第7話 大障壁のかなた

 1


 バルドが目を覚ましたのは二月十八日である。

 一か月と二旬ほど寝ていたことになる。

 王宮の奥まった部屋に寝かされ、面倒はやはりカーズが、そしてタランカとクインタがみてくれたようだ。

 一週間してまともに話ができるようになると、ジュールラントが見舞いに来た。


「じい。

 じいには驚かされてばかりだ。

 だがじいの連れにも驚かされるな。

 カーズとジュルチャガを知ったときにも、いったいこんな優れた男たちをどこで見つけてくるのかとうならされた。

 今度もそうだ。

 教えてくれ。

 タランカとクインタとは、いったい何者だ。

 初めはただの従者かと思っていたのだが」


 話がよく分からなかったので、詳しい事情を訊いた。


 2


 バルドが魔剣から打ち出した無数の光の弾は、居合わせた誰もが見ることができた。

 その光弾に打ち抜かれた飛竜たちは意識を失い、墜落した。

 おそらく竜人たちも意識を失った。

 飛竜と竜人たちはすぐに意識を取り戻した。

 だが地面に激突する前に態勢を整えられたのは二十かそこらだ。

 残り百八十近くは態勢を整えきれず、地に体を打ち付けた。

 それでもその時点で死んだ飛竜や竜人はあまりなかったというから、恐るべき頑丈さである。

 しかし地に落ちた竜人たちは痛手を受けた。

 彼らが落ちたのは城壁の外側である。

 そこには外敵が身を隠せないよう、開け放しの広い空間が設けられている。


 この機をのがしてはならじと、騎士たちは馬を駆って城門を飛び出した。

 槍部隊が徒歩で後に続く。

 倒れ伏した竜人たちに、彼らは殺到した。


 そのとき、誰かが気付いた。

 東の空から来るものがあると。

 それは新手の飛竜であり竜人だった。

 最初に来た数と同等の数だ。

 すなわち二百に達する戦力だ。

 騎士たちは絶望を感じた。


 だが、二組の竜人たちの様子が妙だ。

 最初に来た竜人たちのうち空に戻れた二十騎ほどは、新手の竜人たちから逃げようとしている。

 新手の竜人たちは、先に来た竜人たちを追いかけ、捕らえていくではないか。

 そして新手の竜人の一人が地上近くに降りて来て、宮殿のベランダの前の中空で静止すると、こう言った。


「人間どもの頭よ、聞こえるか。

 私はササイア族族長ポポルバルポポの娘チチルアーチチ。

 この者たちはササイア族の反逆者であり、わがササイア族は人間どもと事を構える気はない。

 地上に落ちた飛竜と竜人たちは、手当をして連れ帰るゆえ、手を出すな」


 竜人チチルアーチチはそれだけ言って飛び去ろうとした。

 相手が聞いていようがいまいが構わない、といったふうである。

 だが大声で呼び止めた者がある。

 クインタである。

 クインタが脇の間からベランダに飛び出して竜人に声を掛けたのだ。

 ちなみにこのとき、バルドはカーズに支えられて脇の間に寝かされていたという。


「待て!!

 ササイア族族長の娘チチルアーチチ。

 竜人は人の言葉は解しても、人の礼義は知らないのか!

 誇りと節義は持たないのか!」


 チチルアーチチは飛竜の首を翻し、ベランダ近くに空中静止した。

 竜人の顔は、クインタの目の前にある。


「竜人が誇りと節義を持たぬ、とそなたは申したのか」


「そうだ。

 われらは竜人の襲撃を受け、迎え撃った。

 そして二百の軍勢のうち百八十を地に引き落とし、とどめを刺すところだった。

 そこにあなたがたがやって来て、負けた者たちを引き取りたいという。

 だが敗者を引き取るにはそれなりの作法があろう」


「小僧。

 お前たちを一人残らず引き裂いてから仲間を連れ帰ってもよいのだぞ。

 その口を閉じよ」


「あなたたちには、あなたたちの誓約があり、制限があるはず。

 ササイア族は人間と事を構える気はないと、あなた自身が言ったではないか。

 事を構える気がないというのなら、事を収める礼を尽くせ」


 竜人は、その恐ろしくも無表情な蛇眼で、クインタをにらみつけた。

 クインタはひるむことなく、竜人をにらみ返した。

 やがて竜人が言った。


「何が望みだ」


 ここでクインタはタランカを見た。

 タランカもまたベランダに出て来ていたのだ。

 タランカは一歩前に進み出て、落ち着き払った声で言った。


「出来事について説明を聞きたい。

 あなたがたは、なぜ霊剣とその使い手を欲したのか。

 あなたがたは、なぜ仲間内で相争ったのか。

 あなたがたは、なぜ人と事を構えないのか。

 そしてまた聞きたい。

 マヌーノを操り、多数の魔獣を作りだし、人の国を襲わせたのは竜人であったという。

 シンカイ国将軍ルグルゴア・ゲスカスのもとで人の心を操るまじないを行ったのも竜人であったという。

 そのことについてあなたがたが知っていることを聞きたい。

 われわれは、自分たちが受けた仕打ちにつき、その経緯と理由を知る権利がある」


 竜人チチルアーチチは、タランカとクインタを交互ににらみつけ、しばらくしてから答えた。


「それに答えるには族長の許可が要る」


 タランカは間髪を入れず、次の要求を口にした。


「では、われらを族長のもとに案内せよ」


 竜人チチルアーチチは、しばらくの沈黙のあと言った。


「すぐには、無理だ。

 族長は今体調が悪い。

 それに、お前たちに打ち落とされた仲間たちを治療し拘束して連れ帰らねばならぬ」


「こちらもすぐにでは都合が悪い。

 では四月の一日に迎えをよこせ。

 こちらの人数は最大で十人。

 この場所に迎えに来い。

 そして族長のもとに連れて行き、話が終わったらここに戻すのだ。

 何が話せて何が話せないか、そのとき族長が判断すればよい。

 以上と、その間危害を加えないことを誓約せよ」


「誓おう。

 貴様の名は」


「フューザリオンのタランカ」


 3


「いや、驚いた。

 じいたちは後ろのほうにいて直接やつらの攻撃を受けていなかっただろうが、それにしてもだ。

 あの場面であの恐るべき竜人に堂々と物が言えるのだからな。

 その場にいて聞きたかったぞ。

 しかもその要求たるや、まことに筋が通っており、熟考したかと思うような綿密さだ。

 結局のところ尊大な竜人も思わず、誓う、と言わされたのだからな。

 いや、まったくたいしたものだ。

 フューザリオンにはあんな従者がごろごろしているのか」


 驚いたのはバルドだ。

 そんな場面でよくもタランカは堂々と交渉を行ったものだ。

 エングダルから竜人たちは異様に気位が高いと聞いていたが、その気位の高さを利用して注意を引いた点も見事だ。

 バルドは、そのあとはどうなったのかと訊いた。


 クインタはカーズを連れてシャンティリオンのもとに走ったという。

 そして竜人たちとのあいだに和平がなったと告げた。

 タランカは王宮の奥に走り、ジュールラント王に事の顛末を告げ、王の名をもって停戦の命を出してほしいと懇請した。


 結局、竜人たちがすべての負傷者を回収するには、二日ほどかかった。

 その間、重臣たちの指示を受けた使者が何回か交渉しようとしたが、竜人たちはまったく呼び掛けに応えなかった。

 いや、一度だけ返答があったらしい。

 それは、「約定はすでに族長の娘チチルアーチチとフューザリオンのタランカのあいだで交わされた」という返答だ。

 取りつく島もなかった。


 戦闘が終わり、エングダルたちは帰ると言った。

 ジュールラントは感謝の宴席を設け、その場でエングダルに訊いた。


「エングダル殿、このたびのご助勢に感謝する。

 わがパルザム王国は、ゾイ氏族の勇猛さを強く胸に刻んだ。

 ところで、四月一日に竜人たちのすみかに行くのだが、御身らは同行されないのか」


「やつらと話すことなどない。

 やつらがまた手出しをしてきたら、ゾイ氏族を呼ぶがいい。

 やつらはまたも痛い目をみることになるだろう」


 エングダルたちは、ジュールラントが付けた使者に先導されて居住地に帰った。

 バルドの目が覚めたら、いずれまたやって来いと伝えるよう言い残して。


 これがジュールラントから聞いた事の経緯である。

 三日後、重臣会議が開かれた。

 竜人に対する今後の対応を協議するためである。


 この前日、バルドはタランカとクインタの騎士叙任を執り行った。

 タランカは十九歳。

 クインタは十七歳。

 いささか若年ではあるが、その武芸はいずれも辺境競武会で優勝できるほどのものである。

 積んだ経験も、貴族家で安閑と過ごす騎士子弟など及びもつかぬ密度の高いものだった。


 さて、重臣会議にはバルドとともにタランカも出席を求められた。

 重臣たちからは、タランカを批判する声も挙がった。

 しかるべき身分の者たちを差し置いて、他国のそれも従者にすぎないタランカが、勝手に竜人と交渉を行ったことについてである。

 逆に賞賛する声も挙がった。

 あそこで声を掛けなければ、竜人チチルアーチチは引き上げてしまい、交渉はできなかったからである。

 またタランカはただの従者であるとはいえ、バルド・ローエン卿の側近である。

 バルドはパルザムにとって恩人ともいうべき独立騎士であり、その意向を受けてタランカが行った交渉なのであるから、事の理非はバルド・ローエン卿にただすべきであるという意見もあった。

 そして、ともかくまずはタランカにあの場での発言の真意をただし、議論はそれからということになった。

 発言を求められたタランカは、胸を張って堂々と声を発した。


「フューザリオンのオルガザード家の騎士、タランカであります。

 かの竜人の襲撃の時点では従騎士でありましたが、昨日バルド・ローエン卿の導きを受け騎士に叙せられました。

 出過ぎたまねをいたしましたこと、おわび申し上げます。

 しかしながらあの場でクインタと私のいたしましたことは、次に向けてのつなぎを作るということであり、そのあとのことについてはご協議の上よろしいようにお進めいただければと存じます。

 さて、まず、なぜあの場でクインタが竜人チチルアーチチに声を掛けたかです。

 あのときチチルアーチチと会話ができる距離には、パルザムの主立ったかたはおられませんでした。

 王陛下も側近のかたがたも、また重臣のかたがたも、宮殿の奥まった場所を目指して移動中であったのです。

 また広場におられた騎士のかたがたのうち、話のできるかたは城門の外に飛び出しておられました。

 けれどあのときしか竜人チチルアーチチと対話できる機会はなかったのです。

 あの一瞬を逃せば、人間の言葉を話し、しかも指導的な立場に立つ竜人と話す機会は永遠に失われたかもしれません。

 誰かが行動しなければならなかったのであり、たまたまそれをできたのがクインタであり、私であったのです。

 また、私とクインタは、この事柄の当事者であるバルド・ローエン卿の名代として発言いたしたものであります。

 かねてからローエン卿よりこのことについては深く事情を聞き受けており、ローエン卿の意図するところを酌み取って、あのような行動を取ったものであります」


 ここでタランカはしばらく言葉を切って、目を閉じた。

 頭の中を整理するかのように。

 だが実際には、これは聞く者たちの頭に言葉の意味が染みるのを待っているのだ。

 よしよし、とバルドは心の中でうなずいた。


「次に、私が竜人チチルアーチチに要求した事柄の内容を説明いたします。

 まず私は、彼らがなぜ魔剣とその使い手を欲しがったのかを聞きたい、と申しました。

 このことを聞かなければ、魔剣とその使い手を得ることで彼らが何を得るのかが分かりません。

 それは彼らをどう益するのか。

 そのことが分かれば、魔剣とその使い手を彼らに差し出すことが、大陸の国々にとりいかなる意味を持つのかも知れるでありましょう。

 次に私は、彼らがなぜ仲間内で争ったのかを聞きたい、と申しました。

 昨年六月この王宮に現れた竜人は、トトルノストトの使い、と名乗ったと聞いております。

 族長の使い、とは名乗らなかったのです。

 いっぽうチチルアーチチは、族長の娘であると名乗りました。

 おそらく族長派と反族長派があるのです。

 古き誓約と長年の習慣を破ってまで反族長派が人間の世界に表立って干渉しようとした理由は何か。

 そこに現在の大陸を取り巻く見えざる危機を明らかにする鍵があります」


 タランカは再び言葉を切ってから、張りのある声で話を続けた。


「次に私は、彼らがなぜ人間と事を構えないのかを聞きたい、と申しました。

 ゲルカストの証言により、竜人は古の偉大な王により大障壁の外に追われ、人間に手を出さないよう誓約を科せられたことが分かりました。

 しかしその誓約を彼らに守り続けさせるには、彼らがそれを破りたくない何かの理由が現在もなくてはいけません。

 それが分かれば、彼らから身を守るための道がみえる、と考えたのです。

 そして私は言いました。

 第一次、第二次諸国戦争の背後で竜人が果たした役割は何であるのかを知りたいと。

 このことについては、どの程度竜人全体に関わる問題であるのかが分からなかったので、そういう言い方になりました。

 しかしあの戦争の背後で、竜人たちが何事か関わっているのは間違いないと思われます。

 あの戦争の不可解な部分に、竜人たちの動きがあったと思われるのです。

 それを知ることは、大陸の平和のために重要であると考えました。

 最後に」


 タランカは、ごくりとつばを飲んで、言葉を続けた。


「私は四月一日に、迎えに来るように、と申しました。

 また、こちらから行く人間は最大十人であると。

 それだけの期間があれば、じゅうぶんな協議をしたうえで、誰がどのような方針をもって行くのかを決められる、と考えたのです。

 以上のように、矢継ぎ早に問いただしたい事項を挙げ、迎えに来ることと送り届けることとその間の安全を保証させました。

 あの場でそうする必要があったのです。

 なぜなら、竜人チチルアーチチからすれば、攻撃隊の百八十体を地上に引きずりおろした攻撃がいかなる種類のものか分からず、その使い手であるバルド・ローエン卿が意識を失っていることも分からなかったはずであり、こちらが未知の攻撃手段を持っていると疑うべき状況でした。

 また現に百八十体の仲間が地に落ち、騎士のかたがたがとどめをささんと駆け寄っておられました。

 いわば人質を取っている状態だったのであり、有利な交渉をできる唯一無二の機会であったのです。

 さて、その代表十人の内訳は、皆様でお決めくださればけっこうなことではありますが」


 タランカは、居並ぶ重臣たちをぐるりと見渡して、最後の言葉を発した。


「その十人の中には、必ずわが師父バルド・ローエン卿を入れていただきたい、と存じます」


 議場は騒然とした。


 4


「ばかな!

 何を考えておる。

 やつらは魔剣と魔剣の使い手を求めておるのだぞ。

 飛んで火に入る夏の虫ではないか」


「きゃつらは、人の心を操るというではないか。

 ローエン卿を意のままに操られてみよ。

 どのようなことになるか!」


「再び竜人どもが襲い来たとき、ローエン卿なくしていかに戦えというのか!」


 重臣たちの怒号が飛び交うなか、バルドは感動に包まれていた。

 そうか。

 そうじゃったのか。

 それで分かった。


 バルドも不思議に思っていたのだ。

 破壊の権化である恐ろしき竜人たち。

 二百もの竜人を率いてきた族長の娘チチルアーチチに対し、クインタは、タランカは、なぜ物を言えたのか。

 物を言うどころではない。

 対等にといってよいほど、堂々と渡り合えたのか。

 あらかじめ考えていたかのように、要求とその正当性を訴えられたのか。

 考えていたのだ、あらかじめ。

 あれは、クインタとタランカが待ち望んだ瞬間だったのだ。


 バルドは、この旅の目的を話して聞かせた。

 一緒にイエミテに会い、エングダルに会った。

 魔獣の謎を、精霊たちの秘密を、バルドと霊剣を狙っているというものの正体を、何としても知りたいとバルドが願っていることを知った。

 そのバルドの願いを、タランカもクインタもおのが願いとしたのだ。


 秘密の鍵を握るのは竜人たちである。

 その竜人たちが、パルザムの王宮に攻め寄せてくるという。

 好機だ、とこの若者たちは思ったのだ。

 竜人に直接疑問をぶつけ、謎の答えを知る千載一遇の機会だと。


 だからパルザムの誰もが、どうやって竜人たちに勝つかばかり考えていたとき。

 この若者たちは、いかに竜人との交渉の道を開くか、そればかりをおそらくは考えていた。

 だからあのとき、ああも素早く、ああも的確に、竜人の族長の娘に相対することができたのだ。

 バルドの願いをおのが願いとして。

 この若者たちは、その道を切り拓こうとした。


 いや。

 今もしている。

 胸を張り、目を輝かせて、あらゆる罵声を受け止めるタランカを、バルドは見つめた。

 精一杯の虚勢を張って、この若者はわしのために戦ってくれている。

 わしの願いをかなえるために。

 わしが訊きたかったことを訊ける相手に会えるように。


 大国の巨大な宮殿の奥まった部屋に押し込められ。

 豪華でおどろおどろしい装飾や調度に囲まれて。

 身分高く経験豊かな重臣たちの集団を前にして。

 一歩もひるむことなく。

 どんな質問にも答えてみせるぞとばかりに胸を張って。

 わしのために戦ってくれているのだ。


 バルドは胸の奥が熱くなるのを感じた。


 5


 思うところを吐き出しきってみると、重臣たちも落ち着いた。

 そうして話し合っていったところ、バルド・ローエンが竜人の族長に会う、というのはそれほど悪い考えではない、ということになった。

 どのみち魔剣を得ようが得まいが竜人たちは人間に対して圧倒的に優勢である。

 となると、あちらに行ってどれだけのことを見聞きできるかが問題だ。

 そのことにバルド以上に適任の者はいない。

 それにもう約束は交わされてしまった。

 あとは誰が行くか、という問題だ。

 この点について、タランカはパルザムの重臣たちに決定権を与えた。

 だが、結論からいえば、彼らはそれを放棄した。

 つまり、パルザムから人は出さない。

 このことについてパルザムは関わらないというのだ。

 竜人の族長に会いに行くのは、フューザリオンのバルド・ローエン卿とその従者たち。

 そう決まった。


 バルドにとってひどく意外な、拍子抜けする結論だったといえる。

 これほど重要な問題はないといってよい。

 なのになぜ、パルザムの重臣たちは関わろうとしないのか。

 この交渉の場には、相当な人物を代表に送り込み、主導権を取るだろうと思われた。

 ところがその代表をそもそも派遣せず、バルドたちに交渉を委ねるというのである。

 不思議でならなかった。

 そのわけは、会議のあとでジュールラントから聞いた。


「実のところ、じいが眠っているあいだに下話は済んでいたのだ。

 この件について、パルザム王国からは代表を派遣しない、というのが重臣どもの結論だ。

 初めは俺も驚いて反対した。

 竜人のことはこの国にとって大問題だ、と思ったからな。

 やつらの規模、戦力、居場所、意図、戦略。

 そうしたことを調べていかねばこの国の安寧は図れない。

 それにいわば突然殴りかかられたようなものだからな。

 それなりのけりをつけなければ、国の面子が立たない。

 そう思ったのだがな。

 ところが重臣どもは、まったく乗り気ではなかった。

 それにはな、理由があるのだ。

 今、この国は上り調子にあるといっていい。

 いや、それもじいのおかげによるところも大きいのだがな。

 二度にわたり諸国戦争を勝ち抜き、ファーゴとエジテの反乱を抑えた。

 ゴリオラ皇国との商業交流も盛んで、南部地方の国々からの仕入れも爆発的に増加している。

 三国通商同盟は、今では八か国もの新しい加盟国が参入してきている。

 パルザムの庇護下に入りたいという国や都市も多い。

 テューラ国とセイオン国も、ゴリオラに蹂躙された経験から、非常にわが国に有利な形で、三国通商同盟とは別の防衛協定と通商協定を求めてきた。

 ものすごい利権が飛び交っているわけだ。

 重臣たちは、そちらに力を集中したいのだな。

 重臣たち同士の中でも、どれだけ勢力を伸ばすか競争になっている。

 今遅れを取った者は、将来においても遅れを取ったままとなるだろう。

 無理に命令すれば、重臣たちのうち、俺の傘下にある者を派遣することもできた。

 だが竜人たちとの折衝にかり出された者は、利権争いで遅れを取ることになる。

 つまり俺は自分で自派の勢力を落とすことになるわけだ。

 それにまた、やつらが人の心を操るすべを持つことが明らかになったからな。

 誰も行きたいと思わんわけだ。

 一度行けば、竜人に心を操られたかもしれない人間、という目で生涯みられることになる。

 そんな危険を冒すだけのうまみが、竜人には感じられないのだな。

 なにしろ大障壁の外側に住んでいるやつらだ。

 戦いようもないし、戦って勝ったとしても奪う領地がない。

 火中の栗を拾ってくれる者があるなら、全部そちらに負いかぶせて、もう竜人のことなどなかったことにしたいのだ。

 というより、竜人ササイア族族長の娘チチルアーチチが、人間と事を構える気はないといった以上、もう関係を持つ必要もない、というのが重臣たちの考えだ。

 そんなことではいかんと俺は思ったが、よくよく考えてみて気が変わった。

 国の代表を出すということは、その代表が持ち帰る報告も、広く知られてしまうということだ。

 だがあの竜人たちがにぎっている秘密は、うかつに広めないほうがいいような気がするのだ。

 何かとんでもない秘密が出てきそうな気がする。

 だから、じい。

 帰って来たら、俺にだけ報告してくれ。

 それにな、じい。

 先ほどは利権という言い方をしたが、これはまたとない好機なのだ。

 パルザムは大国だが、貧しい者も多い。

 この王都にしても下層の住民の暮らしぶりはひどいものだ。

 また王国内の各村も、貧しいところはとことん貧しい。

 ろくろく物も食わず、子を売って冬をしのぐ親も少なくないのだ。

 豊かにならなければならん。

 貧しい者が豊かになるには、まず国全体が豊かにならねばならん。

 そして商売が盛んになって物の動きが活発になることが必要だ。

 今はその、またとない好機なのだ。

 ふふ、じい。

 じいには教えておこう。

 南方との交易の呼び水の一つになったのは、茶の取引なのだ。

 南方の銘茶の味を知った諸侯が、貿易に乗り気になったというわけだ。

 それにしても、竜人の国か。 

 やれやれ。

 こんな椅子に縛り付けられているのでなければ、俺が行きたいところなんだがなあ。

 どんな場所なのか。

 実にわくわくするではないか。

 じい。

 報告を楽しみにしている。

 だから必ず無事に帰って来てくれよ」


 なんということだ。

 重臣たちは、タランカが竜人たちとの交渉の道を開いたことを、まったく歓迎していなかったのだ。

 余計なことをする、としかみていないのだ。

 族長の娘チチルアーチチが、人間と事を構える気はないと言ったことで、もうそれでじゅうぶんだと思っているのだ。

 関わらずにすむのならそれでいいではないか、としか考えていないのだ。


 バルドは重臣たちの頑陋がんろうぶりに腹が煮える思いがした。

 竜人の言葉などのどこが信じられるというのか。

 やつらの都合が変われば、たちまち諸国はやつらの爪にかけられることになる。

 それにやつらの背後の動きが気にならないのだろうか。


 気にならないのだ。

 今はそれどころではないのだ。

 たとえ明日どんな危険が待っているにせよ、今は目の前に利権がある。

 可能な限りのうまみをつかみ取ることが、自分のためであり、家のためであり、国のためだ。

 目の前のうまみを放置しては、今日が生きられない。

 彼らはそう考えているのだ。


 では。

 では。

 タランカが必死の思いで張った論陣は、すべて徒労だったというのか。

 茶番劇だったというのか。


 いや。

 いいや。

 そんなことはない。

 あれは古木こぼく若枝わかえだに道を譲った、という出来事だったのだ。


 パルザムは古い国である。

 進取の気風は失せ、守勢の発想が重臣たちをおおっている。

 彼らにとり、竜人たちとの関わりは、益のみえないものなのだ。

 パルザムにとり竜人は、できるだけ関わりになりたくない存在なのだ。

 目の前でその恐ろしさを見たというのに、彼らの心には竜人の存在が脅威とは映らない。

 口ではいろいろに言うが、心の底から脅威には感じていない。

 竜人などという、それまでの常識にないものを、彼らの心は受け入れないのだ。

 パルザムは今までも続いてきたし、これからも続いていくだろう。

 そう彼らは思っている。

 その中でいかに優位を勝ち取るか。

 それだけが問題なのだ。


 対して、フューザリオンは新しい国である。

 まだ国としての規模は備えていないが、志においては国であるといってよい。

 未知なるもの、不可思議なるものを求め見極め取り込もうとする精力にあふれている。

 外へ外へと発展し展開していこうとしている。

 その若木のような成長力は、大障壁すら越えて枝を伸ばそうとしている。


 このたびのことは、そのフューザリオンの若き生命力が、老いたパルザムの無気力を圧倒したのだともいえる。

 現にみよ。

 竜人の族長の娘が現れたとき、面と向かって物が言えたのは、若きクインタとタランカだけだったではないか。

 この国の重鎮やら外交折衝の要といわれるような人々も、逃げ惑い恐れざわめくばかりだったではないか。

 タランカとクインタのみが、雄々しくチチルアーチチと渡り合うことができた。

 重臣会議でも、堂々とその行為の意味を説くことができた。

 結局重臣たちはそれに押し切られた。

 タランカとクインタは、パルザムという大国の政治の怪物たちを相手に論戦を挑み、見事勝ったのだ。


 このことを別の面から考えれば、どうなるか。

 バルドの顔には不敵な笑みが浮かんでくる。

 今はまだフューザリオンは小さな小さな存在に過ぎない。

 しかしやがて辺境の一大勢力となる。

 そしてフューザリオンとパルザムが対峙したとき、パルザムは決してフューザリオンに対して優位に立てないだろう。

 獣同士の威勢でも、一度尻尾を巻いたものは、相手に二度と頭が上がらない。

 今回、その理由はどうあれ、パルザム国の重臣たちは、タランカとクインタの前に尻尾を巻いたのである。

 あの若き二人にである。

 やがてタランカが宰相になり、クインタが騎士団長となったとき、いったいパルザムの誰が太刀打ちできるというのか。


 それに、物は考えようだ。

 パルザムから代表が出ないということは、邪魔が入らないということだ。

 バルドの思う通りに竜人たちとの対話が進められるということだ。

 大いに結構なことではないか。


 ふふ。

 茶か。

 茶の取り引きが貿易活性化の呼び水になったのか。

 シェルネリア姫は、やはり後宮にひきこもっているだけの妃ではなかったということだ。


 さて。

 竜人の住みかとは、いかなる場所か。

 それは大障壁の外側であるという。

 つまりバルドは、大障壁の外側を見られるのだ。

 それはバルドが知る世界の、その外側である。

 どんな世界が見られるのだろうか。


 6


 四月一日までの時間を、バルドは無駄にしなかった。

 バリ・トード上級司祭に相談しながら、フューザリオンへの移住者を募集したのだ。

 まず欲しかったのが紙漉職人とインク職人である。

 木彫りや指物さしものの職人も必要だ。

 煉瓦職人も欲しい。

 それに鉄や各種の金属の精製ができる技術者が要る。

 大工もまだまだ足りない。

 ガラス職人も忘れてはいけない。

 何しろ、鉄や銅や錫や石英の出る山はどんどん見つかっているのだ。

 だがそれを利用する技術がない。

 バリ・トードは大いに喜んで、孤児院出身者を中心に四十人もの移民団を編成してくれた。

 各種の機材も買い込んだ。

 バルドは王から受けた報償の大半をまだ王宮に預けてあったので、資金は潤沢だった。

 馬車は十五台手配した。

 クインタをつけることにしたものの、どうしても護衛が足りない。

 こんな豪華な一団は、当然盗賊たちから目を付けられやすい。

 傭兵を雇えばよいのだが、下手な護衛を雇えば送り狼と化す。

 この悩みを解決してくれたのはシャンティリオンである。

 なんとシャンティリオンは、側近の騎士ナッツ・カジュネルを貸してくれたうえ、修行という名目で五人の従騎士をつけてくれたのだ。

 バルドは感激した。

 のちになって、このとき騎士ナッツがシャンティリオンから密命を受けていたことを知り、その感謝は半減するのだが。

 密命とは、騎士クインタおよびフューザリオンの人々からバルド・ローエン卿の未知の事跡について聞き取ること、というものである。

 むろんバルドは、シェルネリア妃とバルドラント王子にも会った。

 これほど高貴で可愛い幼児は見たこともない。

 バルドの目尻はだらしなく下がっていた。

 クインタは自分が竜人の本拠地に乗り込めないと知ると、ひどくがっかりした。

 だがバルドの命に従った。

 バルドとしても、竜人の本拠地に乗り込んで、本当に無事に帰れるかどうか不安もあったから、タランカとクインタの両方を失うことだけは避けたかったのである。

 三月三十二日に移民団を送り出し、バルドは四月一日を待った。


 6


 四月一日が来た。

 約束通り、彼らはやって来た。

 パルザム王宮前の広場に降り立った飛竜は十騎。

 たった十騎なのだが、翼を広げて舞い降りるその量感は、騎士団一個軍団にも匹敵する。

 いや、戦闘力では一個軍団を凌駕するだろう。

 それぞれに一人ずつ竜人が乗っている。

 着地するや竜人たちは飛竜から降りた。

 先頭の竜人が、立って待ち構えるバルドたちの前に進み出る。

 ぐるりと周りを取り囲んでいる騎士団員たちには目もくれない。

 堂々たるものである。


「あれが族長の娘チチルアーチチです」


 と、タランカが小声でバルドに告げる。

 竜人のことをマヌーノの女王は、腐れトカゲ、と呼んだ。

 だが竜人の姿は必ずしも蜥蜴ナーダに似ていない。

 むしろ海老ケコアルイバームを思わせるものがある。

 鼻覆いが飛び出した形の兜を着けたかのような頭部。

 その額にあたる部分には第三の目がぼんやりとした光を放っている。

 全身は硬質な甲殻に覆われている。

 まるで甲冑をまとっているようだ。

 腕の先には三本の凶悪なかぎ爪とそれに向き合う一本の短く太い指が付いている。

 足の指も同じく三本で、かかとの側に短い一本が突き出ている。

 まるで地を噛むように湾曲しているのだが、一本一本の指はひどく強靱で長い。

 たぶん獲物をつかんで絞め殺せるような指なのだ、とバルドは思った。

 そして長大な尻尾。

 なるほどこれを見れば蜥蜴に似ているといえる。

 この尻尾が振るわれれば、鎧を着けた騎士をも吹き飛ばすのである。

 バトルハンマーなみの威力が、この尻尾にはある。

 チチルアーチチの身長は他の竜人より少し低く、バルドとほぼ等しい。

 竜人の男女の別はみても分からないが、若干他の竜人のほうが大きく、青黒い表皮の色が濃いようにも思える。

 チチルアーチチは、まっすぐタランカに向かってやって来た。


「フューザリオンのタランカ。

 約定により、迎えに来た」


 驚いたことに、チチルアーチチはタランカの顔を覚えていたようだ。

 バルドには、チチルアーチチと他の竜人の区別はなんとかつくが、他の竜人同士の見分けはつかない。

 みな同じ顔、同じ姿に見えてしまう。

 呼ばれたタランカは一歩前に進み出た。


「イステリヤのチチルアーチチ殿。

 お越しいただき、感謝する」


「フューザリオンのタランカ。

 お前の要求を族長ポポルバルポポに伝えた。

 お前とその仲間を、わがイステリヤに案内し、族長に会わせる。

 会談が終わったあとは、ここまで送り届ける。

 ただしお前の質問の何に答え、何に答えないかは、その場で族長が判断する」


「それで結構です。

 ありがとう」


 タランカは、にこりと笑った。

 人間のおなごであれば、思わず頬を染めてしまうような笑みだ。

 気のせいか、チチルアーチチが少しむっとしたようにバルドは感じた。


「それで結局何人が来るのだ」


「ここにいる四人です」


「そうか。

 行くのに一日、帰るのに一日、会談に一日だ。

 三日分の食料を持て」


 これを聞いてバルドはほっとした。

 それぞれの荷物には五日分の食料が詰まっている。

 そのほかに、最大二十日分の食料を入れた袋を用意したが、正直重いので、持って行かずにすめば、それにこしたことはない。


「五日分の食料を用意してあります。

 ただし、水は分けていただけませんか」


「分かった。

 水は与えよう。

 用意はいいようだな。

 では出発する」


 チチルアーチチの案内にしたがって、四人はそれぞれ飛竜のもとに歩いた。

 タランカはチチルアーチチ自身の飛竜に同乗するようだ。

 四人はみな厚着をしており、手には手袋を着けている。

 高いところは寒いからと、タランカが指示したのだ。

 またそれぞれ厳選した荷物を背中に負っている。

 五日分の食料を用意するというのもタランカの指示だ。

 相当の長距離を飛ぶ飛竜にとって、人間一人の重さが加わるだけでかなりの負担なのだから、荷物は極力少なくするようにとも、タランカは指示したのである。


 タランカ以外の名前を聞かれなかったのは幸いだった。

 バルドはできれば名乗りたくなかったのだ。


 バルドは割り当てられた竜人のもとに進んだ。

 竜人が飛竜の足をたたいた。

 すると飛竜が首を地につくほど下げた。

 竜人が乗るように促したので、バルドは飛竜の首に乗った。

 そのバルドの後ろ側に竜人は乗った。

 そして皮のベルトを回して、バルドと自分をくくりつけた。

 万一にも飛竜から落ちないようにとの配慮だ。

 見れば他の三人も同じようにされている。

 これもチチルアーチチの指示なのだろうか。

 存外、気を遣ってくれているのかもしれない。


 チチルアーチチが右手を上げ、竜人の言葉で何かを叫んだ。

 そして手綱を振った。

 バルドを乗せた竜人も手綱を振った。

 十騎の飛竜が一度にばさりと翼を広げた。

 壮観である。

 十騎の飛竜は地を蹴り、翼をはためかせて中空に躍り出た。


 どん、と緩い衝撃がきたかと思うと、体はふわりと空に舞った。

 地を離れる瞬間、というのはこういうものなのか。

 一種異様な感慨が体に満ちた。

 思えば生まれてこのかた六十有余年、常に大地が足の下にあった。

 常に大地に支えられて生きてきた。

 今自分は、その大地から離れるという経験をしつつあるのだ。


 ぐんぐんと翼を振って飛竜は空を翔け昇る。

 見上げるようだった宮殿の尖塔が、目と同じ高さに迫った。

 バルドは下を見下ろした。

 シーデルモントが、シャンティリオンが、目を見開いてこちらを見上げている。

 二人だけではない。

 騎士たち全員がそうである。

 ふと見ればベランダの脇の部屋の窓からジュールラントがこちらを見ている。

 そのまなざしは羨望そのものだ。


 鳥が飛ぶのは当たり前だ。

 竜人が飛ぶのも当たり前である。

 だが人が飛ぶのは当たり前ではない。

 今バルドはその当たり前ではない経験をしている。

 予期していたこととはいえ、人が大空を飛ぶという出来事を目の当たりにしたとき、人は驚くしかない。

 まさに歴史始まって以来なかった体験を、バルドたちはしているのだ。


 宮殿の尖塔の倍ほどの高さに上がったとき、飛竜の群れは右に大きく旋回した。

 王都の街並みが見える。

 おお!

 おお!

 家が、人が、まるでおもちゃのようだ。

 空から見る景色とは、このようなものなのか。


 そしてさらに高く飛竜は飛び、王都全体が見渡せる高さにまで上った。

 なんということだ。

 まるで両の手のひらの上に王都をすっぽり乗せてしまえるかのようだ。

 高く飛ぶ、ということは、こういうことだったのか。

 これほど偉大で感動的な出来事だったのか。

 バルドは胸の詰まるような感銘にひたされて、涙がこぼれそうになった。

 眼下にあるのは、まったく知らなかった光景である。

 すべてを見下ろす、ということがこれほどの快感であるとは。

 ああ!

 山が。

 森が。

 遠くの街が、村が。

 高所から見下ろせば、茫漠とした山脈も、その形がはっきりと分かる。

 街や村がどのようにつながり、どのように離れているか、はっきりと分かる。


 そしてこの速度!

 ぐんぐんと飛竜は速度を上げていく。

 それに従い、眼下の風景は踊るように入れ替わってゆく。

 なんという愉快さ。

 なんという爽快さ。

 吹き寄せる風に、革鎧の兜は吹きはがされてしまったので、首の後ろにまるめた。

 顔に当たる風はたたきつけるような激しさで、髪もひげも千々に乱れて顔を打つ。

 それさえも、今のバルドには楽しくてならなかった。

 とても目は大きく開けていられないので、薄目で四方の風景を眺めるのだが、それは見飽きることのない絶景だった。


 やがて前方に大オーヴァが見えてきた。

 もうここまで来たのか!

 バルドは驚倒した。

 なんという速度か。

 飛竜の機動力というのは、まったく人間の想像できる範囲を超えているといわねばならない。

 左から右へと流れていくオーヴァの流れのもとをたどれば、いつのまにか霊峰フューザがおぼろげに姿を現していた。

 と、視界の端に見えたものがある。

 あれは……ロードヴァン城じゃ!

 視界の端にわずかに小さく見えるだけなのだが、それはまぎれもなくロードヴァン城である。

 ということは、飛竜はまっすぐ東に飛んでいるようにみえるが、わずかに北よりに飛んでいる、ということである。


 そう思う間もなくオーヴァ川の上空に達した。

 見渡す限り、下界は水である。

 水の上に霧がたっているのか、遠景はかすんでいる。

 はるかに見下ろすオーヴァは銀の盾のようにきらきらきらめいて静かである。

 そのオーヴァもすぐに通り越して、十騎の飛竜は大陸東部辺境に達した。

 見渡す限り山と谷が連なり、ところどころに平野がぽつんと顔を出す。

 やがて辺境としてはなかなか大きな街が前方に見えてきた。

 あれは。

 クラースクではないか!

 確かにクラースクの街だ。

 見覚えのある領主館がある。

 ということは、パクラ領よりは相当北に来ているということであり、やはりこの一団は東北方向に飛んでいるのだ。


 そして今や前方に〈大障壁〉が見えてきた。

 このまま十騎の飛竜は〈大障壁〉を越えるのだろうか。

 人間がその外側にまだ足を踏み入れたことのない未知の地に、飛竜たちは飛んでいくのだろうか。

 こうして上空から見れば、〈大障壁〉の長大さがいやがうえにも理解できる。

 見渡す限り切れ目もなく、北から南へと続くジャン王の大いなる壁。

 人と魔獣を分ける境界。

 その上を。

 今、飛び越した。


 たちまち眼下に広がるのは濃密な密林である。

 木々は太く大きくびっしりと生え連なっている。

 見渡せど、見渡せど、そこには村も町もない。

 人の痕跡のない土地、すなわち獣たちの楽園である。

 バルドは目頭が熱くなるのを抑えられなかった。

 この密林の広大さは、どうか。

 なんと果てなく広がっていることか。

 そのことがうれしくてたまらなかった。

 さらにしばらく飛ぶと、巨大な山があり、一行はそこに降りた。


 7


 そそり立つ山の頂上近くに、ぽっかりと開けた地点があり、そこには美しい湖があった。

 十騎の飛竜が降り立ったのは、そのほとりである。

 チチルアーチチが何かを言ったが、バルドには聞き取れなかった。

 見れば竜人も人間も飛竜を降りている。

 ここで休憩を取るということなのだろう。

 バルドを乗せている竜人もベルトをほどいてくれた。

 飛竜から降りようとした。

 が、体がうまく動かず、頭から地に落ちかけた。

 それを誰かが支えてくれた。

 カーズだった。

 礼を言おうとして、口がうまく動かないのに気付いた。


 カーズとカーラがバルドを介抱してくれた。

 タランカが手際よく枯れ木を集めてたき火をたいた。

 スープも沸かしてくれている。

 カーラがバルドの手袋を脱がせ、もみほぐしてくれる。

 そのときになって、やっとバルドは自分が凍えているのに気付いた。

 やがてこわばっている指も口も動くようになり、意識もはっきりしてきた。

 温かいスープを飲んで、人心地がついた。

 たき火にあたり、スープを飲みながら、バルドは目の前の光景に心を奪われていた。


 澄み切った青い湖。

 その向こうには四月だというのに頂に雪を抱いた山頂。

 湖にはその山頂がくっきりと映り込んでいる。

 青く透き通る空を、いくつもの真っ白い雲が横切っていく。

 その雲は、手を伸ばせば届きそうなほど近い。

 そして目の前の湖には、その漂う雲が余すところなく映り込んでいる。

 飛竜たちが水を飲むために湖に口をつけると、さざ波が起きる。

 そのさざ波が、映り込んだ白い山頂を揺らめかせる。

 美しい、とバルドは思った。


「大丈夫か」


 チチルアーチチが近づいてきて、バルドに言った。

 バルドは、大丈夫じゃよ、と答えた。

 それから、こう付け加えた。


  いつも見る飛竜はひどく高い所を飛んでいるのに、今日はそれほどの高さではなかった。

  わしらのために、低い所を飛んでくれたのじゃな。


「高く飛べば飛ぶほど空気は薄く、風は冷たい。

 低く飛んでも、早く飛べば飛ぶほど、風は冷たい。

 午後は長い距離を飛ぶ。

 しっかり体を温めておけ」


 バルドもすっかり食欲が回復していたので、チチルアーチチの助言にしたがった。

 つまりたっぷりと食事をして体を温めたのである。


 食事が済むと、十騎の飛竜は再び空の客となった。

 バルドたちは、それぞれ違う飛竜に乗り換えることになった。

 先ほど人間を乗せていなかった飛竜に乗り換えたのである。

 ただしタランカだけは、引き続きチチルアーチチが乗せた。


 バルドは帽子をかぶり直し、外れないようにしっかりと留めた。

 また石ころを温めて布で包み、腹に巻いた。

 飛び立った飛竜は、朝よりもさらに低く飛んだ。

 バルドたちの負担を減らすためだろう。


 しばらく飛ぶと、密林の切れ目が見えた。

 だが、その向こうにあるものは何だろう。

 きらきらと輝く、あれは。

 あれは、まるで……。

 このときバルドは、以前にザリアから言われたことを思い出した。


「バルド・ローエン。

 あんた、大障壁の向こうに何があるか知ってるかい?

 ふぇふぇふぇ。

 そうさ、そうさ。

 魔獣の棲む森が広がっている。

 じゃあ、その向こうには何があると思う?

 分からないかえ。

 そうだろうねえ。

 常識では考えもつかないさ。

 水だよ。

 塩水さ。

 人の住む地はぐるりと大障壁で囲まれ、その外側には魔獣の棲む森があり、さらにその森は塩辛い水で囲まれているのさ。

 水の上にこの大地が浮かんでいるといってもよいわえ」


 まさか!

 信じられない。

 だが、そうなのか。

 あの広大というのも愚かしい青いきらめき。

 あれがすべて水だというのか!


 だがそうであった。

 森の切れ目を通過すると果てしなく続く波打ち際があり、そこから向こうはすべて水の世界だったのだ。

 これほど大量の水がある、ということが信じられなかった。

 だがこれが世界の真の姿なのだ。

 自分たちが知らなかっただけなのだ。

 ここは魔獣も人間もいない世界だ。

 世界はこんなにも広かったのだ。


 バルドは言いようのない感激に包まれていた。

 もうこのまま命が果ててしまってもよい、とさえ思った。

 この素晴らしい眺めを見ることができた、それだけで生きてきたかいがある。

 それほどのものを、バルドは感じ取っていたのだ。


 飛べども飛べども水の世界は終わらなかった。

 どちらを向いても同じ景色だ。

 もはや水は水と思えず、大地そのものであるかのように思えた。

 それにしても、遮るものもなく、山や川もなく、均質に広がる無限の大地である。

 それはこの世ならざる光景だった。

 バルドは無理に首を伸ばして後方を見た。

 太陽神コーラマが西の空で水の上を低く遠ざかっている。

 西の空も水も赤く染まって暗黒神パタラポザをいざなっている。

 われわれはパタラポザの現れる方角に進んでいるのだ、とバルドは思った。

 この詩的な想像は、実のところ恐ろしいほどに正鵠を得ていたのだが、このときのバルドはそれを知るよしもなかった。

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