから、なかなか華やかでにぎやかな宴となった。


 バルドは式の直前、カーラに訊いた。

 どうやってあの朴念仁を口説いたのか、と。


「ん?

 いえね。

 ほら。

 ハドル・ゾルアルス伯爵が言ってたでしょ。

 妻を娶り、子をなしなされ、男の子を、って。

 それにカーズはうなずいてたじゃない。

 だからカーズに言ったの。

 あたしがあんたの子ども生んであげてもいいよ、って」


 なんという正面突破。

 だがよくやってくれたと、バルドは心の中でカーラに感謝した。

 やはり妻を持ち、子をなすことは、よいことだ。

 それはただ幸せばかりでなく、多くの悩みやもめ事ももたらすだろう。

 その幸せも悩みももめ事も、妻や子を持てばこそ味わえるものである。

 その人生の味わいを、カーズにはしっかりと味わってほしかった。

 この男は家族を失ってばかりの人生を過ごしてきた。

 人に尽くしてばかりの人生を送ってきた。

 ここで少しばかり報われてもよいではないか。


 結婚式では心なしかドリアテッサがカーラを見る目つきが険しい気がした。


〈バルド・ローエン〉

〈バルド・ローエン〉

〈バルド・ローエン〉


 5


 アギスの村も順調に発展しているようだ。

 テンペルエイドは毎月一度、フューザリオンの領主館にやって来る。

 そのたびにバルドを見舞ってくれる。

 アギスの村で作れないものを、フューザリオンは援助している。

 その返礼に、小麦や干し魚などを納めているのだ。

 形の上では納税に近いが、実態は交易である。

 去年は盗賊に悩まされ、フューザリオンから兵を借りたこともある。

 フューザリオンでは騎士団は発展途上であるが、腕に覚えのある者八十人を兵士として編成し、訓練している。

 ただしこのうち七十人はふだんは力仕事に従事する者たちである。

 アギスでも自警団は組織しているのだが、やはり指揮できる者、いざというときの戦力になる者が二人だけでは身動きが取れない。

 これからの課題といったところだ。


「いや、本当によい土地を頂きました。

 これは夢物語のような話ですが、将来はずっと西のほうに街を広げ、いっそオーヴァ沿いに津を作れればと思っているのです」


 テンペルエイドは、ずいぶんと気宇壮大な計画を述べた。

 今のアギスがある場所からオーヴァまでは相当の距離がある。

 オーヴァまで届くとすれば、アギスの街はパルザムの王都以上の広さを持たねばならないだろう。

 それに津を作ってみたところで、いったいどこと交易をするというのか。

 川の向こうは砂漠ばかりだ。


「大型の帆船を作ってリンツやパデリアと交易するのですよ。

 われわれの扱う商品はエガルソシアであり、これからフューザリオンで産出される質が高くて安価な製品です。

 大量に運んで大量にさばく。

 われわれは交易で立国したいのです。

 そのことによってフューザリオンも栄えるでしょう。

 ゴリオラ皇国も放ってはおかないでしょう。

 アギスの対岸に交易村を作るぐらいのことはするかもしれません」


 まったく大胆な夢だ。

 だが夢は大胆なほうがよい。

 近頃ではフューザリオンからアギスに移住する人や、フューザリオンを訪ねて来てアギスに住み着く人も多いという。

 今のフューザリオンは急激な発展の波の中にあり、いささか忙しい。

 ここの民となればあちらこちらに引っ張り回される。

 つまり仕事が多い。

 仕事が多いぶん見返りも大きいのだが、それが肌に合わない人もいる。

 少しのんびりしたい人や、気の向いたときに働きたい人である。

 そういう人はアギスに行く。

 アギスの自由でやわらかな気風が、そうした人々には魅力的なのだ。

 逆に一旗揚げたい人はアギスからフューザリオンに来る。

 フューザリオンとアギスは、今のところ、ごくよい関係にあるといえるだろう。


〈バルド・ローエン〉

〈バルド・ローエン〉

〈バルド・ローエン〉


 6


 年が改まって四千二百八十二年四月、ジュルチャガとドリアテッサの次男トリルが生まれた。

 正式の名前はトリルエスラシリンである。


 この年、フューザリオンは領主の住む市街区のほか、五つの村に分割された。

 といってもこれまで自然に発展してきていたその実態を制度に反映させただけのことである。

 最も広い区域を持つのは牧畜村ターテスである。

 区域が広いしなにしろ牧畜村だから、あらゆる場所にエガルソシアを植えるというわけにはいかない。

 そこで安全のため牧畜村ターテスを他の四村と市街区で囲んだ。

 一つは林業の村モルスであり、一つは皮革業の村コグスであり、一つはエガルソシア生産の村エガルスであり、一つは小麦生産の村ホリエスである。

 むろん林業の村だからといって林業だけをするわけではなく、エガルソシアも生産するし、他の野菜も生産するし、家畜も飼う。

 ただ専業製品の割合が圧倒的に高いというだけのことである。

 市街区では工業製品や加工食品を一手にになう。

 市街区や村のほか、作業村というものも設けられた。

 それぞれ岩塩の切り出し、鉄鉱石の採掘、黒石の採掘、銅の採掘のために、現地に設けられたのである。

 作業村の住人は半定住であり、市街区や五つの村から労働者やその世話をする者が定期的に交代で派遣される。


 このうち、エガルスの徴税権がローエン家に与えられた。

 村の運営には村長が置かれ、統治はオルガザード家の直轄となるのであるが、税収のうち村に還元される分を除いたいわば純利益がローエン家のものとなるのだ。

 エガルソシアの販売は目下のところフューザリオンの外貨獲得のほとんどを占める重要産業である。

 そのうまみを丸ごとローエン家に渡すというのだから、あきれるほどの手厚さで、オルガザード家はローエン家を遇しているといえる。


 とはいえ、このままフューザリオンが発展していくとすれば、貧弱な行政機構しか持たないオルガザード家が領土のすべてを直接統治することは難しい。

 騎士たちが育ってくるに従い、領地を与えて分封していくのが自然な道ではある。

 今回の試みは、その試金石でもあるだろう。


 バルドは騎士キズメルトルをローエン家の家宰に任じた。

 篤実で目端の利くキズメルトルは、家の維持発展に必要な財貨を運用し、ほどのよい金額をオルガザード家に納めてくれるに違いない。

 そうした上納の割合ややり方が、今後のフューザリオンの標準となってゆくことだろう。


 この年十月、騎士ノアの次男ゴア・ファクトが騎士叙任を受けた。


〈バルド・ローエン〉

〈バルド・ローエン〉

〈バルド・ローエン〉


 7


 年はさらに四千二百八十三年となり、慌ただしく過ぎ去って、四千二百八十四年となった。

 バルドは七十二歳になった。

 このころにはすっかり健康も回復していたバルドは、最後の旅に出る心づもりを固めていた。

 まずはメイジア領にゴドン・ザルコスを訪ね、黒海老の鬼鎧焼きを食べる。

 それからリンツ伯を訪ね、屋台を食べ歩く。

 さらにパルザムの王都に足を運び、バルドラント王子の顔を見るのだ。

 バルドラント王子は今八歳になっているはずで、今顔を見せればバルドのことをずっと覚えていてくれるだろう。


 と思っていたのだが、この年、モルス村で不祥事が起きた。

 村長が税をごまかし財貨を使い込んだあげく、塩を不正にさばいて利益を上げていたことが発覚したのだ。

 だがこれは悪意のためというより、歳入歳出の管理の知識能力の欠如がもたらした事態だった。

 なにしろフューザリオンの各村の人口は、辺境でいえば大型の街に匹敵する。

 経済規模はその何倍にもあたるだろう。

 それまでは自給自足の生活だったものが、村の消費量の何倍もの生産を行い、売買を盛んに行うようになっていったわけである。

 しかもその規模は膨張する一方だ。

 田舎の村長の経営感覚ではついていけなかったのも無理はない。


 この責任を村に求めれば、一村まるまる奴隷とでもなるよりない。

 オルガザード家では蓄えを吐き出してなんとか急場をしのいだ。

 もっとも上り坂にあるフューザリオンにとってこの出費はさして痛手というわけでもない。

 しかしこの先で同じことが起きれば、その被害はただごとですまない。

 同じ轍を踏まないためには、やはりきちんとした統治者が必要だということになった。

 そこで騎士タランカが代官に任命された。

 代官補佐には騎士ツルガトルを貸してほしいと頼まれ、バルドは騎士キズメルトルと相談して応諾した。

 また、コグス村の経営も破綻寸前であり、ここには騎士クインタが代官として派遣されることになった。

 その補佐に騎士ダリを望まれ、バルドは騎士ノアと相談して応諾した。

 次には、その騎士ノアをホリエス村の代官に貸してほしいという話になった。

 騎士ノアは補佐役に騎士ハンガトルを望んだ。

 また、変則的な形ではあるが、徴税権はローエン家のものとしたまま、騎士キズメルトルがエガルス村の代官に就くことになった。

 もともとエガルス村は村長が優秀であったし、キズメルトルも帳簿は随時確認し助言を与えるなどしていた。

 その中でキズメルトルは、事務管理ができる人間が少なすぎると感じていた。

 そこで若者を集めて高度な読み書き計算を教え始めた。

 このときキズメルトルの薫陶をうけた若者たちが、のちにフューザリオンの発展に大きく貢献するのである。

 ちなみに牧畜村ターテスの代官には騎士ヘリダンが任命されたが、彼は早々に子飼いの部下に実務を任せ、市街区の経営に戻った。

 鮮やかな手並み、というべきだろう。

 もっともヘリダンには引き続きオルガザード家筆頭騎士としてフューザリオン全体の治安を守る役割が与えられ、四つの作業村との物資のやり取りとその護衛までが任されていたから、とてもターテス村に張り付いているわけにはいかなかったのである。


 ともあれ、この年、バルドは旅に出ることはできなかった。

 バルド自身もしばしば視察や調整に駆り出されたからである。


〈バルド・ローエン〉

〈バルド・ローエン〉

〈バルド・ローエン〉


 8



 年が明けて四千二百八十五年。

 〈試練の洞窟〉の冒険から六年がたち、バルドは七十三歳になった。

 パタラポザが眠りについてから十二年目である。

 老いてなおたくましかった体は痩せてほっそりとし、髪は真っ白になった。


 このところバルドはよく考える。

 パタラポザのことを。

 あの怪物のことを。

 いや。

 あの怪物は本当にパタラポザなのか。

 大いなる暗黒神なのか。


 そうだとすれば、パタラポザを守護神と頂くバルドがかの怪物のものとなるのは、避けられない運命なのではないか。

 あの怪物を守護神としたときから、バルドはそのしもべとなる道をおのずから歩んでいたのではないか。


 いや。

 いや、そうではない。

 あの怪物が暗躍する姿は、歴史の闇に包まれながらも、わずかに人々の目に触れてきた。

 人々はかの怪物を暗黒神パタラポザと呼んだ。

 だから確かに、あの怪物は暗黒神パタラポザでもあるのだ。

 だがそれは、暗黒神パタラポザがすなわちあの怪物であるということにはならない。

 

 では、パタラポザとは何者か。

 なにゆえバルドはその神を守護神としたのだ。


 バルドは考えた。

 考え抜いた。

 おのれの心の奥底を、じっと見つめ続けた。


 パタラポザを守護神に選んだのは、確かに、それが人気のない神であり、たいていの神官はその教義など知らないからである。

 つまりくどくどとした説教をのがれやすいからである。

 しかし。

 しかし、そのもうひとつ奥の部分で。

 何かがあった。

 暗黒神パタラポザを自らの守護神に選ぶ理由が。

 そうしなければならない思いが。

 やむにやまれぬ思いが。


 バルドは反抗していたのだ。

 騎士たちが、美しいもの、善いもの、正しいもの、耳ざわりのよいものばかりを掲げ、宙に浮いたような騎士宣誓をするのに。

 なるほど、騎士の目指すところは真なるものであり善なるものでなければならない。

 だが現実を生きる騎士は、どうしようもないよごれの中を生きることになる。

 その現実に目を背け、口当たりのよい言葉をはくことが、真実の騎士宣誓たり得るのか。

 バルドはいつもそう思ってきた。


 パタラポザは、およそありとあらゆる悪徳の神である。

 妬み、恨み、憎しみ。

 征服欲、支配欲、所有欲。

 怠惰、絶望、恐怖、卑怯。

 嘘、欺瞞、裏切り。

 だがそれら悪徳から離れて人間の営みはあるのか。

 むしろ美しく生きようとすればするほど、嘘や裏切りにまみれ、果たしきれぬ正義にさいなまれながら、醜い姿をさらすのが、生きるということの実相ではないのか。


 善を望み、そのままに得られた善など、薄っぺらな自己満足にすぎない。

 おのれの中の悪と戦い、いかにしても完全には断ち切れない悪を抱えながら、血みどろでつかみ取った善こそが、本当の善である。

 善に喜びはない。

 善と悪のあいだに喜びはある。

 悪を知らない者、おのれの中の悪を認めようとしない者は、ついに真の善に到達することはない。


 もしも一切の悪を許さず断罪するとしたら。

 この世に人間の生きる場所はないことになってしまう。

 わずかな悪徳を慰めとして認めることさえできない狭量な審判は、人の心から安らぎを根こそぎ奪い取ってしまうだろう。


 そこには、ゆるす、ということが欠けている。

 悪を抱えざるを得ない人の弱さを認めゆるす、ということが欠けている。

 悪徳を抱えながらも生きる人の生き様を認め許し、その生き様をわずかに善に導くことこそが騎士の使命でなくてなんなのか。


 だからバルドは思ったのだ。

 心の深いところで願ったのだ。


 善の側にだけ身を置いて悪を切るだけの騎士にはなりたくない。

 みずからを顧みず、高みから人を裁くだけの騎士にはなりたくない。

 おのれの中の悪をきちんと見つめられる騎士になりたい。

 他人の中の悪を認め、その悪ごと人を愛し慈しむ騎士になりたい。

 人の心の中のよごれや悲しみを知り理解できる騎士になりたい。

 人の心の中の汚物をごくりと飲み込める騎士になりたい。

 そうバルドは心の中で叫んだのだ。


 その心の叫びが、バルドにパタラポザを選ばせた。

 人が聞けばぎょっとするような守護神である。

 だがパタラポザは、あるゆる悪徳の神であるとともに、それをゆるす神である。

 暗黒のとばりの中に、醜いもの、よごれたものを包み込んで、優しく包む神である。

 生きているその姿を丸ごと認められゆるされて、人は夜の安らぎの中に眠る。

 じつに人に平等の安らぎを与える神こそパタラポザである。


 バルドが守護神としたパタラポザとは、そういう神である。

 バルドがパタラポザを守護神としたのは、そのような意味合いからである。

 だとすれば。

 だとすれば。

 囚われの島で今にも眠りから覚めようとしている怪物は、パタラポザなどではない。

 少なくとも、バルドが守護神としたパタラポザではない。


 では、囚われの島の怪物とは何者か。

 それはおのれの欲望のため、パルザムの、ゴリオラの良臣たちの心を操り、裏切らせ、本人とその家族の将来を、命を奪わせた者である。

 魔剣一本を見つけるために、マヌーノを使役して八百の魔獣を作らせ、罪もなきトライを全滅させ、ロードヴァン城に勇士たちの血を流させた者である。

 バルドの心の中に以前ともった白い怒りの炎は、心の奥底で消えることなく燃え続けていた。

 その怒りを心の力として、悪霊の王と対決するのだ。 


 こうしておのれの心の中を整理していくことによって、バルドは怪物と対峙する心構えを作ることができた。

 しかし、今のバルドの心身は、老いゆえに、また限界を超えた酷使と、それに続く数年来の安楽な生活のゆえに、なまりきっている。

 このままでは対面できない。

 こんな状態でかの怪物と対面したなら、一瞬のうちに取り込まれ、相手のいいように操られてしまうだろう。

 それはヤナの腕輪があれば防げるというものではない。

 今のバルドは、さやだけで中身のない剣のようなものだ。

 いかな奇跡の魔具も、守るべきものがなければ守りようがない。


 旅に出よう。

 バルドは今度こそ決心した。

 確然とした騎士に戻るために。

 生涯最後の冒険となるであろう、怪物との対面に備えるために。

 旅に出ておのれを取り戻すのだ。


 バルドは四月を出発の時と決めた。

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