第4話 ハドル・ゾルアルス

 1


 モウラの話は、バルドに多くの示唆を与えた。

 中でも、人間に食べられた精霊も、初めのうちはちゃんと正常に復活していた、という話はバルドの心に強く残った。


 かつてモウラは、人間にかじられた精霊が妖魔になる、と言った。

 この場合の妖魔とは、魔獣を誕生させる狂った精霊のことだろう。

 人間にかじられる、とは人間に取り込まれた精霊、つまり精霊憑きとなってしまった精霊のことだろう。

 そこからバルドは、いったん精霊憑きとなってしまった精霊は、復活したとき必ず狂うのだと思っていた。

 また、ザリアは、人間と一つになった精霊はそれまでの記憶を失い、知恵も心も優しさも持たない狂った精霊として復活する、と言った。

 だから、人間に取り込まれた精霊は、例外なくただちに狂うのだと、バルドは思っていた。


 しかし、人間と一つになった精霊も、初めのうちは正常な精霊として復活したのだとすると。

 すべては違ってみえる。

 今まで思っていたこととは違う何かがそこにある。


 何かが起きたのだ。

 精霊を狂わせる何かが。

 その何かは、やはり人間が精霊を取り込んでいったことと関係があるのだろうか。

 あるはずだ。

 人間がこの地に降り立つまで、精霊は狂うということなどなかったのだから。

 何かが起きたのだ。

 この地に降りた人間が精霊たちを取り込むことを覚えたそのあとに。

 精霊たちを狂わせるような何かが起きた。

 それはジャン王と船長の戦いが終わったあとのことだろうか。

 それともその前のことだろうか。

 いったい、いつ、何が起きたのか。


 モウラとの話を終えたバルドは、モウラの父に案内されて一行と合流し、霧の谷を出た。

 そこから真西に向かった。

 順路からいえば南西に向かうところであるが、そうすればシェサの村の付近を通ることになる。

 それを嫌って西に迂回うかいしたのである。


「伯父御。

 ここからほんの少し北に回れば、例の滝のほとりではありませんか。

 今夜はあそこで野営をしましょう」


 四日目に、ゴドン・ザルコスがそう言った。

 反対する理由もなかったので、バルドはうなずいた。

 そして、滝のほとりに着いた。

 この前ここに来たのは七年前だった。

 バルドとゴドンとカーズとジュルチャガと、そしてドリアテッサが。

 あのときは秋だったが、今は春だ。

 木々や草の色は違うが、しかし静かで豊かな景色はあのときと同じといってよい。

 一行は、野営の準備を始めた。


「ここが、ドリアテッサ様がカーズ様の修行を受けた場所なのですね」


 たきぎを集めながらタランカがそう言った。

 バルドは、そうじゃ、と返事をしてから、はてなぜ知っておるのじゃ、と疑問に思った。

 クインタもゴドンに質問をしている。


「ゴドン様。

 カーズ様がバルド様に導かれて騎士の誓いをなさった岩棚というのは、どこですか」


「ん?

 おお!

 あれか。

 あれは、ほら。

 あそこに突き出した岩棚があるじゃろう。

 あの一つ下側の場所じゃ。

 よいしょ、と。

 ほれ。

 ここじゃ、ここ。

 この辺りでこちらを向いてカーズがひざまずき、この辺りで伯父御が先達を務めたのじゃ」


「そうですか。

 ありがとうございます」


「ちょっとちょっと。

 ドリアテッサ様の修行とか、カーズ様の誓いとか、何の話なのよ」


「ちょっと簡単には話せない」


「あとだ、あと」


 カーラの質問に、タランカとクインタが異口同音に答えた。

 野営の準備が調い、食事が始まった。

 食事が一段落したころ、カーラが改めて質問した。


「さっきの話、教えてよ」


「ああ、うん」


 タランカとクインタは目線を交わしたが、タランカが説明することになった。


「じゃあ、ちょっと長い話をしよう。

 バルド様が大陸東部辺境の、ここよりずっと南のほうにあるパクラのご出身だということは知ってるかな。

 今から八年前のこと、バルド様は引退して旅に出られた。

 ちょうどそのとき、パルザムの王都から勅使が訪れていた」


 タランカは物語った。

 バルドがジュルチャガと協力してコエンデラ家の陰謀を暴いて裏をかいたこと。

 その後、ゴドンと出会い、ジュルチャガも供に加わって辺境を旅したこと。

 その旅での数々の活躍。

 ドリアテッサとの出会いを。

 カーズの騎士の誓いを。

 長い話とタランカは言ったが、それは実によく整理された端的な物語で、さほど時間もかけず語り終えた。


「こうしてドリアテッサ様は、辺境競武会への出場資格を得て、ジュルチャガ様を伴って帰国なさった。

 バルド様たち一行はその後も驚くような冒険を続け、翌年の四月にはロードヴァン城でご一行は合流されるんだ。

 その辺境競武会でドリアテッサ様は総合部門で優勝という快挙を果たされる。

 細剣部門の選手が重装備の騎士を抑えて総合優勝するなど、かつてなかったことだという。

 それにも実は裏話があるんだけれどね。

 まあ、話はここまでにしておこう」


 カーラはといえば、あんぐりと口をあけて、目を見開いて話を聞いていた。

 よくなじんだものだ。

 もともとカーラはタランカやクインタに距離を置いていたし、タランカやクインタも怪しげな目でカーラをみていた。

 実際、カーラには何か隠していることがある。

 そもそもこの一行にカーラを加えたのも、目の届く所で見張っていようと考えたからだ。

 だが、アギスでのカーラの様子をみて、タランカとクインタの接し方は変わった。

 テンペルエイドや村人の治療をするカーラの様子をみて、バルドの見方も変わった。

 このおなごは悪い人間ではない、と思うようになったのだ。

 十八歳という若さにふさわしい柔軟さで、カーラは一行と親しさを増した。

 こうして話を聞いている様子も、もうすっかり打ち解けたものといってよい。


 それにしても。

 それにしても、タランカはどうしてバルドの旅のことを、こんなにも詳しく知っているのか。


「いやいや。

 驚いた。

 見事じゃ。

 伯父御のことを、よくもそこまで。

 いったい誰に聞いたのじゃ」


「ゴドン様。

 実は、本が二冊あるのです。

 一冊はドリアテッサ様がお持ちなのですが、『辺境の老騎士冒険譚』という本です。

 これは、ジュルチャガ様がゴリオラ皇国の皇宮前広場で語られたものを、吟遊詩人が書き取ったものが元になっているそうです。

 ゴリオラ皇国のある伯爵がそれを本になさったのですね。

 アーフラバーン様がこの前ドリアテッサ様にお土産にと持って来られました。

 私やクインタはそれを見せていただいたのです。

 もう一冊は、『バルド・ローエン卿偉績伝』という本です。

 これはパルザム王国で書かれた本です。

 前半部分は、辺境競武会の折にロードヴァン城で、ドリアテッサ様やジュルチャガ様や騎士マイタルプ殿が語ったものを、パルザム王国のある貴族家の家臣が書き取ったもので、後半部分はその貴族自身が見聞きしたバルド様の言行記録になっています。

 クーリ司祭様が秘蔵なさっておられるのを読ませていただいたのです」


 なんとあきれたことか。

 バルドの伝記が二種類も出来ているというのだ。

 だがジュルチャガが語った内容というのは、相当に脚色が効いていたはずだ。

 ところがタランカが語った内容は、事実に即したものといってよい。

 つまりタランカは物事の本質を正しく見抜く目と、それを客観的な言葉で表現できる能力を持っている。


「そうなんだ。

 でも、なんていう。

 なんていう英雄譚。

 こんな話が現実にあるなんて。

 で、続きは?」


「え?

 続き」


「そうよ。

 まず、その裏話っていうのを話しなさいよ。

 辺境競武会で何があったの?」


 結局、タランカは次から次へとバルドの物語を語った。

 辺境競武会での、カーズの、ドリアテッサの物語を。

 そしてバルド・ローエンが〈巡礼の騎士〉を歌い、居並ぶ騎士たちが唱和する物語を。

 カーラはそれでも満足せず、その次はどうなった、それからどうなったと、物語の続きを聞きたがった。


 求めに応じてタランカは語った。

 パルザム王国中軍正将に任じられてからのバルドの活躍を。

 コルポス砦の救援を。

 シャンティリオンとの民衆救済の旅を。

 そして三国合同部隊を率いてのロードヴァン城での凄絶な防衛戦を。


 はて、とバルドは思った。

 パルザムで出来た本というのがシャンティリオンのしわざだとは知っていたので、コルポス砦のことやそのあとの旅について書いてあるのは分かる。

 しかしロードヴァン城への魔獣大侵攻のことは、なぜ知っているのか。

 と考えて、すぐに気がついた。

 ナッツだ。

 ナッツ・カジュネルだ。

 ロードヴァン城でバルドの副官を務めたナッツ・カジュネルは、シャンティリオンが貸してくれたアーゴライド家の騎士だ。

 アーゴライド家に帰ったナッツは、出来事の顛末をシャンティリオンに報告したに違いない。

 まさかそのためにナッツを貸してくれたわけでもあるまいが。

 いや。

 もしかしたら、そうだったのか。


 タランカの話は続いている。

 シンカイ軍の中原への侵攻。

 ワジド・エントランテに任じられたバルドがこれをいかに打ち破ったかを。

 騎士ゴーズ・ボアの見事な最期を。


 皇王に招かれゴリオラ入りする直前でマヌーノの女王の招きを受けて姿を消し、その後クインタたち五人のみなしごを助けたこと。

 フューザリオンの創設と発展。

 シンカイ軍の再侵攻。

 ロードヴァン城に集った二十人の勇士たちを率いての物欲将軍との決戦。


 聞き続けるカーラはあぜんとして声もない。

 だがひどく話の内容に引きつけられている。

 話がマヌーノの女王に及んだとき、その瞳に妖しい光が浮かんだのを、バルドは見逃さなかった。


 タランカが話を終えると、先ほどからうずうずしていたゴドンが口を挟んだ。

 そして語った。

 バルドと二人きりであったころの旅の様子を。

 どんな村に行き、どんな冒険があったのか。

 三人兄妹の仇討ちの話を。

 月魚の沢での騒動を。

 ジャミーンの勇者との出会いを。

 クラースクでの悪徳商人の陰謀を。

 エンザイア卿の城での出来事を。

 ドリアテッサとの出会いを。

 ロードヴァン城に攻め寄せたゲルカストたちとの対決を。

 エングダルとの邂逅を。

 メイジア領での反乱鎮圧の顛末を。

 熱を込めてゴドンは語った。


 タランカの、そしてゴドンの物語る様子を聞きながら、バルドは不思議な心地がしていた。

 以前なら、こんな話を目の前でされるのは、たまらなくいやだった。

 だが今は、それほどでもない。

 それほどでもないどころか、むしろ好ましく思っている。

 なぜじゃ、と考えた。

 そして知った。

 自分の心のうちを。


 どうせバルドの余命はそう長くない。

 そのうち死んでしまう老いぼれだ。

 自分についてどうこういわれても、痛くもかゆくもない。


 だが。

 だが、である。

 バルドの物語を物語るということは、彼と冒険を共にした人々のことも語る、ということである。

 ザイフェルトの高潔を。

 ゴーズ・ボアの雄姿を。

 マイタルプ・ヤガンの奮戦を。

 見事な騎士たちの戦いぶりとあざやかな生き様を物語るということである。


 そしてまた、三人の兄妹の志を。

 偏屈な革鎧職人の技を。

 剣匠ゼンダッタの生き様を。

 市井に生き、輝きを放った人々の思い出を語るということである。


 そうした物語を、若い世代の者たちが語り、聞く。

 それはよいことだ、とバルドは思った。

 それらが人々の記憶から失われることなく語り継がれるとしたら、それはとてもよいことだ、と思った。


 そしてまた、バルドは思った。

 今回の旅の意味と目的をも、この若者たちに話しておくべきではないかと。

 今までは、旅の理由は話していなかった。

 不要な重荷を背負わせたくなかったからである。

 自分が追究している問題は他の人間には理解しにくいだろうということもあった。

 だがいくら理解しにくく興味を持ちにくいことであっても、話しておかなければそれだけのことだ。

 話しておけば、これから出合うものを、彼らなりに受け止めることができる。

 受け止め、判断し、味わうことができる。

 その可能性は与えておくべきだ、と思ったのである。


 だからバルドは、ゴドンが語り終えたあと、語った。

 精霊と魔獣の真実を。

 人間がこの大陸の先住者ではないことを。

 ジャン王の願いを。

 魔剣の歴史を。

 物欲将軍の背後にいた何者かのことを。

 マヌーノの女王からの贈り物のことを。

 マヌーノを操り、魔獣の大群を侵攻させた何者かのことを。

 見え隠れする竜人たちのことを。

 そうした真実を明らめ、まだ見ぬ敵と戦うため、この旅に出たのだということを。


 そしてまたバルドは語った。

 カーズ・ローエンの出自と、狼人王の国の滅亡のいきさつを。

 これは語り伝えてもらうためにではない。

 ただカーズはまだまだこれから長い時を生きるのだから、その秘密を知った人間もいてよいと思ったのだ。

 それにこれからクラースクに行く。

 その前に事情を話しておいたほうがよい。

 話し始めてカーズのほうを見たが、カーズは嫌がるふうでもなかった。

 ただ静かに聞いていた。

 タランカ、クインタ、カーラの三人は、食い入るようにバルドの話に聞き入った。

 ゴドン・ザルコスもまた、目を閉じ静かに話を聞いた。


 結局、バルドの話が一番長くなった。

 語り終えたときには、もう夜が明けていた。

 一行は、この滝のほとりで一日休憩することにした。


 昼に目を覚ましたとき、カーラが岩棚にぽつねんと膝を抱えて座っていた。

 しょんぼりした様子なのが気になって、バルドは近寄り、どうかしたのか、と声を掛けた。


「だって。

 だって、あんなの聞いたら。

 聞かせられちゃったら。

 あたしのしようとしてきたことなんか、ちっぽけすぎて。

 ちっぽけすぎて、おかしくて。

 いったい、あたし、何をしてるのかなあって」


 バルドはしばらく滝壺の水のせせらぎを見つめたあと、こう言った。

 物事に大きいことと小さいことの区別はある。

 じゃが大きいことだけが尊くて、小さいことはつまらない、ということはない。

 それぞれみんな尊いのだ。

 それにな。

 大きなことをなす人間は、小さなことを一つ一つ丁寧にするものだ。

 その積み重ねが大きなものを生み出すのだ。


 カーラはじっとバルドの言葉をかみしめていたようだった。

 バルドはバルドで、おのれの心の内を不思議な思いでみつめていた。


 どうして、わしの心はこんなにも朗らかで平静でそして満たされているのか。


 それは不思議なことだった。

 もうずいぶん長いこと覚えのないほどに、バルドの心は安らいでおり、静かな力であふれていた。

 しばらく考えて、答えが出た。

 それは、一人で抱えていた秘密を若者たちに話して聞かせたからなのだ。


 バルドには、今、二つの気がかりがある。

 一つは精霊の魔獣化はなぜ起きたのか、ということである。

 もう一つは、悪霊の王と呼ばれる存在と、それに使役されているという竜人のことである。

 この二つのことが相互に関わり合っているのかどうか、それは分からない。

 分からないが、関わり合っているということは、大いにありそうなことである。


 だが、それを知ってどうするのか。

 魔獣化を引き起こした問題が発見できたとして、それをこの一人の老人がどうにか解決できるわけなどあるだろうか。

 〈大地に根を張る者〉となったモウラは、魔獣化の謎を解き、精霊たちを助けてくれとバルドに頼んだ。

 しかしこんな老いぼれに、そんな大それたことができるはずがあるだろうか。


 また、悪霊の王なる存在は、かすかに知り得た断片からも、あまりに強大な敵だと分かる。

 おそらく大国の総力を挙げても滅することは難しいような、そんな巨大な相手だ。

 その途轍もない大敵に、徒手空拳で挑むというのか。

 シャントラ・メギエリオンを持つとはいえ、この剣の力は物欲将軍にさえ通じなかったのである。

 まったく戦いようなどないではないか。


 だから、バルドの心は重かった。

 精霊の問題と、悪霊の王の問題と、二つをただ一人で抱え、解決し打ち破らねばならないという絶望的な使命を持て余していたのだ。

 けれど、それをバルドは若者たちに話した。

 話すことによって解放された。

 それは、若者たちと使命の責任を分け合ったということではない。

 もともと誰かと分かち合えるような性質の問題ではないのだ。

 そうではなく、自分は自分としての戦いを戦えばよい、と踏ん切りがついたのだ。

 解決できない問題は、解決しなければいい。

 戦って勝てない相手には、勝たなければいい。

 ただ淡々と、知るべきことを知り、戦うべき戦いを戦うのだ。

 力及ばねば、倒れて死ねばいい。

 だが、バルド・ローエンがそんな戦いに向かったことを知る者がいる。

 その者たちのあとには、同じ問題と向き合うことになる者たちも続くだろう。

 そうしていつか魔獣化の問題が解決され、悪霊の王の脅威がなくなればいい。

 それはどんな道筋になるのか、今のバルドには見当もつかない。

 ただ未来を楽しみに、自分は自分の戦いを戦うまでだ。


 そうだ。

 若者たちに秘密を打ち明けることにより、バルドは未来と手をつないだのだ。


 2


 翌日、滝のほとりから旅立つとき、バルドはカーズに、クラースクに行くぞ、と言った。

 カーズは黙って小さくうなずいた。

 一行は西に進み、いったんボーバードに入った。

 塩と酒の残りが乏しくなっていたからである。

 それから南に下った。

 マジュエスツ領は迂回うかいした。

 というより人の集落には近づかずに進んだ。

 一行がクラースクに到着したのは、五月の中旬のことである。

 フューザリオンを出てから一か月半が過ぎていた。


 3


 今までカーズは、クラースクの街を避けていた。

 それはもっともなことである。

 クラースクは、ザルバン公国の遺民たちが作った街なのである。

 亡国の王子であるカーズは、この街の人々と顔を合わせづらい。


 二十七年前、ザルバン公国は、シンカイとその同盟国に攻め込まれた。

 そのときザルバンの最後の抵抗拠点となったのが、南部の街ファロムだった。

 ファロムの領主であったハドル・ゾルアルス伯爵は、パルザム軍の代表として救援に駆け付けたライド伯爵と策を練った。

 そして君主である大公家一族を滅ぼして生き残った民を救うという、苦渋の決断をした。


 パルザムは形式だけは整った宣戦布告をして、騎士による代表戦を行った。

 パルザム側の代表が勝利し、ザルバンは降伏した。

 この事実をもって、シンカイ国の、物欲将軍の征服者としての権利と対抗したのである。

 もつれた協議の結果、侵攻に参加した国々はザルバンの山々を分割して得ることになり、ザルバン大公一族は残らず死ぬことになった。

 その代わり、生き残った民はみのがされたのである。


 みのがされたといっても、国と財を失った人々の先行きは絶望そのものだったろう。

 ハドル・ゾルアルスはその人々を率いて辺境に落ち延び、クラースクの街を作ったのである。

 それはどれほど過酷な道のりであったろうか。

 おそらく、大勢の人々が道行きの途中で倒れていったに違いない。


 カーズは、おのれの民を守れなかった男なのだ。

 物欲将軍に打ち負かされ、国を蹂躙させた男なのだ。

 クラースクの人々に合わせる顔はない、と思っているに違いない。

 しかも、である。

 カーズは、〈分けられた子〉なのである。

 カーズは、エニシリトルグと同じ母から同時に生まれた。

 そして同じ場所にあざがあった。

 大公家の跡取りが〈分けられた子〉であることは、絶対に許されない。

 だからカーズはただちに殺されねばならなかった。

 けれどもカーズは〈先祖返り〉でもあったため、生き永らえた。


 呪われた自分が生き永らえてしまったがために、国は滅んでしまったのではないか。

 きっとカーズはそう思い続け、自分を責め続けたはずだ。


 カーズは〈先祖返り〉であり〈分けられた子〉であったから、国民一般からは隠されていた。

 だが一部の高位貴族はその存在を知っていた。

 ハドル・ゾルアルス伯はまさにカーズの存在も顔も知っている人物なのだ。

 いったい、ハドル・ゾルアルス伯爵は、カーズのことをどう思っているだろう。

 バルドはこの傑人に、二度会ったことがある。

 このような年の取り方をしたい、と思わせる騎士であった。

 器量の大きな人物である。

 しかしカーズのことをどう思っているかは分からない。


 呪われた子が生き永らえ、〈王の剣〉として国の守りにあたったことが、逆に国の滅びを呼んだと憎んでいるかもしれない。

 ハドル・ゾルアルスはザルバン最後の宰相となり、亡きエニシリトルグの長子であるスワハルトルグを大公位に就けた。

 そのわずか十三歳の大公スワハルトルグに、毒を飲んで死ねと告げたのもハドル・ゾルアルスだ。

 もう一人の〈王の剣〉たるカントルエッダに自刃を迫ったのもハドル・ゾルアルスだ。

 その無念はいかばかりであったことか。

 民を率いての流浪は、どれほどの苦難であったことか。

 辺境に街を作る労苦は、想像も及ばない。

 そして豊かになった今になって、カーズが姿を現したとして、ハドル・ゾルアルスはどんな顔をみせるだろうか。


 ハドル・ゾルアルスは知っているだろうか。

 カーズが中原に散って苦しんでいたザルバンの民をみつけては助け、クラースクに送っていたことを。

 そういう働きをしている者がいるということは気付いていただろう。

 だがそれが〈分けられた子〉たるカーズのしわざだとは、気付いたかどうか。

 そもそもカーズは表向きは死んだことになっている。

 カントルエッダが真相を告げない限り、ハドル・ゾルアルスはカーズの存命を知らない。

 死んだはずだ、と思っているかもしれない。

 そのカーズが姿を現したとき、ハドル・ゾルアルスはどんな反応を示すか。


 ハドル・ゾルアルスに対面するということは、カーズにとっては非常につらいことであろう。

 それでも、会っておくべきだ。

 カーズの心に巣くっていた赤い死の鴉の影を完全に振り払うには、ぜひ必要なことだ。

 今までは、それはできなかった。

 カーズがクラースクを訪れれば、ザルバン大公家の血筋の者が生きていたことが明らかになってしまうおそれがある。

 ザルバン大公家の血筋は断絶させる、というのがザルバン戦役での戦勝国同士の申し合わせだ。

 そしてハドル・ゾルアルス伯は、敗戦国たるザルバンの最後の宰相として、その申し合わせを承認し誓いを立てた責任者だ。

 申し合わせを遵守する義務がある。

 戦勝国側も放置できないだろう。

 平和なクラースクが、そのために新たな戦乱や面倒に巻き込まれないとも限らなかった。

 だが、物欲将軍が死に、シンカイが中原諸国の敵対国となって敗退した今なら。

 これだけの時間を経た今なら。

 カーズはクラースクを訪れることができる。

 それは、ののしられるための訪問となるかもしれないが。


 ハドル・ゾルアルス伯爵は生きているだろうか。

 もう九十歳ほどになるはずである。

 生きていてくれ、とバルドは祈った。


 4


 クラースクに着いたのは夕刻だった。

 そのまま伯爵を訪ねたかったのだが、なにしろこの街では許可を得た者以外町中では馬から降りて歩かねばならない。

 夕刻にもかかわらず市街は混雑していた。

 以前にも増して繁栄している。

 市街区そのものも広がっている。

 一行は宿を取り、翌朝早く出かけた。

 宿でそれとなく訊いたところ、伯爵は健在であるらしい。

 領主館に着き、バルドとゴドンの名で面会の希望を告げた。

 ほどなく離れに案内された。

 庭を通る途中、庭園の工事の監督をしていた男が、じっとカーズを見つめていた。


「伯爵様はご体調がすぐれませんので、ベッドに入ったままでお客様をお迎えするご無礼をお許しいただきたい、とのことでございます」


 との案内人の言葉通り、案内されたのは寝室だった。

 部屋に通された一行を、伯爵が迎えた。

 前に会ったときより、一回り小さくなったようだ。

 豊かだった白髪は、もうわずかしか残っていない。

 それでも、肌の色は健康だ。

 ベッドから半身を起こして、バルドとゴドンに笑みを向けてきた。

 目も落ちくぼんでいるが、快活な光は失われていない。

 と、三番目に入ったカーズの姿を見て、そのまなこは大きく見開かれた。

 伯爵の目はカーズにくぎ付けである。

 やがてその口から、しわがれた、しかし毅然とした声が発せられた。


「者ども、部屋から出よ。

 キズメルトルは残れ。

 しばらく誰もこの部屋に近づいてはならん。

 ノアを呼べ」


 伯爵の指示を受けて、部屋の中にいた小間使いの娘や薬師風の男が部屋を出て行った。

 残った騎士には見覚えがある。

 前にも伯爵にはべっていた騎士である。

 一行の全員が部屋に入ったあとも、伯爵の眼差しはカーズの上にそそがれている。


「キズメルトル。

 ベッドから降りる。

 手伝え」


 その指示を聞いて騎士はかすかに驚きを顔に浮かべたが、言われた通りに伯爵がベッドから降りるのを手伝った。

 騎士は近くの椅子に伯爵を誘導しようとしたが、伯爵は床に膝を突いて、カーズに跪拝きはいした。

 騎士はその姿を見てはっとし、伯爵の後ろから、やはり膝を突いてカーズに礼を取った。

 もう一人の騎士がドアから入って来た。

 やはり前にも伯爵に近侍していた騎士だ。

 二人の様子を見て、それにならった。

 バルドとゴドンはカーズに道を譲った。

 カーズは伯爵の眼前に進んだ。


「伯爵。

 苦労をかけた。

 許せ」


 その短いカーズの言葉に込められた万感の思いを、バルドはかみしめた。

 ゴドンも、タランカも、クインタも、そしてカーラも同じであろう。


「いえ。

 いえ」


 首を振る伯爵の目からはぽたぽたと涙があふれ出て、床に落ちている。


「ヴリエントルグ様。

 あなたさまが。

 あなたさまがご無事であることが、このハドルの唯一の希望でございました。

 カントルエッダ様から、あなたさまのことはお聞きしていたのでございます。

 あなたさまがご無事であることを知っておりましたから、エニシリトルグ様を失ったことにも耐えられたのです。

 スワハルトルグ様に毒の杯をお勧めし、自らは生き残る不忠にも耐えられたのです。

 あなたさまが。

 あなたさまがおわせば。

 狼人王様のご血胤は絶えることがないのでございますから」


 カーズは目を閉じた。

 伯爵の言葉を、頭の中で反芻はんすうしているのだろう。

 そしてこう言った。


「俺の身の呪いが、国にあだをなした。

 伯爵にも民たちにも、つらい運命をもたらした」


 伯爵は、首を振ってカーズの言葉を否定した。


「いえ、いえ。

 その呪いは解かれました。

 エニシリトルグ様が逝かれたのですから。

 あなたさまは、大公家の唯一の正統とおなりになったのです。

 いや、そうではありません。

 大公国が滅びても、なおその正統が滅せぬよう、神々はあらかじめおはからいくださったのです。

 あなたさまがお生まれになったことこそが、未来への祝福だったのではございますまいか」


 この思いもよらぬ嘉言かげんを、カーズは目を見開いて聞いた。


「それに、あなたさまは。

 あなたさまは。

 ご自身が苦境にあられるというのに。

 何もかもを失われた絶望の身であられるというのに。

 苦しむ民を見つけては助け、この街に送ってくださったではありませんか。

 新しいザルバンの遺民がたどり着くたびに、このハドルは大陸のどこかでただ一人身を捨てて働きなさっておられるあなたさまに感謝の祈りをささげておったのでございます」


 やはり気付いていたのだ。

 カーズの献身に。

 伯爵は言葉を続けた。


「けれど、ああ。

 お許しくださいませ。

 わたくしめは、あなたさまの民を奪いました。

 ここに率いてきた民たちには、もうザルバンはないのだ、お前たちは新たなクラースクの民となるのだと教えました。

 息子にも、孫にも、そのように教えてきました。

 また、ここには、新たに参入してきた者たちも数多くございます。

 もはやこの街は、ザルバンのものではありませぬ。

 あなたさまを君主としてお迎えすることはできないのでございます」


 この告白に、カーズは優しく答えた。


「それは、よい。

 それでこそ、よい。

 俺ももう過去は捨てた。

 バルド・ローエン卿の養子となり、カーズ・ローエンとの名を授かった。

 古き名は捨て、古き名のもとになした誓約もまた捨てたのだ」


「カーズ・ローエン!

 あなたがそうでございましたか。

 中原の様子には、いつもまなざしをそそいでおったのでございます。

 特にかの怪物将軍が中原侵攻に乗りだし、バルド殿とそのご一統に阻まれる様子には。

 ああ、そうでございましたか。

 バルド殿のご養子に。

 ああ、善哉ぜんざい

 善哉」


「伯。

 身を起こせ。

 ベッドに戻れ」


「いえ。

 まだ申し上げることがございます。

 こちらに控えます二人の騎士は、キズメルトル・エイサラと、ノア・ファクトにございます。

 この二人はクラースクの騎士ではございません。

 わたくしめの子飼いにして、その忠誠を捧げるは狼人王のお血筋、すなわちあなたさまにございます」


 なんと伯爵は、いつ会えるかも分からない、いや会えるかどうかも分からないカーズのために、この二人の騎士を育てていたというのだ。

 二人とも壮年だ。

 並々ならぬ練達の騎士であることは以前から感じていた。

 その物腰も立派なもので、どこの王国の上級騎士かと思わせる雰囲気を持っている。

 しばらく伯爵とカーズは言葉をかわし、カーズが今フューザリオンを根拠地としていること、今だ妻も子も持たないことなどを話した。また、今はある目的のために旅をしており、しばらくのあいだはフューザリオンに帰らないことなども話した。二人の騎士はそれぞれの郎党を連れてフューザリオンに行き、カーズの帰りを待つことになった。

 二人の長男はそれぞれ騎士見習いであり、伯爵はみずから騎士叙任を行ってから送り出したいという。

 カーズは二人の騎士とも言葉を交わし、打ち合わせをしたのだが、二人の騎士のカーズに対する態度には深い敬愛の念が感じられた。


——カーズよ。お前の無言の献身は無駄ではなかったのう。お前がザルバンの遺民たちに身を捨てて尽くしたことを、この二人も知っておるのじゃ。


「カーズ・ローエン様。

 あなたさまにお願いがありまする。

 妻を娶られ、子をなしなされ。

 を」


 強い目線でカーズを見上げながら、伯爵は最後にそう言った。

 しばらくの沈黙ののち、カーズは、


「分かった」


 と返事をした。


 5


 一行は客棟に案内され、休憩をした。

 その夜は歓待を受けた。

 なんと床に伏していたはずの伯爵も起き出してきて、宴席に座った。

 主賓はバルドとゴドンであり、カーズはバルドの息子として扱われた。

 その席に集った人のうち何人がカーズの正体を知っていたのかは分からない。

 ただし、カーズは、物欲将軍を二度も倒した騎士の一人である。

 クラースクはザルバンの遺民により作られた街であり、この夜宴席に集った人々は、物欲将軍への恨みを強く抱く人々である。

 カーズは、まさに英雄として遇された。

 この夜カーズは、勧められる杯を残らず受けた。


 宴が果てて客棟に向かうとき、その通り道ぞいに庭に控える者たちがいた。

 見れば先頭にいるのは朝、庭の造作の指図をしていた男である。

 その横にいるのは妻と子たちであろうか。

 そこには何十組もの家族が地に伏していた。

 カーズを拝んでいるのだ。

 おそらく彼らはカーズに救われ、このクラースクに安住の地を得た者たちだ。


 ザルバン公国が滅びたあと、カーズは大叔父カントルエッダの遺言に従い、復讐を諦めただ剣を磨くことに没頭した。

 そんなとき、ザルバンの遺民が中原のあちらこちらで奴隷同然の、あるいは奴隷そのものの暮らしをしていることを知った。

 カーズは彼らを捜し出しては助け、路銀を渡してクラースクに行かせた。

 ハドル・ゾルアルス伯爵の手の者だと称して。

 実際にはカーズは伯爵から依頼されたわけでもなく、その資金も身を削って稼ぎ出したものだったのだが。

 救われた人々はクラースクにたどり着き、伯爵に感謝を述べたろう。

 それに伯爵が何と答えたかは知らない。

 カーズの正体に見当がついたとしても、まさかそのことを公言したりはしなかったろう。

 けれど助けられた人々は、お互いに話し合ううちに、何事かに気付いたのだ。


 十数年にわたり、ザルバンの遺民を捜し出し助け続ける人がいる。

 少々の資金を預かったぐらいではなし得ないことである。

 相当の無理をしながら、それをなし続けてくれている。

 たった一人で。

 何かいわくのある人なのだろう。

 本来は身分もある人なのだろう。

 その人の孤独な献身により、自分たちは救われたのだと。


 言葉を発する者はいない。

 彼らは、カーズには何事か事情があり、本当の名を訊いてはいけないのだと感じ取ったのだろう。

 うかつに言葉をかわしてはいけない事情があるのだと察しているのだろう。

 だからただ無言で感謝を捧げているのだ。

 カーズはしばらくのあいだ立ち止まって彼らの顔を見渡した。

 そして、


「息災にな」


 とひと言を残してその場を去った。

 翌日バルドは革防具職人ポルポを訪ねた。

 するといきなり革鎧を脱がされ、取り上げられた。

 補修のためである。

 この補修には五日間を要し、結局バルド一行は七日間領主邸の客となったのである。

 カーズはこの時間を利用して、タランカとクインタにみっちり稽古をつけた。

 これは領主邸の騎士や従卒たちの評判を呼び、日に日に見学者は増えた。

 キズメルトルとノアの頼みにより、二人の長男ツルガトル・エイサラとダリ・ファクトにも稽古をつけた。

 カーズに指南を申し入れるだけあり、二人の若者は素晴らしい剣士だったらしい。

 らしいというのは、バルドはその稽古ぶりを見ていないからである。

 では何をしていたかというと、バルドはゴドンを連れ、クラースクの街の名物料理店をめぐり歩いていたのだ。

 カーラもちゃっかりとこれに同行したのである。

 八日目の朝、すっかり新品同様に補修された革鎧を着けたバルドは、一行を引き連れ、なかなか盛大な見送りを受けて、クラースクの街をあとにした。

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